シエラネバダ山脈越えの有料道路
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「カリフォルニア・トレイル」の記事における「シエラネバダ山脈越えの有料道路」の解説
シエラネバダ山脈越えの有料道路で当初大きな注意を引いたものは1859年にワズホー地区のバージニアシティとコムストック・ロードの鉱脈だった。ここは急速に発展し、1860年頃以降、どのくらい金や銀の鉱脈があるかが分かり、鉱山、数千人の鉱夫およびそれを支援する者達に支給する数千トンの物資を購入する為に何百万ドルもの投資を要求した。当時のネバダにはほとんど何も無かった。さらに精錬所が建設されるまでは、高品質の鉱石が精錬のためにカリフォルニアに積み出された。そこの金と銀の鉱石は、いくつもの鉱山から掘り出されるので、大規模な鉱業操業を発展させることを必要とした。銀を取り出すために新しい技術、ワズホー・プロセスの開発が必要とされた。しばしば地盤が弱かったので、坑道を支える新しい技術も必要とされ、四角に組んだ木材による支持構造のために大量の木材が必要とされた。坑道から毎日何百万ガロンもの水が汲み上げられたので、大型の蒸気駆動コーニッシュ・ポンプと重量が150万ポンド (675 ton) 以上になる長さ3,000フィート (900 m) 以上のポンプ軸がつき、それを回転させるために1日33コード (120 m3) の薪が使われた。さらに鉱山の揚重機や精錬機を動かす蒸気エンジンのために大量の薪が使われた。冬季の暖房のためにもさらに数千コードの薪が使われた。これら数千コードの薪はすべて輸送してくる必要があった。金や銀の発見はどのような開発や輸送のコストにも引き合うものだった。この時の20年間で、3億ドル(1880年のドル価格)以上の価値がある金と銀が掘り出された。1850年から難しい地形や流れに沿った移民の道が改良され、有料道路と橋に置き換えられた。これらは企業家や幾つかの都市が建設し出資した。 シエラネバダ山脈越えの有料道路として当初、カリフォルニア州ネバダシティからネバダ州バージニアシティに至るヘネス・パス・ルートと、カリフォルニア州プレーサービルからタホ湖およびカーソン山脈を経てバージニアシティに至るプレーサービル道路(ジョンソン・カットオフあるいはタホ馬車道とも呼ばれた)という2つの主要な道が開発された。ヘネス・パス・ルートはメアリーズビルとネバダシティからの出資25,000ドルで部分的に造られた。プレーサービル道路は約100マイル (160 km) の行程で幾らかは短く、1856年に建設されたサクラメント・バレー鉄道でサクラメントから約23マイル (37 km) のフォルソムまで荷物を運べるという長所があった。この荷物は荷馬車に積み替えられプレーサービルまでの良い道路を進み、さらにバージニアシティまで運ばれた。1861年から1866年の絶頂期、これら道路の改良に多額の金が投ぜられ、道路の建設や維持にあたる労働者および大体10マイル (16 km) ごとに置かれたサービスセンターの従業員には給与が支払われた。当時の標準的賃金は労働者や御者で1日1ドルから2ドルだった。役獣は1日数ドルで借りられた。小峡谷や車の轍は埋められ、排水溝が付けられ、道路の軟らかい部分には砂利が敷かれた。荒れた地点は平らにされ、丘を回りこむために切り通しが造られ、流れやキャニオンには橋が架けられた。道を作り維持するための道具と言えば、鶴嘴、ショベル、鍬、斧、手鋸といったものであり、人間の大量の汗と共に黒色火薬や一輪車も使われた。使える力は人間、牛あるいは鋤や荷車を曳くロバであり、ロバによる土砂運搬車もあった。毎年春には冬季の間の破壊や雪解け水による被害のために莫大な修繕費用が必要とされた。 夏の日中は、十頭までのロバに曳かせて東西に向かう重い荷物を積んだ荷車で何マイルものあいだ込み合った。西に向かう車の大半は空だった。離合のために道路のあちこちに離合点が設けられた。推計では約2,000人の御者が約2,500両の荷車を動かし(御者によっては2両あるいは3両の荷車を曳かせた)、約12,000頭のロバが使われた。もし各荷車が道路の約100フィート (30 m) を占領し、1,000の組があるとした場合、少なくとも20マイル (32 km) の道路が埋められたことになった。ヘネス・パス・ルートあるいはプレーサービル道路の往復およそ200マイル (320 km) で、荷車では約16日間掛かった。 郵便と乗客を乗せる駅馬車は鈍い(3マイル/時間、5 km/h)荷車の交通を避けるために通常夜間に走った。プレーサービル道路を走る「パイオニア駅馬車会社」では12両の馬車と600頭の馬を擁し、1日平均37人の乗客を運んだ。馬は10ないし20マイル (16-32 km) ごとに取り替えられ、プレーサービルからバージニアシティまで往復18時間で走った。強盗や馬車の破損などの事故がどちらのルートでも偶に起こった。1864年の駅馬車の収入は、当時の新聞に拠るとプレーサービル道路で乗客1人27ドルとして約527,000ドルと推計される。ヘネス・パス・ルートの「カリフォルニア駅馬車会社」と「ネバダ駅馬車ライン」は乗客の数が幾分少なかった。両ルート併せ郵便料も含めると、1864年の収入は100万ドルを越えると推計される。バージニアシティまでの荷物配達料は1トンあたり約5セントとして、1862年で約280万ドルとなる(セントラル・パシフィック鉄道代理人の推計)。これら有料道路から上がる純利益はおそらく10%以上、すなわち約30万ドルであり、駅馬車は10万ドルだったと見られる。プレーサービル道路とヘネス・パス・ルートには散水車もあり、日中は3時間ごとに道を湿らせ、埃や道の破損を最小にした。プレーサービル道路には93のホテル、駅馬車中継駅、宿泊所があり、ヘネス・パス・ルートも同様で、およそ10マイル (16km) ごとにあった。プレーサービル道路は冬季も運行できるようにされ、一時的な暴風雪のときのみ閉鎖された。 1864年7月、ダッチ・フラット・ドナー湖有料馬車道が後にセントラル・パシフィック鉄道が使うことになるドナー・サミット越えのルートを使って開通し、競合者となった。このルートは当初のトラッキー・トレイルの大半を使っており、大きな違いといえば、大量の労働力を使って道を真っ直ぐにし、険しい坂道や主要な障害物を抜けるために丘の中腹を切り開いたことだった。当初のトラッキー・トレイルが険しいキャニオンに降ってベア川尾根に到達するダッチ・フラットの下流では、荷車の運行を妨げる多くの急な尾根を切り開いた。フラットという名前にも拘らず、難しい地形にあったので、ダッチ・フラット(サクラメントの東約60マイル (100 km))まで鉄道線路の末端が伸びたのは1866年7月4日のことだった。この有料道路は投資額20万ドル(1864年ドル価格)、350人の労働者と多くの役獣を投入して10か月で造られた。当初は鉄道の末端(当時はニューキャッスルで、サクラメントの東約30マイル (50 km))からドナー・サミット越えでネバダ州ベルディに至っており、そこからヘネス・パス道路に合流してバージニアシティに至るものだった。このルートは「カリフォルニア駅馬車会社」がプレーサービル道路よりも3時間速く(所要約17時間)、他のルートよりも高度が低くて道幅が広い(20フィート (6 m))と宣伝した。この新しい有料道路は、新しい鉄道が建設中であってもその物資を運ぶ必要性を賄うことで現金を稼げるように開発された。鉄道の建設がシエラネバダ越えを目指して進むにつれて、貨物は鉄道の末端近くで荷車に積み替えられ有料道路を使って目的地に届けられた。鉄道がドナー・サミットを越えて(1868年12月)トラッキーやその先に入ると、バージニアシティやワズホー地区への貨物は緩りと鉄道に振り替わっていった。現在の州間高速道路80号線はほぼ同じ経路を辿っており、北カリフォルニアにおけるシエラネバダ越えの幹線となっている。 シエラネバダ越えのほとんど全てのルートで改良のために通行料が取られた。しかし2つ(後には3つ)の主要有料道路が開発された後の他の道路は比較的使われなくなった。サクラメントからバージニアシティまで2,000ポンド (900 kg) の荷物を運ぶ荷車の往復料金は約25ドルから30ドルであり、動物が6頭より多いときは通常の1頭1.5ドルに追加料金、橋を通る時にも追加料金があった。州も連邦政府もシエラネバダ越えのための「良い」道路に援助を出さなかった。幾つかの郡が建設を助け、運行権を認めたので、有料道路の運営者は最小の競合で良い道路や橋を建設して維持できた。通行料を不満に思う者もいたが、道路の利用者道路の改良と維持のために金を払い、この時代の納税者は概して、良い「無料」道路に大きな費用をつぎ込むことは好まなかった。 シエラネバダ越えのほとんど全ての荷車運送と駅馬車は、1869年にセントラル・パシフィック鉄道とバージニア・アンド・トラッキー鉄道が開通したときに運行を止めた。このときも続いていたコムストック・ロードの鉱山や町に向けて大量の坑道用木材や数千コードの薪材の需要が唯一大きな例外であり、そのために狭軌の鉄道まで造った。まだ鉄道が来ていない町では荷車や駅馬車が必要とされ使われていた。諸郡によって設立された最初の「ハイウェイ」は1886年に諸郡が買い上げ「無料」道路にされたプレーサービル道路だった。州政府によって設立された最初の「ハイウェイ」はプレーサービル荷車道であり、1896年に買い上げられた後にシエラネバダ越えのアメリカ国道50号線になった。 シエラネバダ越えの道路は1900年代初期まで次第に廃れて行くに任されていたが、自動車時代の到来によって良いシエラネバダ越えの道路の需要が復活した。
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