ジョンソン・カットオフ(プレーサービル・ルート)
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「カリフォルニア・トレイル」の記事における「ジョンソン・カットオフ(プレーサービル・ルート)」の解説
ジョンソン・カットオフ(1850年-1851年建設、プレーサービル・ルートとも呼ばれた)は、ネバダ州カーソンシティからカリフォルニア州プレーサービル(当時はハングタウンと呼ばれた)までの道路であり、カーソンシティの近くはカーソン・トレイルの一部を使っていた。このカットオフは1850年から1851年頃にプレーサービルのジョン・カルフーン・ジョンソンによって開発された。カーソンシティを出てコールド・クリーク(キングス・キャニオン道路経由)を辿り、標高7,150フィート (2,180 m) のスプーナー・サミットを越えた。一旦タホ湖近くに出て、湖に突き出ている岩の多い山脚のあるかなり険しい尾根を登ることを強いられ、さらに沼地の場所もあった(現在のアメリカ国道50号線はどちらも解決している)。湖の南端に達すると、エコー湖近くで進路を西に変え、急坂を登って標高7,400フィート (2,260 m) のエコー・サミット(ジョンソンズ・パス)でシエラネバダ山脈を越えた。ジョンソンズ・パスからの急な下りはサウスフォーク・アメリカン川のスリッパリー・フォードまで続いていた。そこからは、川に沿って西進し、ストローベリーから今日のカイバーズに出て、川の北岸に渉り、約1,400フィート (430 m) 登ってピーバイン・リッジに至り、その尾根を伝って川の岩の多い所を回りこんだ。ピーバイン・リッジから降りると、アメリカン川の南支流をパシフィックハウス近くで渡った。現在のカリフォルニア州ポロック・パインズ付近からは尾根に沿って川の南岸をプレーサービルに到着した。ジョンソンのルートはシエラネバダ山脈越えの主要路として大きな競争力があるものになった。この経路はかなり改良と修正が施され、冬季でも少なくとも間歇的に通行できるようにされたので、年間を通したシエラネバダ山脈越え経路として主要なものの1つになった。 1855年、カリフォルニア州議会は「シエラネバダ山脈越えの荷馬車道路を建設する法」を成立させ、そのための100,005ドルの予算を確保した。シャーマン・デイ(非常勤でカリフォルニア州上院議員としても働いていた)が可能性のある経路の調査員に指名された。デイは広範な調査を行った後に、プレーサービル・ルート(ジョンソン・カットオフ)を最も見込みがある経路として推薦し、改良経路の測量を行った。不運なことにカリフォルニア州最高裁判所が1856年に、この法は州憲法で住民投票無しには許されない負債額30万ドル制限に違背しているので違憲だと裁定した。道路の推進派はがっかりしたが負けてはおらず、エルドラド、サクラメントおよびヨロの各郡から道路建設のために5万ドルを集めた。契約が行われ、サウスフォーク・アメリカン川の新しい橋(11,300ドル)ができ、ピーバイン・リッジの山腹道路は川より100ないし500フィート (30-150 m) 上に上げて、急な上り下りを避け、ジョンソンズ・サミット(エコー・サミット)に登る新しい道を作り、レイク・バレーに降りる急峻ではない道も造った。新しいルートは「デイ・ルート」と呼ばれた。冬季とそれに伴う流出水で道路は大惨事になり、1860年春に群衆がバージニアシティに向かおうとしたとき、何とかまずまずの道ができたと報告された。1860年以降、道路はバージニアシティの鉱山に向かう有料道路として広範に改良された。現在はアメリカ国道50号線がほぼこの経路を通っている。 1860年から1861年にポニー・イクルプレスがダゲッツ・パスとジョンソン・カットオフを経路に使って冬季でも郵便を配達した。
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