イル川渡河戦とは? わかりやすく解説

イル川渡河戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:40 UTC 版)

ガダルカナル島の戦い」の記事における「イル川渡河戦」の解説

詳細は「イル川渡河戦」を参照 一木清直大佐率い大本営直轄一木支隊第7師団歩兵第28連隊基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊充当されていた部隊であったが、1942年6月ミッドウェー海戦日本軍敗退したことで攻略作戦中止となり、一時グアム島休養兼ねて留め置かれていた。同年8月7日連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属解除されそのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦陽炎以下6隻に第1梯団ていだん)として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中420名(軽機関銃36擲弾筒24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中150名が乗船し急派されている。支隊残りは、海軍横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノット低速災いし、イル川渡河戦(アメリカ名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川現地名で、日本軍中川呼称テナル川イル川東方位置し日本軍通称蛇川)。このほか横須賀第5特別陸戦隊先遣部隊高橋中隊)が駆逐艦により輸送され8月16日上陸成功して設営隊などと合流している。 駆逐艦輸送であったため、一木支隊実質、1個大隊当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出腐心している」などといった海軍11設営隊、や駐ソ武官情報などがあった。大本営海軍部では当初本格的な上陸考えていたが、前記情報から主力撤退した誤認する至った。そのため、第1梯団軽装1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行し海軍部隊保護して、ただちに敵を攻撃する方針決定する8月18日ガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指し前進した海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み20日夕刻頃までにはテナル川越えてイル川西岸地域まで到達している。当初の構想では海軍11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き、飛行場所在していると思われる残存兵力攻撃することとしており、一木大佐飛行場から3キロ離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。 日本軍とは対照的にアメリカ海兵隊18日コーストウォッチャーCoastwatchers)の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸察知していた。19日昼には、倒した日本軍斥候階級章から、タイボ岬に上陸した日本軍陸軍部隊であることに気づき20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸防備固めていた。 8月20日18:00イル川越えて先行していた将校斥候渋谷大尉・館中尉ら)34名中31名が、アメリカ海兵隊攻撃により戦死憂き目遭った。2時間後に生還した兵士から報告受けた一木大佐激高し不明将校捜索命じるに当たって行動索敵攻撃」を各中隊命じている。2100頃には、一木支隊尖兵中隊イル川西岸思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部合流した2230から歩兵砲砲撃合図イル川渡河決定火力の差は明白で、M3 37ミリ対戦車砲M1A1 75ミリ榴弾砲M2A1 105ミリ榴弾砲などを有する強力な砲兵援護され機関銃座陣地前に100名余の損害出して一旦攻撃停止する敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃命じて同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度200名を越す損害受けたとされるまた、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃とりわけ迫撃砲による砲火苛烈極め日本軍の反撃渡河成功した一握りの兵による軽機関銃手榴弾による攻撃とどまった一部将校は一旦後退することを具申したが、一木大佐攻撃続行した遺体画像あります表示クリック表示21日午前5時頃、一木大佐イル川左岸海岸部残兵集め状況把握努めたが、夜明けとともに敵機上空舞い始め陸上からは海兵第1連隊イル川越えて一木支隊退路を断つように迂回攻撃仕掛けてきたため、包囲され一木支隊苦戦陥った同日午後から投入されスチュアート軽戦車6輌により支隊本部蹂躙じゅうりん)され、一木支隊壊滅した海岸波打ち際追い詰められ兵士は、執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。海岸での海兵隊による掃討戦は、21日14時には概ね終了し意識不明負傷兵15名が捕虜となった結局8月25日までに生きて上陸地点タイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、790名(戦死者行方不明者777名、捕虜15名)の損害出して戦い終わったアメリカ軍損害戦死者40余りとされている。戦死者数日本公刊戦史より捕虜アメリカ側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない支隊一木大佐21日戦闘戦死した思われるが、その状況不明である。 ちなみに戦闘開始時に総員背嚢遺棄命じられたため、早くも一木支隊残存兵は、飢餓悩まされるようになった一方アメリカ軍もまたこの戦闘による消費物資弾薬枯渇表面化しつつあったが、戦闘後輸送船団による物資増援兵力輸送成功して危機去り、この時点において兵站面での勝敗決していた。 8月20日ヘンダーソン飛行場海兵隊ワイルドキャット19機とドーントレス12機が到着して航空基地としての機能スタートした。後に空母エンタープライズサラトガワスプ艦載機パイロット母艦戦闘損傷し修理のため使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃した。

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