イル川渡河戦
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「ガダルカナル島の戦い」の記事における「イル川渡河戦」の解説
詳細は「イル川渡河戦」を参照 一木清直大佐率いる大本営直轄の一木支隊(第7師団の歩兵第28連隊を基幹とする)約2,300名は、当初ミッドウェー島攻略部隊に充当されていた部隊であったが、1942年6月のミッドウェー海戦で日本軍が敗退したことで攻略作戦は中止となり、一時グアム島に休養を兼ねて留め置かれていた。同年8月7日の連合軍ガダルカナル上陸が始まると内地転属が解除され、そのままトラック諸島へと輸送された。トラック諸島からガダルカナルまでは駆逐艦陽炎以下6隻に第1梯団(ていだん)として支隊本部163名、大隊本部23名、歩兵4個中隊420名(軽機関銃36、擲弾筒24)、機関銃隊110名(重機関銃8挺)、大隊砲1個小隊50名(歩兵砲2門)、工兵1個中隊150名が乗船し急派されている。支隊の残りは、海軍の横須賀第5特別陸戦隊主力とともに輸送船で第2梯団として送り込まれることとなったが、同時に出航したにもかかわらず9.5ノットの低速が災いし、イル川渡河戦(アメリカ名:テナルの戦い)には間に合わなかった(イル川は現地名で、日本軍は中川と呼称。テナル川はイル川の東方に位置し日本軍通称は蛇川)。このほか横須賀第5特別陸戦隊の先遣部隊(高橋中隊)が駆逐艦により輸送され、8月16日に上陸成功して設営隊などと合流している。 駆逐艦輸送であったため、一木支隊は実質、1個大隊相当の戦力しかなかったといえる。さらに、一木支隊に届いていた敵情については「連合軍兵力は約2,000名」、「敵上陸目的は飛行場破壊にあり、現在は島からの脱出に腐心している」などといった海軍第11設営隊、や駐ソ武官の情報などがあった。大本営海軍部では当初は本格的な上陸と考えていたが、前記各情報から主力は撤退したと誤認するに至った。そのため、第1梯団は軽装(1人当たり小銃弾250発、食料7日分)で急行し、海軍部隊を保護して、ただちに敵を攻撃する方針を決定する。 8月18日にガダルカナル島タイボ岬に無血上陸した一木支隊は、ひたすら西を目指して前進した。海岸沿いの砂浜を主に夜間行軍により進み、20日夕刻頃までにはテナル川を越えてイル川西岸地域まで到達している。当初の構想では海軍第11設営隊跡(ヘンダーソン飛行場東側の丘状地)に支隊本部を置き、飛行場に所在していると思われる敵残存兵力を攻撃することとしており、一木大佐は飛行場から3キロも離れたイル川東岸に敵防御陣地があることを想定していなかった。 日本軍とは対照的に、アメリカ海兵隊は18日にコーストウォッチャー(Coastwatchers)の通報によりタイボ岬沖からの日本軍上陸を察知していた。19日昼には、倒した日本軍斥候の階級章から、タイボ岬に上陸した日本軍が陸軍部隊であることに気づき、20日夕刻までにはルンガ地区イル川東岸の防備を固めていた。 8月20日18:00にイル川を越えて先行していた将校斥候(渋谷大尉・館中尉ら)34名中31名が、アメリカ海兵隊の攻撃により戦死の憂き目に遭った。2時間後に生還した兵士から報告を受けた一木大佐は激高し、不明将校の捜索を命じるに当たって「行動即索敵即攻撃」を各中隊に命じている。21:00頃には、一木支隊の尖兵中隊がイル川西岸で思いもよらぬ敵からの銃砲撃を受け立ち往生しているところに支隊本部が合流した。22:30から歩兵砲の砲撃を合図にイル川渡河を決定。 火力の差は明白で、M3 37ミリ対戦車砲、M1A1 75ミリ榴弾砲、M2A1 105ミリ榴弾砲などを有する強力な砲兵に援護された機関銃座陣地を前に、100名余の損害を出して一旦攻撃を停止する。敵兵力が10,900人を擁する大軍であることを知らない一木大佐は、なおも1時間後に同様の白兵攻撃を命じて、同様に機銃陣地からの十字砲火を受け今度は200名を越す損害を受けたとされる。また、その間にも敵砲兵陣地からの砲撃、とりわけ迫撃砲による砲火は苛烈を極め、日本軍の反撃は渡河に成功した一握りの兵による軽機関銃や手榴弾による攻撃にとどまった。一部の将校は一旦後退することを具申したが、一木大佐は攻撃を続行した。 遺体の画像があります。表示をクリックで表示 翌21日午前5時頃、一木大佐はイル川左岸の海岸部に残兵を集め状況把握に努めたが、夜明けとともに敵機が上空を舞い始め、陸上からは海兵第1連隊がイル川を越えて一木支隊の退路を断つように迂回攻撃を仕掛けてきたため、包囲された一木支隊は苦戦に陥った。同日午後から投入されたスチュアート軽戦車6輌により支隊本部は蹂躙(じゅうりん)され、一木支隊は壊滅した。海岸で波打ち際に追い詰められた兵士は、執拗な包囲射撃によりことごとく殲滅された。海岸での海兵隊による掃討戦は、21日14時には概ね終了し、意識不明の負傷兵15名が捕虜となった。 結局、8月25日までに生きて上陸地点のタイボ岬まで戻れたものは916名中126名(うち戦傷者30名)であり、790名(戦死者行方不明者777名、捕虜15名)の損害を出して戦いは終わった。アメリカ軍の損害は戦死者40名余りとされている。戦死者数は日本側公刊戦史より捕虜はアメリカ側公刊戦史より抜粋しており合計数は一致しない。支隊長一木大佐は21日の戦闘で戦死したと思われるが、その状況は不明である。 ちなみに、戦闘開始時に総員背嚢遺棄が命じられたため、早くも一木支隊の残存兵は、飢餓に悩まされるようになった。一方、アメリカ軍もまたこの戦闘による消費で物資弾薬の枯渇が表面化しつつあったが、戦闘後に輸送船団による物資と増援兵力の輸送が成功して危機は去り、この時点において兵站面での勝敗は決していた。 8月20日、ヘンダーソン飛行場に海兵隊のワイルドキャット19機とドーントレス12機が到着して航空基地としての機能がスタートした。後に空母エンタープライズ、サラトガ、ワスプの艦載機とパイロットも母艦が戦闘で損傷し、修理のため使用できない間はヘンダーソン飛行場から出撃した。
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