イパチェフ館での生活
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「アナスタシア・ニコラエヴナ」の記事における「イパチェフ館での生活」の解説
病状が悪化していたアレクセイが旅行に堪えられるまで回復したため、1918年5月23日にアナスタシアとオリガ、タチアナ、アレクセイは先にエカテリンブルクのイパチェフ館に移送された家族の他のメンバーと合流した。アナスタシアはこの館で一番歳の近いマリア同様に積極的に警護兵と交流を持った。イパチェフ館で警護兵を務めたアレクサンドル・ストレコチンはアナスタシアの性格について「人なつっこくて非常にお茶目だった」と回想している。別の警護兵は「小悪魔だ! 彼女はいたずら好きで、滅多に疲れないように見えた。生き生きとして、サーカスをしているかのように、犬と一緒に喜劇のパントマイムを行うのが好きだった」と述べている。しかし、上記とは別の警護兵は最年少の大公女を「テロリスト」と呼び、彼女の挑発的な発言が時折、緊張を引き起こしていると不満を漏らした。 アナスタシアと彼女の姉妹はイパチェフ館で洗濯の仕方を学び、6月末からは料理人のイヴァン・ハリトーノフの提案で、大喜びで台所に入ってパンを作る彼の手伝いをするようになった。 厳重な監視下のイパチェフ館で迎えた夏は一家を暗く沈む気持ちにさせてしまった。一部の情報源によると、外の景色を眺め、新鮮な空気を吸うために館の窓を開けようとしたアナスタシアは、白ペンキで塗られ、鍵が掛けられた窓にとてもがっかりしていた。そして、この場面を目撃した警護兵が発砲したが、その狙いはかろうじて外れた。彼女は再び窓を開けようと試みたりはしなかったという。 7月14日(日曜日)、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にアナスタシアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。劇的な変化に気付いた司祭は「何か恐ろしいことがそこで起こっている」と語った。司祭は退出するために大公女達の前を通り過ぎた時、彼女達から小声でそっと「ありがとう」と言われたということも述べている。 ところが、7月15日のオリガを除く3人の大公女は上機嫌な姿を見せ、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹達は両手と両膝を下について掃除婦を手助けし、警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。アナスタシアは新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーが背を向けて部屋を去った時に舌を突き出した。 7月16日、アナスタシアの人生最後の一日。4人の大公女は午後4時に普段通りに父親と一緒に庭を散歩し、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。慎重に殺害の準備は進められ、一家は何も知らぬまま午後10時過ぎに眠りに付いた。この日の夜に反ボリシェヴィキ勢力の白軍がいよいよエカテリンブルク近くまで迫ったために早々と夜間外出禁止令が出された。
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イパチェフ館での生活
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「タチアナ・ニコラエヴナ」の記事における「イパチェフ館での生活」の解説
1918年5月からエカテリンブルクのイパチェフ館に家族や従者とともに監禁されたタチアナは時折お茶を飲みながら、家族について質問したり、解放された後にイギリスで始める新しい生活の希望について語る妹と警護兵らの会話に参加した。警護兵が身の程をわきまえずにいかがわしいジョークを発してしまったためにタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出し、マリアが彼らを注意深く見つめて「このような恥ずべき言葉を使用する自分に嫌気が差しません?良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか?許容可能な礼儀正しい男性となら、仲良くやっていけます」と叱りつけたこともあったという。タチアナはまた、この頃には満足に歩くことが出来なくなっていた関節炎に苦しむ母親のアレクサンドラや重病を患う弟のアレクセイと一緒に座り、弟の遊びに付き合ったり、母親に朗読を聞かせたりすることに多くの時間を費やした。タチアナと彼女の姉妹達は自分達で洗濯をしたり、パンを作らなければならなかった。医師のエフゲニー・ボトキンは自身の腎臓の痛みを和らげるためのモルヒネを投与する注射を看護技術を持つタチアナに頼んだ。 7月14日は日曜日であり、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にタチアナと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。タチアナが書き記していたノートの最後のページには「あなたの悲しみは言葉で表せないほどであるが、世界の罪のためのゲッセマネの園における救い主の悲しみは計り知れず、彼と悲しみを共にすることでその中に慰めを見つけるだろう」とあり、有名なロシア正教会の聖人、クロンシュタットのイオアンの言葉から引用したと述べている。 ところが、7月15日のタチアナと彼女の姉妹は冗談を言い合うほど快活で、館に派遣された4人の掃除婦のために自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹は警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。 7月16日、タチアナの人生最後の一日。アレクサンドラの日記によると、午後にタチアナは母親と一緒に座り、旧約聖書文書の『アモス書』と『オバデヤ書』を拾い読みした。聖書を読んだ後に2人は座ったまま話をして時間を過ごした。その後に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフが館から姿を消したことが判明した。実はロマノフ家のメンバーと一緒に彼を殺したくなかったために警護兵が少年をイパチェフ館から通りの向かいの宿舎へ引っ越させていた。しかし、殺人の計画を知らないロマノフ一家はセドネフの不在に怒っていた。タチアナとボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えることでタチアナを宥めたが、家族は納得しなかった。
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イパチェフ館での生活
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「マリア・ニコラエヴナ (ニコライ2世皇女)」の記事における「イパチェフ館での生活」の解説
マリアと彼女の両親は1918年4月30日にエカテリンブルク市内にある周りに木の柵が張り巡らされたイパチェフ館に到着した。トボリスクに残った姉妹に送った手紙の中で、マリアは家族に対する規制が強化されることについての不安を述べている。1918年5月2日の手紙では「ああ、今は何もかもが複雑だわ」「私達は8ヶ月間平和に暮らしてきたけど、何もかも今はやり直し」と書いている。 イパチェフ館で当直勤務を行ったヴォロビエフはマリアと彼女の両親のイパチェフ館での様子について次のように言及している。 「 囚人達は起きたばかりで、いわゆる顔も洗わずに、私達と出会った。ニコライは鈍い目で私を見て、黙って会釈した。マリア・ニコラエヴナは反対に好奇心に燃えた目でじっと私を見つめ、何か聞きたそうだったが、どうやら自分の朝の化粧にうろたえたらしく、どぎまぎして、窓の方へ顔を背けた。アレクサンドラ・フョードロヴナは悪意に充ち、いつも片頭痛と胃弱に悩まされていて、私を見ようとはしなかった。彼女は湿布を頭にあててソファーベッドに半ば横たわっていた。 」 他の4人の子供達も後からイパチェフ館に到着し、一家は再会を喜び合った。その日の夜はマリアは床に寝て、自分のベッドにアレクセイを寝かせた。 イパチェフ館でもマリアは自ら進んで警護兵達と仲良くなろうとした。マリアは所持していたアルバムから写真を取り出してその家族について彼らと語り、解放されたらイギリスで新たな生活をスタートさせたいという彼女自身の希望を話した。警護兵の1人、アレクサンドル・ストレコチンは後年にふざけるのが大好きな少女だったと回想している。もう一人の警護兵はマリアについて感謝を持って彼女が健康的で美しく、威厳のある雰囲気は醸し出さず、親しみやすかったと述べている。かつて警護兵を務めた別の人物はエカテリンブルクでおそらくマリアがあまりにも彼らと親しく接し過ぎるためによく母親に小声できつく叱られていたことを回想している。前出のストレコチンは会話はいつも一人の10代の少女が「私達はとても退屈しています! トボリスクでは常に何かがありました。私は知っています! この犬の名前を言い当てて下さい! 」と笑いながらささやいて見張り番に歩み寄り、それから始まっていたことを書いている。 警護兵が身の程をわきまえずに下品なジョークを発してしまったために気分を害したタチアナが青ざめた顔で部屋から飛び出したことがあった。マリアは彼らをじっと見つめて「そのような恥ずべき言葉を使用しても自己嫌悪を感じないのは何故でしょう? 良家の女性に対してそのような軽口で言い寄って彼女が貴方に好意を持つと思いますか? 礼儀をわきまえたきちんとした男性であれば、仲良くやっていけます」と諭したという。21歳の警護兵イヴァン・クレスチェフは大公女の1人と結婚することを意図し、もし彼女の両親が反対した場合には彼女をイパチェフ館から救い出すことを周囲に話していた。 6月26日にマリアに好意を抱く警護兵の1人、イヴァン・スコロノドフはマリアの19歳の誕生日を祝うためにバースデーケーキを館に密かに持ち込んだ。マリアは家族から黙って姿を消し、館の抜き打ち検査を実施した2人の上司によってスコロノドフはマリアと一緒に発見され、スコロノドフは館から追放された。何人かの警護兵の回顧録には、この翌日のオリガとタチアナがマリアの軽率な行動に対してひどく怒っていたことが書かれている。特にオリガは敵の警護兵連中と仲良く出来るマリアが理解出来なかった。この事件以降、しばらくはアレクサンドラとオリガはマリアが自分の家族の人間では無いかのように彼女に冷たく接し、関わり合いを避けた。この事件を機に監視体制が強化された。アレクサンドラは翌日の日記に「私達は窓の下で私達の窓のどんな動きも見逃さず監視するよう厳しく見張りに命じる声を聞いた」と記している。 7月14日(日曜日)、ミサのためにロマノフ一家のもとを訪れた地元エカテリンブルクの司祭は死者のための祈りの時にマリアと彼女の家族全員が慣習に反して一斉にひざまずいたり、様子がいつもと違っていたと報告している。司祭は退出するために大公女達の前を通り過ぎた時、彼女達から小声でそっと「ありがとう」と言われたということも述べている。 ところが、7月15日のオリガを除く3人の大公女はお互いに冗談を言い合うなど上機嫌な様子で、館に派遣された4人の掃除婦が床を擦って磨くことが出来るように自分の部屋のベッドを移動させる手伝いまでしたという。姉妹達は両手と両膝を下について掃除婦を手助けし、警護兵が見ていない隙に彼女らに小声で話し掛けたりもした。4人の若い女性は全員とも前日の服装と同じ長い黒のスカートと白のシルクのブラウスであり、その短い髪は「ボサボサで乱雑」であった。姉妹達はマリアがアレクセイを持ち上げることが出来るほど力強いことを自慢したり、いかにして身体運動を楽しんでいるかなどを話していた。 7月16日、マリアの人生最後の一日。4人の大公女は午後4時に普段通りに父親と一緒に庭を散歩し、警護兵によると特に変わったところは見られなかった。夕食時に長い監禁生活の間にアレクセイを楽しませ続けてきた14歳の皿洗いの少年、レオニード・セドネフが館から姿を消していることが判明した。少年は殺害する対象から外すことが決まり、イパチェフ館から通りの向かいの警護兵の宿舎へ引っ越させていた。しかし、自分達を殺害する計画が立てられていることを知らない皇帝一家はセドネフの不在をひどく心配していた。タチアナと主治医のエフゲニー・ボトキンは夕方に新任の警護隊長ヤコフ・ユロフスキーのオフィスまで出向き、セドネフを復帰させるように要求した。ユロフスキーはセドネフは直ぐに戻ってくると伝えて説得しようとしたが、一家は納得しなかった。慎重に殺害の準備は進められ、一家は何も知らぬまま午後10時過ぎに眠りに付いた。 マリアは幸せな家庭生活を送ることを夢見ていたが、その夢が叶うことのないまま1918年7月17日未明、エカテリンブルク市内にあるイパチェフ館で家族、従者とともに銃殺された。
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