アメリカの鉄道の技術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「アメリカの鉄道の技術」の解説
アメリカの鉄道は、ヨーロッパの鉄道とは異なる技術的な特徴を備えていた。まず線路が大きく異なっており、ヨーロッパ、特にイギリスの鉄道が目的地へ向けてできるだけ直線的に建設されたのに対して、アメリカの鉄道は地形に逆らわずに曲がりくねって敷かれていた。労働力が相対的に安く土地代が高いイギリスでは、できるだけ土地を買わずに済むように最短距離で線路を敷こうとし、多大な労働力を投入してでも切通しやトンネル、築堤を建設した。これに対して土地代はただ同然であるアメリカにおいては、山や谷をできるだけ迂回して曲がりくねった線路を敷くことで建設費を安くしようとした。1857年にイギリス議会下院に提出された報告によれば、アメリカの鉄道の1マイルあたりの建設費用は、イギリスのそれの3分の1であったという。 この線路に敷かれていたレールはまだ鋼製ではなく、木製のレールの表面にだけストラップアイアン (strap iron) と呼ばれる薄い鉄の板を釘で打ち付けてあるものであった。この時代のアメリカの工業力では、すべて鉄でできたレールをまだ生産できなかったのである。また初期には石を敷いてその上にレールを並べていたが、これは費用が高くついたため、1830年代には枕木を使用してレールを止める現代でも見られる方式に移行した。レールはオークで作られていることが一般的で、表面に0.25インチ(約6 mm)ほどの厚さのストラップアイアンが貼り付けられていた。このレールは繰り返し使用されているうちにストラップアイアンを止めている釘が緩み、ストラップアイアンが外れて車輪に巻きついて車両を脱線させることがあり、酷いときにはストラップアイアンが客車の床を突き破って飛び出してきて、中の乗客を死傷させることすらあった。この現象はスネークヘッド(snake head、蛇の頭)と呼ばれて恐れられた。カムデン・アンド・アンボイ鉄道の技師長を務めていたロバート・スティーブンス(アメリカで最初の実験的な蒸気機関車を造ったジョン・スティーブンスの息子)は、現代の鉄道でも使用されている逆T字の形のレールを考え出し、イギリスの会社に発注して作らせて1831年に自社の路線に敷設した。これは安全性の点で大変な進歩であり、幹線鉄道に次第に普及していったが、財政的に余裕の無い鉄道は1860年代になってもまだストラップアイアンつきのレールを使っていた。スティーブンスが発明した逆T字レールはまだ鋳鉄や錬鉄によるものであったが、1856年にイギリスのヘンリー・ベッセマーがベッセマー法を開発したことにより鋼鉄の量産が可能になったことを受けて、1857年にイギリスのミッドランド鉄道から鋼圧延レールの採用が始まった。1890年には鋼製レールが全体の90%に達している。 一方鉄道車両は、この曲線が多く貧弱な線路に対応した改良をする必要があった。まず蒸気機関車について、この曲線を安定して走行することができる車両が求められた。イギリスでは規格のよい線路が前提とされていたため固定車軸、すなわち車体に対して車軸の向きが変わらないような機関車しか製造されていなかった。既に車体に対して向きを変えることができるボギー台車という発想はイギリスにあったが、必要が無かったために採用されていなかったのである。デラウェア・アンド・ハドソン鉄道からモホーク・アンド・ハドソン鉄道に移ったジョン・ジャービスは、ジョージ・スチーブンソンから学んだボギー台車の技術を適用した「ブラザー・ジョナサン」(Brother Jonathan) を1832年に試作した。この機関車では、前方に2軸のボギー台車を置いて曲線に合わせて首を振ることができるようにし、後方に1軸の固定車軸の駆動軸を配置した、車軸配置4-2-0の方式であった。前方に配置された回転できる「先台車」により、複雑な曲線でも安定して走ることができ、また先台車と固定車軸の間で重量配分を最適化する3点支持の構成を作ることで、線路に多少の歪みがあっても車輪が線路に吸い付くように走って脱線を防いだ。 ジャービスは、イギリスに既にボギー台車の発想があったことからこの発明に対して特許をとらず、アメリカの鉄道会社に広まっていった。しかし駆動力などで不満もあり、フィラデルフィア・ジャーマンタウン・アンド・ノーリスタウン鉄道 (Philadelphia, Germantown and Norristown Railroad) の技師ヘンリー・キャンベル (Henry R. Campbell) が、2軸動輪の機関車に2軸先台車を組み合わせた機関車を1837年に開発した。これが車軸配置4-4-0として開発された初めての機関車である。これには3点支持の工夫が入っておらず脱線が多かったので、ジョセフ・ハリソン (Joseph Harrison) がイコライザーによる3点支持の工夫と組み合わせた機関車を1839年に完成させた。これは大成功を収め、「アメリカン型」と呼ばれる典型的な機関車となって、アメリカの鉄道だけで25,000両を超えるアメリカン型機関車が使われることになった。この機関車は鉄道先進国とされていたヨーロッパにも輸出されている。これに薪を燃料として燃やすために飛ぶ火の粉を抑える太いダイヤモンド型の煙突や、線路に入り込む動物を避けるカウキャッチャー、ワゴントップ型ボイラーや棒台枠の採用といった要素が組み合わされて、アメリカの特徴的な機関車が生み出された。この機関車が19世紀後半のアメリカ史を支えたことから「アメリカは鉄道を創り、鉄道はアメリカを創った」とも呼ばれる。 この時代のアメリカの蒸気機関車は、薪を燃やして走るものがほとんどで、石炭を燃やすのが主流だったイギリスとは異なっていた。これは、広大なアメリカ大陸には無尽蔵に思えた豊富な森林資源があったためであった。 蒸気機関車の製造を担う機関車メーカーとしては、マサイアス・ボールドウィン(英語版)が興したボールドウィン・ロコモティブ・ワークスが大手として発展した。ボールドウィンは1831年にレクリエーション目的の機関車を製作するところから参入し、煙管の工夫をして大きな蒸気の圧力を実現するなどして強力な機関車を製造することに成功して、会社を大きくしていった。やがてボールドウィンの会社は、世界最大の機関車メーカーとして成長することになった。 客車についても独自の工夫が見られた。もともとイギリスで実用的な鉄道の運行が開始された時点では客車にはあまり手がかけられておらず、馬車の車体を貨車に載せただけで使用していた。やがて輸送力が増強されるにつれて客車の車体は長くなっていったが、この馬車の車体をいくつも連結して長くしていく方式を採ったため、中は向かい合わせの座席ごとに部屋が別になっており、部屋ごとに外へ出る扉が付けられたコンパートメント式の客車となっていた。この頃、車内での車室間移動はまったく不可能であった。しかしアメリカの曲がりくねった線路では、固定車軸のままで客車を長く伸ばしていくことはできなかった。そこでここでもボギー台車が導入された。ボルチモア・アンド・オハイオ鉄道の技術者であったロス・ワイナンズが1834年にボギー台車を装備した客車の特許を出願し、これは1840年代にはアメリカの鉄道において標準的なものとなった。また車内の構造は馬車の延長から脱して、中央に車内を貫通する通路を配置し、その両側に座席が並ぶ、現代の鉄道に見られるオープンサルーン形式の客車が生まれた。車内を自由に移動可能となり、ヨーロッパの鉄道で大きな問題となっていたトイレの装備も行われた。こうした形式の客車はヨーロッパでも知られるようになったが、車内の静穏を乱すとして反発があり、ヨーロッパにおける普及は大きく遅れることになった。これは階級差別が少なく民主主義の発達したアメリカという社会の影響であるとの指摘がある。また、馬車の車体を発達させたヨーロッパの客車に対して、アメリカの客車はアメリカにおいて大きな役割を果たしてきた川蒸気の船室から影響を受けて発達したとも考えられている。 安全運行のための仕組みは未熟であった。電信技術はまだなかったので、列車を運行するに際して事前に駅間で打ち合わせる方法は無かった。したがって現代の鉄道において安全の基本原則である閉塞を実現する方法も無かった。単線の鉄道では、基本的に時刻表にしたがって列車は走り、もし駅間で対向列車に遭遇したら、行き違い駅まで後退して戻るという運用が行われていた。これは列車がまだ低速であったために実現できた方法で、仮に正面衝突しても軽い負傷で済むことが多く、死者は珍しかった。しかし次第に列車は重くなり高速化し、1850年代に入ると事故の犠牲者はうなぎのぼりに増えていった。1851年に初めてエリー鉄道で電信による駅間での事前打ち合わせが採用された。このときにエリー鉄道と協力して電信線を引いた会社が、後に電信で大企業となったウエスタンユニオンであった。しかしそれでも事故は減らず、本格的に事故の対策が進むのは19世紀後半の技術的な進歩を待つことになった。
※この「アメリカの鉄道の技術」の解説は、「アメリカ合衆国の鉄道史」の解説の一部です。
「アメリカの鉄道の技術」を含む「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事については、「アメリカ合衆国の鉄道史」の概要を参照ください。
- アメリカの鉄道の技術のページへのリンク