アメリカの鉄道前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「アメリカの鉄道前史」の解説
アメリカ合衆国は18世紀後半にイギリスの支配から独立したが、人口は東部に集中しており、1790年の第1回国勢調査では人口約392万9000人、最大の都市はニューヨークで人口約33,000人と、工業も未発達な弱小国に過ぎなかった。歴史のあるヨーロッパと異なり、開拓が始まってからの歴史が短いアメリカでは、道路や運河も未発達で、交通網は極めて劣悪な状態に置かれていた。19世紀初頭の時点でニューイングランドにおいてのみ道路網が発達しており、主要都市を結んで郵便馬車の運行が行われていた。しかしそれ以外の地方では道路網は貧弱なもので、水路が主な交通路として利用されていた。このことは現代のアメリカ英語にも名残があり、「輸送する」をイギリスでは"to transport"と言うのが普通であるのに対して、アメリカでは"to ship"(ship = 船)という言葉を使うのが普通である。こうした状況で新たに入植してくる人は、自分の入植する土地まで大変な旅行をして到達した後は、そこから外へ出ることなく一生を終えるというのが一般的であった。独立後のアメリカではこうした状況から、徐々に交通網の整備が進められていった。 まず道路網は、伝統的に各州に整備がゆだねられていたが、アパラチア山脈の西側にも州が設置されるようになると、こうしたまだ弱小の州は連邦政府に頼るところが多くなり、1811年になり連邦政府は自ら道路網の建設を開始することとなった。最初に建設された道路はメリーランド州カンバーランドとウェストバージニア州ホイーリングを結ぶカンバーランド道路と呼ばれる、馬車の走行を想定した舗装道路であった。これをきっかけとして次第に道路網が建設されていった。 一方、ニューヨーク州知事を務めたデウィット・クリントンの肝いりで、ニューヨーク州のハドソン川沿いの町オールバニとエリー湖に面するバッファローの間を結ぶ全長363マイル(約581 km)のエリー運河が建設され、1825年に開通した。ニューヨークとバッファローの間の輸送には、それまで1トンあたり100ドルの費用と20日の時間を要していたが、エリー運河とハドソン川を経由することにより1トンあたり5ドルの費用と6日の時間で済むようになり、五大湖地方と大西洋の間の交流が促進され、ニューヨークが東部第一の都市として発達することを決定付けた。 またロバート・フルトンは1807年に最初の蒸気船を送り出した。蒸気船は外洋の航路ではたちまち帆船を置き換えていった。一方アメリカにおいては、蒸気船は平底外輪船として内陸水路の航行に広く用いられるようになった。この内陸水路航行用の蒸気船は「川蒸気」と呼ばれる。川蒸気によりミシシッピ川やオハイオ川などが重要な交通路となり、アメリカの開拓の推進に大きな役割を果たした。
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