アメリカの鉄道の制度と資本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:29 UTC 版)
「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「アメリカの鉄道の制度と資本」の解説
イギリスにおいては、初期から政府が鉄道に関与し、許認可と規制を行った。運賃制度や従業員の労働規則、旅客および貨物に関する営業規則などを法規制で定めて、運賃を一定の額以内に抑えることや、輸送契約は公示した営業規則に基づき、営業規則によらない個別契約を認めないことなど、社会全体にとっての公平性と公益性を重視した規制が行われていた。これに対してアメリカでは連邦政府が鉄道の営業に直接的な関与を行うことはなく、関連事項は州に任されていた。運賃の最高水準こそ各州で許認可が行われていたものの、会社ごとに多くの営業制度上の相違があって混乱をもたらした。しかしこうした混乱は政府の関与によって収束されるのではなく、概して大きな鉄道会社が小さな鉄道会社を買収するなどの形で、社内問題化して次第に解消が図られていった。 アメリカにおける鉄道の建設自体は、州政府が発行する特許 (Charter) に基づいて行われた。州によって制度は異なっていたが、鉄道会社に対してある経路での鉄道建設の独占権限を与えたり、運賃に対する規制を定めたりしていた。また既存の運河に与える影響を考慮して、貨物輸送への制限が設定されている場合もあった。ニューヨーク州ではエリー運河を保護するために、エリー運河周辺で運行している鉄道会社の旅客や貨物に対しても運河の通航料を払わせる立法をしたほどであった。多くの鉄道会社は資本が不足していたことから、州が貸付を行ってその後の株式募集への呼び水とすることも行われた。しかし鉄道会社の経営がうまくいかずに莫大な損失に終わることも多かった。特に1837年に発生した恐慌による影響は大きく、イリノイ州ではこの損失が高額な税金となって跳ね返り、移民の減少をもたらした。銀行の支払停止が相次ぎ、いくつかの州政府が対外債務の不履行に陥っても連邦政府が救済を拒否したことから合衆国の対外的な信用が崩壊した。 1840年代初期になるとこの恐慌から次第に回復して、再び土地と鉄道への投機が行われるようになった。鉄道は今度は州より地元の市や町の援助に頼って建設されるようになり、株式や鉄道債券の購入やそれに対する保証の供与、土地や設備の寄付、税金の免除などが行われた。実際に建設するつもりの無い経路を測量だけ行って、本来の予定線上にある町からの援助を吊り上げるといったことも行われた。土地を担保に株式を買う沿線の農民も多かった。しかし、計画を作って出資を集め、自分はその計画に建設業者として参加して建設費用を吊り上げることで莫大な収益を上げるが、鉄道は完成に漕ぎ着けられずに出資者に莫大な損失が残るような詐欺的な行為が横行した。建設途中の鉄道を完成させるためにはさらなる「犠牲者」を必要とすることになった。鉄道にまつわる汚職も広まった。1857年に再度発生した恐慌により、1マイルの線路も敷くことができずに倒産する鉄道会社も相次いだ。 アメリカの鉄道では、1840年代半ばには旅客輸送の利益を貨物輸送の利益が上回り、以降現代に至るまでずっと貨物輸送が鉄道経営の中心となっている。このため、鉄道旅客輸送は「男の乳房」であると言った鉄道経営者もいる。マイルあたりの賃率は安く、1880年時点でイギリスでは一等車で1マイルあたり4.42セントであったのに対して、アメリカでは2.18セントであった。しかしアメリカでは平均乗車距離が長いため、旅客の負担は軽いものではなかった。
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