アメリカの運命の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
「サラトガ方面作戦」の記事における「アメリカの運命の変化」の解説
遅延戦術がうまくいっている一方で、大陸会議は違う方向に行っていた。ホレイショ・ゲイツ将軍は、大陸会議がタイコンデロガ陥落の衝撃にうろたえているときにフィラデルフィアにいたが、ゲイツは躊躇する将軍たちに責めを追わせる以上のことをしようとしていた。大陸会議の代議員の中には既にジョージ・ワシントン将軍に我慢できなくなっているものもいた。彼等は大規模な直接対決によって占領軍を排除することを望んでいたが、ワシントンはそれによって戦争そのものに負けるかも知れないと恐れていた。戦争委員会の委員長であるジョン・アダムズはゲイツを誉めて「我々が1人の将軍を射止めるまでは1つのポストに就くこともないだろう」と言った。ニューヨークの代議員の反対にも拘わらず、8月10日に大陸会議はゲイツに北部方面軍の指揮を執らせた。さらにはペンシルベニアからマサチューセッツまでその民兵隊を招集するよう命令を出してもいた。8月19日、ゲイツはオールバニに到着し指揮に就いた。ゲイツのやり方は冷酷で傲岸であり、その最初の作戦会議からスカイラーをあからさまに排除した。スカイラーはその後直ぐにフィラデルフィアに向けて旅立ち、オールバニの地域について良くしっていたのにその情報をゲイツに与えなかった。 8月の間、さらには9月に入っても、民兵の多くの中隊がハドソン川沿いにある大陸軍の宿営地に到着した。それらはワシントンがアーノルド将軍のスタンウィックス砦解放作戦の一部としてハドソン高地より北から集めるよう命じた部隊であり、8月末に到着した。またダニエル・モーガンが自軍の中から北に派遣したそのライフル隊の中でも狙撃の名手達が到着した。大陸軍がベニントンやスタンウィックス砦で成功したという報せに、ジェーン・マクリアの死に関する怒りが組み合わされ、支援の呼びかけに集まったものであり、ゲイツの軍隊は6,000名以上の部隊に脹れ上がった。この数字にはベニントンにあるスタークの小さな軍隊は含まれていなかった。スターク隊は病気や幾つかの中隊が離脱したためにその数を減らしていた。しかしバーゴインの供給線や通信線を攻撃する任務を与えられていたベンジャミン・リンカーン将軍が起ち上げた数百の部隊も集まってきた。
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