式子内親王
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百人一首
- 89番
百首歌中に忍恋を 式子内親王
— 『新古今和歌集』 巻第十一 恋歌一
玉のをよたえなはたえねなからへは 忍ふることのよはりもそする
- 伝説では、内親王と定家の噂が立ったため、定家の父俊成が別れさせようと定家の家にやってきた。すると定家は留守で、部屋に内親王自筆のこの歌が残されていた。これを見た俊成は二人の想いの真剣さを感じて、何も言わず帰ったという[16]。
実際にはこの歌は題詠であって、内親王自身の気持ちを詠ったものではないとされる。
脚注
参考文献
- 鍵本紀子 「式子内親王研究」 『日本文學』 28,15-33 1967年3月20日 東京女子大学
- 西畑実 「式子内親王論」 『大阪城南女子短期大学研究紀要』 2,15-25 1967年5月31日 大阪城南女子短期大学
- 武井和人 「筑波大学中央図書館蔵『式子内親王御歌』釈文・校勘記」 『研究と資料』 66,1-15 2011年12月26日 研究と資料の会
- 武井和人『校本 式子内親王集』 2021年10月20日 新典社 ISBN 978-4-7879-4340-8
- 山崎桂子 「『式子内親王集』の研究 : 百首歌の成立時期をめぐって」 『国文学攷』 77,11-20 1978年3月20日 広島大学国語国文学会
- 小田剛 「式子内親王の三つの百首について」 『古典文藝論叢』 2,35-52 2010年3月20日 文藝談話会
- 奥野陽子 「式子内親王の歌 : 「むなしき空」をめぐって」 『叙説』1979, 57-67 1979年10月1日 奈良女子大学
- 奥野陽子 「式子内親王の歌 : 「煙もさびし」と「つれなくぞ見む」」 『叙説』1980, 51-71 1980年10月1日 奈良女子大学
- 奥野陽子 「夕立・夏の日・ひぐらしの声 : 式子内親王の歌」 『光華女子短期大学研究紀要』 27, 51-70 1989年12月10日 京都光華女子大学
- 奥野陽子 「式子内親王の歌 : 心を観る心」 『光華女子短期大学研究紀要』 32, 55-76 1994年12月10日 京都光華女子大学
- 奥野陽子 「式子内親王と歌枕 : 「宇津の山」と「玉の井」について」 『光華女子短期大学研究紀要』 38, 1-19 2000年12月10日 京都光華女子大学
- 今村みゑ子 「定家と式子内親王-『明月記』を中心に-」 『文学』 6巻4号 pp.73-83 1995年 岩波書店
- 今村みゑ子 「『明月記』(治承四五年)を読む(解説「定家と式子内親王の恋」)」 『明月記研究』 5号 pp.50-53 2000年 明月記研究会編
- 三好千春 「准母論からみる式子内親王―後鳥羽院制下における不婚内親王の存在形態―」 『女性史学』19
- 井上宗雄 「私説・記録と和歌研究」 『明月記研究』 6号 2001年11月 明月記研究会
- 『人車記』 上横手雅敬解説 陽明叢書 1987年4月 思文閣出版
- 上横手雅敬 「式子内親王をめぐる呪詛と託宣」 『古代文化』 56-1 2004年
- 村井俊司 「八条院に於ける式子内親王」 『中京大学教養論叢』 38(1), 174-158 1997年6月11日 中京大学
- 村井俊司 「式子内親王周辺の人々 : 序論・後白河院」 『中京大学教養論叢』 40(4), 830-818 2000年4月25日 中京大学
- 兼築信行 「式子内親王の生年と『定家小本』」 『和歌文学研究彙報』 3 1994年7月
- 錦仁 「<中世和歌>式子と定家―謡曲『定家』の成立異説」 『國文學』 41(12) 77-83 1996年10月 學燈社
- 馬場あき子 『式子内親王』 ちくま学芸文庫 1992年8月 筑摩書房 ISBN 978-4480080127
- 石丸晶子 『式子内親王伝―面影びとは法然』 朝日文庫 1994年11月 朝日新聞社 ISBN 978-4022610171
- 平井啓子 『式子内親王』 コレクション日本歌人選 2011年5月6日 笠間書院 ISBN 978-4305706102
- 沓掛良彦 『式子内親王私抄―清冽・ほのかな美の世界』 2011年11月20日 ミネルヴァ書房 ISBN 978-4-623-06050-4
- 坂東定矩 『歴史人物お脈拝見―著名人も悩んだ病気のあれこれ』 1991年8月 ぎょうせい ISBN 978-4324027875
関連項目
注釈
- ^ a b 京大本『兵範記』(『人車記』)断簡に含まれていた嘉応元年七月廿四日の式子内親王斎院退下条の裏書に「□斎王 高倉三位腹 御年廿一」と記載されているのが発見された(上横手、井上(参考文献))。また。これにより『定家小本』嘉応元年七月廿四日条にある「賀茂斎内親王式子依御悩退出」の注記「廿一」が年齢を示すものと判明した(兼築(参考文献))。
- ^ a b 『明月記』建仁二年正月廿五日条に「午の時許りに束帯して大炊御門の旧院に参ず。今日御正日なり」とある。
- ^ 内親王の名を「ショクシ」と訓むのは歌道の故実読みであって、藤原俊成を「シュンゼイ」、藤原定家を「テイカ」と訓むのと同様の呼び名である。「シキシ」も同様。むろん本人や近親者たちが内親王を「ショクシ」と呼んだわけではない。この名の正式な読みかたは今もって不明であるが、角田文衛の説により「ノリコ」とするのが通説となった。
- ^ 退下の要因としては、他に父後白河院の出家との関連が指摘される(村井(参考文献))。
- ^ 背景として、源平の争乱期において、八条院が有力な権門勢家から独立したアジールとして機能していたこと(五味文彦 『藤原定家の時代』 1991年7月 岩波書店)、及び父後白河院と八条院との良好な関係が指摘されている(村井(参考文献))。
- ^ 時期は確定できないが、『愚昧記』により八条院にいることが確認できる1190年(文治6年)正月3日以後、後白河院崩御(1192年(建久3年)3月13日)以前と考えられている(村井(参考文献))。
- ^ 故斎院御八条殿之間、依思御付属事、奉咒詛此姫宮並女院、彼御悪念為女院御病之由、種々雑人狂言、依之斎院漸無御同宿(『明月記』建仁二年八月廿二日条)
- ^ 於押小路殿御出家之間、故院猶以此事御不請(同書)。
- ^ 吉田経房が式子内親王の後見になっている(『玉葉』)。
- ^ 後白河院の霊が託宣をしたと偽り、夫婦共に流罪となった。
- ^ 前の齋院式子内親王 後白川院皇女 この事に同意するの間、洛中に坐すべからざるの由、沙汰有りと雖も、議有って止められをはんぬ(『皇帝紀抄』 建久八年三月)
- ^ 乳房が腫れ足が浮腫む等の症状が記録されていることから、乳癌と推定されている(坂東(参考文献))。
- ^ 法然自筆の手紙では「シヤウ如ハウ」と書かれており(金子彰、他編 「式子内親王宛法然書状 語彙総索引稿」 『日本文學』 101,123-151 2005年3月15日 東京女子大学)、内親王の法名「承如法」と適合する。
- ^ 俊成の『古来風躰抄』は内親王に奉った作品であるという説が一般的である
- ^ 後鳥羽院がこの語を使うのは、彼女と源俊頼の二人に対してであり、「人はえ詠みおほせぬやうなる姿」と形容される独創性と技巧を備えたスタイルを指しているようだ。
- ^ 『新古今和歌集』の詞書で斎院時代の作とされる歌を含んでいることから、百首成立を斎院在任中に遡らせる主張(国島章江 「式子内親王集-形態と成立について」 『国語と国文学』 1960年7月号)もある。
- ^ 夏部冒頭にある、喪服を着替える歌の解釈として、1171年没の妹休子内親王を想定する説(馬場あき子 『式子内親王』 1969年)があったが、『千載和歌集』の後という条件から、1192年没の父後白河院を想定する説(武田史子 「『式子内親王集』の研究 : 特に百首歌の成立時期について」 『国文白百合』 8,16-20 1977年3月 白百合女子大学)も提唱されている。
- ^ 合計73首、内他作者3首、百首歌との重複9首を除き、61首(山崎(参考文献))。
- ^ 勅撰集(家集への補入の漏れ)5首、三百六十番歌合17首、私撰集6首、五社百首中の歌11首(山崎(参考文献))。
出典
- ^ 『賀茂斎院記』 群書類従 補任部 巻四十四
- ^ 『皇帝紀抄』
- ^ a b c 『明月記』治承五年正月三日条
- ^ a b 『明月記』治承五年九月廿七日条
- ^ 『吉記』元暦二年正月三日条
- ^ 『吉記』元暦二年七月十二日条
- ^ 『山槐記』元暦二年八月十日条
- ^ 『愚昧記』文治六年正月三日条
- ^ 『明月記』正治元年五月一日条, 四日条, 十二日条
- ^ 『明月記』正治元年十二月四日条
- ^ 『明月記』正治二年九月五日条
- ^ a b 『明月記』建仁二年正月廿五日条
- ^ 『後深草院御記』
- ^ 『謡曲拾葉抄』
- ^ a b 『源氏大綱』真木柱
- ^ a b 『渓雲問答』『百人一首夕話』
- ^ 『大通俗一騎夜行』巻二 「文の手に葉を飾る幽霊」
- ^ 『応仁記』巻三
- ^ “京都上京さんぽ”. 般舟院陵. 上京歴史探訪館. 2011年12月20日閲覧。
- ^ 今村(参考文献)
- ^ 小川龍彦 『新定法然上人絵伝』 1955年4月 理想社
- ^ 岸信宏 「聖如房に就いて」 『仏教文化研究』 第五巻
- ^ a b 石丸(参考文献)
- ^ 『後鳥羽院御口伝』
- ^ a b 鍵本(参考文献)
- ^ a b 西畑(参考文献)
- ^ 有吉保 『和歌文学事典』 1982年5月 桜楓社
- ^ “納骨堂のある寺-観海禅寺”. 観海禅寺縁起. 観海禅寺. 2011年12月20日閲覧。
- ^ “畠田研究室”. 02年度 別府班-調査報告書. 立命館アジア太平洋大学 (2003年2月). 2011年12月20日閲覧。
- ^ 『尾道の歴史と遺跡 中世編』より「Ⅳ 中世寺院と石造物」(尾道市教育委員会、平成23年3月)
- ^ a b c d 山崎(参考文献)
- ^ a b c 小田(参考文献)
- ^ a b 武井(参考文献)
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