鹽竈神社 概要

鹽竈神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/30 09:57 UTC 版)

概要

1975年度(昭和50年度)撮影の国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
写真左には伊達家の守護神が祀られている鹽竈神社左右宮が仙台城北緯38度15分11.8秒 東経140度51分24.3秒)に相対するように南南西を向けて置かれ、主祭神が祭られている鹽竈神社別宮は航海安全を背負うため仙台湾を背に北西に向いている[1]。写真右の志波彦神社は南東を向いている。古代の香津(国府津)は写真の右下方向フレーム外、現在の塩釜港は写真の右方向フレーム外。

元は当地には鹽竈神社のみが鎮座していたが、明治時代に志波彦神社が境内に遷座し、現在は正式名称を「志波彦神社・鹽竈神社」とし1つの法人となっている。鹽竈神社境内には、国の天然記念物に指定されている塩竈桜シオガマザクラ)があり、毎年当地の報道で取り上げられている。また塩竈みなと祭の際には、鹽竈神社が祭りの出発点となり、志波彦神社・鹽竈神社の神輿が塩竈市内を練り歩き、御座船を始め約100隻の船を従えて松島湾を巡幸する。東北開拓の守護神であり、多くの初詣客が集まることでも知られる。秋には大規模な菊花展が開催される。

祭神

志波彦神社

  • 志波彦大神

鹽竈神社

塩土老翁神は謎の多い神であるが、の神格化と考えられている。神武天皇山幸彦を導いたことから、航海安全・交通安全の神徳を持つものとしても見られる。また安産祈願のでもある。武甕槌神と経津主神は東北を平定するために派遣された朝廷の神[2]

歴史

志波彦神社

志波彦神社 拝殿(2006年8月)

志波彦神社は冠川[† 1]七北田川の別名)河畔に降臨されたとする志波彦神を祭る神社である。中世までの詳細な所在地は不明だが、東山道から多賀城へ通じる交通の要所で、軍事的にも岩切城などの重要ながおかれた、宮城郡岩切村(現在の仙台市宮城野区岩切)の冠川左岸に位置していたと見られる。

元禄8年(1695年)に書かれた縁起によれば、天智天皇3年(665年)に始めて官幣が使わされたとされ、往古国主が重要視した大社として社家7人がいたとする。同縁起では志波彦神の由来を塩土老翁神のことであり、栗原郡の志波姫神社と同体であるとしているが、由来については諸説あり[† 2]、現在のところはっきりとしていない。農耕守護・殖産・国土開発の神と伝えられている。

清和天皇貞観元年(859年)に正五位下勳四等から従四位下神階を進め[3]延長5年(927年)には『延喜式神名帳』へ名神大として記載されている。

このように朝廷からも崇敬されていたが、中世以降は衰微して行く。元禄8年の縁起によれば、社地は百姓の耕作によって侵され、天正年間には火災により神具や縁起などの資料を失い、延宝3年(1675年)の再建時には6尺四方[† 3]の小さな社殿となって岩切村の牛頭天王社(現・八坂神社)に合祀された。

明治時代 (1871年)に国幣中社に列せられたことを機に大きな社殿を造営する機運が生じたが、現・八坂神社境内では社地が狭かったため鹽竈神社境内に遷宮した[4]。現・八坂神社境内の旧社殿はそのまま残し、既に遷宮した当社から1877年(明治10年)3月に分霊して「冠川神社」として摂社となった(北緯38度18分20.1秒 東経140度56分45.7秒[4]

明治以降の詳細については後述を参照。

また、鹽竈神社宮司であった押木耿介は著者『鹽竈神社』の中で、志波彦神社に祀られる志波彦神は、塩土老翁神の幸御魂であるという人もいるという説を紹介した上で、今後の研究を待たねばならないとしている[5]

鹽竈神社

神紋「塩竈桜」

鹽竈神社社殿

創建から中世

鹽竈神社は、武甕槌命・経津主神が東北を平定した際に両神を先導した塩土老翁神がこの地に留まり、現地の人々に製塩を教えたことに始まると伝えられる。

弘仁11年(820年)に撰進された『弘仁式』の『主税式』では「鹽竈神を祭る料壹萬束」と記載され、祭祀料10,000束を国家から受けており、これが正史における鹽竈神社の初見と言われている。

さらに延長5年(927年)の『延喜式』の『主税式』においても祭祀料10,000束を国家正税から受けている。『延喜主税式』によれば当時の陸奥国の税収は603,000束、鹽竈神社の他に国家から祭祀料を受けていた3社の祭祀料は、それぞれ伊豆国三島社2,000束、出羽国月山大物忌社2,000束、淡路国大和大国魂社800束であった。これらと比較しても国家から特別の扱いを受けていたのは明白であるが、同式の神名帳に鹽竈神社の記載は無い。また、近世に至るまで神階昇叙の記録も無く[† 4]式外社となったことと併せて朝廷が一見矛盾するような扱いをなぜしたのか、その理由はわかっていない[† 5]

宇多天皇の御代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、鹽竈神社へは寛仁元年(1017年後一条天皇即位の際に遣わされている[† 6]

朝野群載 巻第6』に所収の「式外神社進合御卜證文」には、白河天皇御代に勅命を受け卜った式外社の記述があるが、その中に「近則去延久二年十二月御卜。坐越後国春日布河両社。坐陸奥国清竈鳥海二社。同六年六月御卜。坐陸奥国浮島鹽竈鳥海三箇社。」の一文がある。「清竈」が「鹽竈」の誤字であるとすれば、勅命により御卜を受けた数少ない式外社の中でも、鹽竈神社は延久2年(1070年)12月と延久6年(1074年)6月の2回御卜を受けたことになる。

中世

表参道

中世においては歴代の領主から崇敬された。前九年の役および後三年の役を経て藤原清衡が陸奥押領使に任ぜられると、陸奥国の支配権は奥州藤原氏のものとなった。文治2年(1186年)4月28日付けの竹城保司あて所職安堵の下文や文治3年(1187年)に和泉三郎忠衝より奉納された鉄燈[† 7]は、鹽竈神社に対し奥州藤原氏が影響力と崇敬をよせていたことを窺わせている。 また、奥州藤原氏が文治5年(1189年)に滅亡した後、鎌倉幕府が竹城保司に臨時祭料田を設定するよう命じた建久4年(1193年)3月7日付けの文書には「一宮塩竈社」の記述があり、鎌倉幕府から鹽竈神社が一宮と認識されていたことがわかる[† 8]。加えて、文治6年(1190年)に奥州下向の将兵に鹽竈以下の神領において狼藉をしないよう命令が出されている[6]ことからも、鎌倉幕府が鹽竈神社を重く見ていたことが覗える。

文治6年(1190年伊沢家景源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢家景の子である家元の代より伊沢氏は「留守」姓を名乗るようになる。以後は留守氏が管理権を掌握し、神社の宮人を自らの家臣団として編成した。留守氏はまた塩竈神宮寺も支配した。神宮寺(別当寺)とは神社を管理する寺院である。戦国時代の末に別当寺は法蓮寺に変わり、江戸時代も当社の別当であった。

14世紀の南北朝内乱期に入ると、東北地方においても南朝方と北朝方に分かれて合戦が行われるようになり、多賀国府の政治的求心力は低下した。これにより、留守氏も陸奥一国に対する行政権を失っていく。それに代わり陸奥国の武士の統率者となったのは、室町幕府から派遣された奥州管領であった。奥州管領達も鹽竈神社に崇敬をよせ、斯波家兼文和3年(南朝の元号では正平9年、1354年)に祈願状を奉納、斯波直持は文和5年(南朝の元号では正平11年、1356年)に鹽竈神社の仮殿造営と馬一疋の奉加を行うと共に祈願状を奉納している。同じく奥州管領の吉良貞経延文5年(南朝の元号では正平15年、1360年)に鳥居造立、社頭造営、釜一口奉鋳、神馬奉引、大般若一部読踊、心経十万部読踊、御神楽勤仕などの立願を行い、さらに竹城保[† 9]を寄進している。

応安8年(南朝の元号では天授元年、1375年)以前に編纂されたとされる卜部宿禰奥書の『諸国一宮神名帳』には、陸奥国の一宮は「鹽竈大明神」と記されている。しかし、その後の室町期に編纂されたとする『大日本国一宮記』では陸奥国一宮は都都古和気神社とされた[† 10]。この後、近世においては主に大日本国一宮記が参照されたことから、鹽竈神社は「近世以降の一宮」との認識が持たれることがあった[† 11]。しかしながら、江戸時代初期の神道者・橘三喜が全国の一宮を参拝した際は、『大日本国一宮記』の類本である『吉田一宮記』と『豊葦原一宮記』を携帯して諸国を巡ったが、延宝6年(1678年)に鹽竈神社を訪れている[† 12]

近世

近世に入り仙台藩伊達家がよせた崇敬は特に厚く、伊達氏が当地を治めた江戸時代以降から明治時代に至るまで、歴代仙台藩主は「大神主」として祭事を司ると共に社領・太刀神馬などを寄進した。
初代藩主政宗は岩出山から仙台に居城を移すと、領内寺社の整備に取り掛かる。鹽竈神社へは元和5年(1619年)に社領24貫336文を寄進[† 13]慶長12年(1607年)に社殿造営を行った。 二代藩主忠宗寛永13年(1636年)に鐘楼を再興し、1664年(寛文4年)には拝殿、さらに慶安3年(1650年)には長床を修造している。 三代藩主綱宗伊達騒動万治3年(1660年)に家督を子の綱村に譲っていたが、寛文3年(1663年)に大幅な社殿造り変えを行うと共に社領7貫584文を寄進している。 歴代藩主中で最も厚い崇敬を寄せた四代藩主綱村は、まず貞享2年(1685年)に塩竈の租税免除・市場開催許可・港湾整備を行って同地を手厚く遇した。 貞享4年(1687年)には吉田家神階昇叙を依頼し、鹽竈神社に正一位が昇叙されている。さらに元禄6年(1693年)には神祇管領吉田兼連をして鹽竈社縁起を編纂させ、それまで諸説あった祭神を確定させた。元禄8年(1695年)に社殿の造営計画を立てて工事に着手し、9年後五代藩主吉村宝永元年(1704年)に竣工している。この時造営されたものが現在の社殿である。宝永期以降は20年に一度の式年遷宮の制度が設けられ現在に至っている。 また、五代藩主吉村も1704年(宝永元年)の社殿竣工成就を記念して社領55貫文を寄進している。

明治以降の両社

1871年明治4年)に志波彦神社が国幣中社に列格、1874年(明治7年)12月に志波彦神社が別宮本殿に遷宮されると同時に鹽竈神社が国幣中社に列格した。その後、1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)に志波彦神社が国費をもって社殿新築、1938年(昭和13年)から1942年(昭和17年)には鹽竈神社が国費による修築を行った。第2次世界大戦後に旧社格が廃止されると、当社は神社本庁が包括する別表神社となった。また前述のように、20年に一度の式年遷宮が現在に至るまで行われている。

境内

地理

松島湾を囲む松島丘陵に深く入り込んだ入り江の1つに、同湾の南西部に位置する千賀ノ浦(現・塩釜港)がある。この千賀ノ浦に東向きに突き出しただった[7][8]一森山(松島丘陵の樹枝状丘陵)の尾根上、標高約50mに鹽竈神社(別宮および左右宮)や志波彦神社などが建ち、南麓の標高10m以下の地に猿田彦神社などが建つ。

一森山の南側はかつての千賀ノ浦の最奥部であったが、現在は東流する祓川となり、その一部が暗渠化されて宮城県道3号塩釜吉岡線が通っている。同県道をはさんで南側には、これも松島丘陵の樹枝状丘陵である江尻山(融ヶ丘)[7]がある。同山の尾根上にはかつて源融の別荘があり、現在は愛宕神社宮城県塩釜高等学校などがある。また、北麓の標高約2mの地に御釜神社がある。

一森山の東側および江尻山の東側にもかつての千賀ノ浦が入り込んでおり、各々の東側にはこれも松島丘陵の樹枝状丘陵である女郎山が岬を突き出していた。現在、女郎山の尾根上には伊勢神明社、稲荷堂山の尾根上には稲荷神社などがある。

これら、松島丘陵の樹枝状丘陵の間にあるV字谷沈水地形は、現在は埋立地となって市街化している。

なお、千賀ノ浦に香津(国府津)、すなわち、外港を置いていた陸奥国府多賀城は、当地の南西の松島丘陵南斜面にある。

社殿

境内は、社殿14棟と鳥居1基が重要文化財に指定されている。これら社殿は、仙台藩4代藩主伊達綱村の時、1695年(元禄8年)に地鎮が行われ、5代伊達吉村の時、1704年(宝永元年)に竣工したものである。なお、随身門1698年(元禄11年)、左右宮拝殿と別宮拝殿は1699年(元禄12年)にそれぞれ上棟しており、本殿が完成して遷宮の行われたのが宝永元年のことである。大工棟梁は松原助兵衛重成。

東西に並列する左宮本殿・右宮本殿はともに三間社流造。各本殿の手前に切妻造妻入の左宮幣殿・右宮幣殿が建ち、これらの手前に接して左右宮廻廊が東西方向に建つ。左右宮廻廊は中央部を切妻造妻入、左右を切妻造平入とする。廻廊両端から発した瑞垣は両本殿を中心とする聖域を画している。廻廊の手前には入母屋造の左右宮拝殿が建つ。本殿、幣殿、廻廊、瑞垣はいずれも檜皮葺きで、部材は素木仕上げとし、各所に取り付けた装飾金物以外に目立った装飾のない簡素な意匠とする。これに対し、拝殿は銅板葺き、朱漆塗りとする。

左右宮の手前東側に西面して建つ別宮は本殿、幣殿、廻廊、瑞垣、拝殿から構成される。別宮の本殿と幣殿は左宮・右宮の本殿・幣殿と同規模・同意匠とする。別宮の廻廊、瑞垣も左右宮より規模は小さいものの、意匠・構成は共通している。拝殿は左右宮拝殿が正面7間・奥行4間であるのに対し別宮拝殿は正面5間・奥行3間とする。本殿、幣殿、廻廊、瑞垣を檜皮葺き、素木仕上げとし、拝殿を銅板葺き、朱漆塗りとする点も左右宮と共通する。

左右宮本殿の手前(南側)には唐門及び廻廊、その手前に随身門が建つ。「唐門」とは通常、唐破風をもつ門を指すが、当神社の唐門は切妻造の四脚門で、唐破風をもたない。重要文化財指定名称は単に「門」となっている。門と左右に接続する廻廊ともに銅板葺き、朱塗りとする。随身門は三間楼門で、銅板葺き、朱塗りとする。神社入口の石段下に建つ鳥居は花崗岩製の明神鳥居で、1663年(寛文3年)の建立である。[9]

社殿の配置
鹽竈神社の別宮(主祭神)と左右宮の位置関係
経津主神
武甕槌神
殿
殿

殿




殿







殿

唐門


注釈

  1. ^ 押木耿介『鹽竈神社』(学生社、2005年(平成17年)6月)では、冠川(かんむりがわ)と言う呼び名を、志波彦神が降臨した川 = 神降川(かみふりがわ)が転訛したものであるとする説を紹介している。
  2. ^ 押木耿介『鹽竈神社』(学生社、2005年6月)では、塩土老翁神の幸御魂とする説の他、“物のシワ”すなわち国土の端を意味するところから北限の神とする説を紹介している。
  3. ^ 押木耿介『鹽竈神社』(学生社、2005年6月)によれば縦5尺横6尺。
  4. ^ 嵯峨天皇御代の弘仁3年(812年)7月10日に従二位神階が昇叙されたことが『類聚国史』に記されている、とする文書がある。しかしながら、『日本後紀』の弘仁3年の条にそのような記録は無い。『類聚国史』は六国史の抜粋であるから、当然、親本となる『日本後紀』に同じ記載が無ければならない。『鹽竈神社史』においてもこの点を指摘したうえで、国史に神階昇叙の記録が無いことを怪しんだ者が偽書を作成したのではないか、と推測している。
  5. ^ 押木耿介『鹽竈神社』(学生社、2005年6月)では、正税からの祭祀料支出と神階昇叙が無いことに対し、国家のやや相反する鹽竈神社への崇敬の意味はどう解すべきか、と疑問を投げかけている。
  6. ^ 左経記』および『日本紀略』における寛仁元年(1017年)10月2日の条の記述による。鹽竈神社の名が出ているのは『左経記』の方である。また『左経記』には納められた神宝が記載されており、その内容は紫綾蓋1蓋、平文野剣1腰、赤漆弓1張、箭(矢)4筋、平文鉾1本、五寸鏡1面、平文麻桶1口、平文線柱1本であったと記している。『鹽竈神社史』では、この大神宝使派遣と『吾妻鏡文治6年(1190年)の記述とを合わせ、当社が奥州第一の大社と言えるのではないかと評している。ちなみに 薗田 稔 高橋政宣 編 『神道史大辞典』(吉川弘文館、2004年7月)には、大神宝使とは由緒ある諸社に対し天皇即位の由を奉告するため大神宝大幣帛を奉る使いで、中世には派遣が途絶えてしまったとの説明がある。
  7. ^ 「文治燈篭」または「文治鉄燈」と呼ばれ、現在も左右宮拝殿前にある。はじめは九輪、風鐸、露盤が屋上に架せられていたが、長い年月を経たことによる損傷で現在はない。藤原秀衡の三男である和泉三郎忠衝より寄進されたことが扉の碑文に記されている。松尾芭蕉の『おくのほそ道』に、鹽竈神社を訪ねてこの鉄燈を見た芭蕉が、最後まで源義経に付き従った和泉三郎忠衝に対し「義勇の士」として思いを馳せたことが記述され、広く知られるようになった。文化13年(1816年)の名所案内 『陸奥名碑略』 において松尾芭蕉が訪ねた場所として紹介され、また天保11年(1840年)には小池曲江が『芭蕉翁見文治燈図』を描くなどしている。
  8. ^ 『鎌倉遺文』661号 『将軍家政所下文』に「将軍家政所下 陸奥国竹城保◆ 可早任先例引募一宮塩竈社臨時祭料田弐町伍段事」とある。◆は欠損により文字が読めない部分。
  9. ^ 竹城保は平安末期より宮城郡から独立した陸奥国府の特別行政区で、いくつかの鹽竈神社社領があったと考えられている。現在の松島町高城を中心とした地域。
  10. ^ 大塚統子『「一宮記」の諸系統 -諸本の書誌的考察を中心に-』では、『大日本国一宮記』は卜部宿禰奥書の『諸国一宮神名帳』を基に『延喜式神名帳』の式内社を強く意識して編纂されたため、式外社の鹽竈神社は記載から外されたのではないかと考察している。大塚統子『「一宮記」の諸系統 -諸本の書誌的考察を中心に-』は 一宮研究会編『中世一宮制の歴史的展開 下:総合研究編』(岩田書院、2004年12月)に所収。
  11. ^ 大林太良『私の一宮巡詣記』(青土社、2001年9月出版)では論社を整理するため、式内社では無く『大日本国一宮記』にも掲載されていない鹽竈神社を自分の巡詣対象から外すこと、鹽竈神社は近世以降の一宮と言われていることを述べている。
  12. ^ 橘三喜が著した『諸国一宮巡詣記』によると、橘三喜は現在の宮城県黒川郡大和町方面へ先に足を延ばした後、延宝6年(1678年)6月9日に松島に至り瑞岩寺や五大堂などを観光、その日の暮れに塩竈に入った。翌6月10日鹽竈神社へ詣で、縁日の御供をしていた宮司に由来を尋ねたが知る人は無かったと記録している。また、創建時期についても綏靖天皇の御代とも、仲哀天皇の御代とも伝えられていると言われた、と記録している。この記述から、四代藩主綱村元禄6年(1693年)に鹽竈社縁起を編纂させるまで、宮司も由来をはっきり知らなかったことがわかる。また、6月10日の記述には、鹽竈明神の添書きに「奥州一宮宮城郡鹽竈大明神高彦根命」と記載されている。『諸国一宮巡詣記』は佐伯有義編『神祇全書 第2輯』(皇典講究所、1907年2月)に所収。
  13. ^ 寛永21年(1644年)8月14日の二代藩主忠宗黒(墨)印状により安堵された社領。しかしながら、高橋正己『鹽竈神社旧社家の歴史』(鹽竈神社旧社家献膳講、1981年12月) によれば、初代藩主政宗留守氏時代の社領を没収したうえで改めて寄進しており、寄進された社領は元の知行高を遥かに下回ったとしている。二代藩主忠宗の黒(墨)印状は鹽竈神社所蔵。

出典

  1. ^ 鹽竈神社御由緒「社殿の不思議」(陸奥国一宮 塩釜神社)
  2. ^ 磯前順一神道と公共性 : パネル「宗教の公共性とは何か : 国家神道から考える」」『宗教研究』第87巻別冊、日本宗教学会、2014年3月、p. 25。ISSN 2188-3858
  3. ^ 日本三代実録』の記述による。
  4. ^ a b 歴史をひもとく 1「岩切の古城/寺・神社」(仙台市市民センター)
  5. ^ 『鹽竈神社』学生社、昭和47年8月1日初刷発行、187頁。 
  6. ^ 吾妻鏡』の文治6年(1190年)の条の記述による。
  7. ^ a b 2 自然環境 地形・地質 図2-1 埋立状況(塩竈市)
  8. ^ 塩竈市の水道の歴史(塩竈市)
  9. ^ 文化財建造物の説明は「新指定の文化財」『月刊文化財』471号、第一法規、2002による。
  10. ^ a b c 志波彦神社鹽竈神社社務所 編『鹽竈神社史』(志波彦神社鹽竈神社社務所、1930年〈昭和5年〉12月)に所収。
  11. ^ 〈塩釜神社勝画楼〉江戸期の旧書院 塩釜市が無償で譲り受け現地保存へ河北新報』、2017年9月14日。
  12. ^ 塩竃神社(宮城県東京事務所)






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