連邦刑事局とは? わかりやすく解説

連邦刑事局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 04:17 UTC 版)

テオドール・ゼーフェッケ」の記事における「連邦刑事局」の解説

1951年8月、ゼーフェッケはCIA側との協議の末、目下西ドイツ警察への復職不可能である点に同意した。彼は1950年4月西ドイツ内務省宛てて復職申請しており、シェンク著書によればゲアハルト・シュレーダーやハンス・フォン・レックス(ドイツ語版)といった連邦内務省高官らがこれの検討当たったという。当初ドイツ連邦刑事局(BKA)初代長官マックス・ハーゲマン(ドイツ語版)はゼーフェッケがBKA職員として十分な技能備えていることを認めたが、一方で彼がNSDAP古参党員である事を理由懸念示していた。しかし1951年12月になると、ハーゲマンはゼーフェッケを「正義感があり政治的に関心かつ従順な将校」と評し親衛隊時代とほぼ同等階級与えて復職させることに同意した1952年1月10日、ゼーフェッケはBKA保安班(Sicherungsgruppe)に配属される当時班長だったパウル・ディッコプフ(ドイツ語版によれば、ゼーフェッケは1952年4月頃から極左過激派に関する捜査担当しその中で何人かの産業スパイ摘発したという。1953年4月には「火山作戦」(Aktion Vulkan)として知られる大規模なスパイ狩り指揮し容疑者40名を逮捕している。「火山作戦」は大きな成功と見なされていたものの、実際に冤罪証拠不足が散見されるずさんなものであった1953年8月刑事捜査官(Kriminalrat, 少佐相当)に昇進1953年9月からは保安捜査部門主任1955年以降は「東側」のスパイ活動に関する捜査従事していた。 1953年9月パルチザン出身の元イタリア首相フェルッチョ・パッリ(英語版)は報道向け声明の中で、ゼーフェッケがイタリアにおける保安活動関与していたと述べた。パッリは1945年1月パルチザン指導者1人として逮捕されミラノにて収監され拷問受けた経験があった。1954年にはイタリア当局戦争犯罪人たるゼーフェッケの身柄引き渡し要求した。これを受けて1954年7月には連邦内務省がゼーフェッケに停職処分言い渡し10月には懲戒手続開始された。CIA1952年1月以降ゼーフェッケにエージェントとして任務与えていなかったものの、依然として重要な情報提供者であった。また1947年連邦内務省および英軍と共に彼の無実証明行っていたこともあり、CIAはゼーフェッケへの支援連邦内務省への働きかけ惜しまなかった。最終的に連邦内務省では、イタリアによるゼーフェッケへの告発多く伝聞基づいており、矛盾多く、ゼーフェッケがユダヤ人および政治犯弾圧関与していたと確信するには至らないとの判断示した1955年懲戒手続証拠不十分で中止された。 1962年10月ボン保安班にて副班長務めていたゼーフェッケは雑誌デア・シュピーゲル編集部への政治的工作関与したシュピーゲル事件ドイツ語版))。彼は1962年10月27日より長官エルンスト・ブリュックナー(ドイツ語版)による指令の元でこの任務従事していた。スペインにおける同誌副編集長コンラート・アーラース(ドイツ語版)の逮捕にもゼーフェッケが関与していた。アーラースはインターポールの手逮捕されたが、反逆罪による起訴自体行われなかった。『デア・シュピーゲル』では後にゼーフェッケを非難する記事掲載しまた上ブリュックナーBKA長官となっていたディッコプフに宛てた手紙の中で、ゼーフェッケの行動が自らの指示逸脱したのだった主張したシュピーゲル事件によりゼーフェッケの名前が報道など掲載されるうになると、彼の過去にも再び注目が集まるようになった1963年2月ミラノ市議会アミントレ・ファンファーニ首相に対してゼーフェッケの起訴求め電報を送ることに全会一致合意した1963年3月6日連邦議会にてゼーフェッケに関する一連の論争議題となった当時連邦内務相ヘルマン・ヘッヒャール(ドイツ語版)は問答の中で、ゼーフェッケが有能な職員であり、元SS隊員ではあっても政治的に熱心ではなかった上、既にBKAによる十分な再教育が行われたのだと説明した。しかしボン政府当局ではイタリア側の目撃者などからの聴取進め1963年4月24日には2度目懲戒手続始まった。ゼーフェッケはボン保安班を通じてCIA彼の過去洗い出そうとしている者を突き止めるように求めたCIA側は調査開始こそしたものの、それによって得られ情報をゼーフェッケに渡すかどうか議論があった。ゼーフェッケがCIAの元で活動していた1950年代異なり1960年代にはCIAも元SS将校などナチ時代高官対す態度転換していた。すなわち1961年摘発されたハインツ・フェルフェ(ドイツ語版)元SS中尉のように、彼らの多く東側による脅迫受けており、その上で過去暴露など恐れ二重スパイ化している可能性極めて高いと考えられていたのである実際、この時期には東独国家保安省がゼーフェッケの脅迫計画し彼の過去調査していた。偵察総局ドイツ語版)(HVA)の第I課(Abteilung I)では1961年から調査行っており、やがてゼーフェッケのポーランド勤務時代記録発見することとなる。これに基づき第I課が作成した報告書は、ゼーフェッケがアインザッツグルッペVI勤務していた事を証明するものであった。ただし捜査難航から、偵察総局がこの調査結果発表するのは1976年になってからである。 1964年11月2度目懲戒手続証拠不十分で終了する1963年5月時点で、ディッコップフはCIAに対して「恐らく懲戒手続新し証拠もたらされないものの、ゼーフェッケがこれ以上BKA勤務する事はできない」と報告した1965年5月、ゼーフェッケは連邦防空組合(Bundesluftschutzverband)への出向命じられ、また1966年6月には一般市民保護連邦庁(ドイツ語版)(Bundesamt für zivilen Bevölkerungsschutz)へ出向させられている。その後当初出向」(Abordnung)とされていた彼の身分は「異動」(Versetzung)に切り替えられた。1971年まで、ゼーフェッケはアールヴァイラー(ドイツ語版)にて政府防空壕ドイツ語版建設現場保安責任者務めた。この職にある間、彼は作業必要な通常の保安点検加えて施設重要性から防諜に関する任務にも従事することとなった。また北大西洋条約機構(NATO)による政府防空壕および関連施設評価に関する準備にも従事し例え1966年指揮所演習「Fallex 66ドイツ語版)」にも彼が関与している。 結局西ドイツ司法当局による調査ではゼーフェッケを起訴することができなかった。当初、彼は国家保安本部幹部対す起訴対象で、1967年2月9日から彼に関す調査始まった。しかしゼーフェッケは「第V局A2課」という部局など知らない証言し当局はこれを覆すことができなかった。ミラノでの処刑に関する調査1971年から始まったが、1989年5月には中止された。1960年8月作成され警察の捜査記録によれば、ゼーフェッケは彼の発した命令はいずれも彼が所属する機関による承認が必要であった証言している。彼が所属した親衛隊や旧警察は既に解体され存在せず命令実態不明であり、この証言覆されることはなかった。

※この「連邦刑事局」の解説は、「テオドール・ゼーフェッケ」の解説の一部です。
「連邦刑事局」を含む「テオドール・ゼーフェッケ」の記事については、「テオドール・ゼーフェッケ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「連邦刑事局」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「連邦刑事局」の関連用語

連邦刑事局のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



連邦刑事局のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのテオドール・ゼーフェッケ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS