連邦刑事局
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「テオドール・ゼーフェッケ」の記事における「連邦刑事局」の解説
1951年8月、ゼーフェッケはCIA側との協議の末、目下西ドイツ警察への復職が不可能である点に同意した。彼は1950年4月に西ドイツ内務省に宛てて復職を申請しており、シェンクの著書によればゲアハルト・シュレーダーやハンス・フォン・レックス(ドイツ語版)といった連邦内務省高官らがこれの検討に当たったという。当初、ドイツ連邦刑事局(BKA)初代長官マックス・ハーゲマン(ドイツ語版)はゼーフェッケがBKA職員として十分な技能を備えていることを認めたが、一方で彼がNSDAPの古参党員である事を理由に懸念を示していた。しかし1951年12月になると、ハーゲマンはゼーフェッケを「正義感があり政治的に無関心かつ従順な将校」と評し、親衛隊時代とほぼ同等の階級を与えて復職させることに同意した。 1952年1月10日、ゼーフェッケはBKAの保安班(Sicherungsgruppe)に配属される。当時班長だったパウル・ディッコプフ(ドイツ語版)によれば、ゼーフェッケは1952年4月頃から極左過激派に関する捜査を担当し、その中で何人かの産業スパイを摘発したという。1953年4月には「火山作戦」(Aktion Vulkan)として知られる大規模なスパイ狩りを指揮し、容疑者40名を逮捕している。「火山作戦」は大きな成功と見なされていたものの、実際には冤罪や証拠不足が散見されるずさんなものであった。1953年8月、刑事捜査官(Kriminalrat, 少佐相当)に昇進。1953年9月からは保安班捜査部門主任。1955年以降は「東側」のスパイ活動に関する捜査に従事していた。 1953年9月、パルチザン出身の元イタリア首相フェルッチョ・パッリ(英語版)は報道向け声明の中で、ゼーフェッケがイタリアにおける保安活動に関与していたと述べた。パッリは1945年1月にパルチザン指導者の1人として逮捕され、ミラノにて収監され拷問を受けた経験があった。1954年にはイタリア当局が戦争犯罪人たるゼーフェッケの身柄引き渡しを要求した。これを受けて1954年7月には連邦内務省がゼーフェッケに停職処分を言い渡し、10月には懲戒手続が開始された。CIAは1952年1月以降ゼーフェッケにエージェントとしての任務を与えていなかったものの、依然として重要な情報提供者であった。また1947年に連邦内務省および英軍と共に彼の無実証明を行っていたこともあり、CIAはゼーフェッケへの支援と連邦内務省への働きかけを惜しまなかった。最終的に連邦内務省では、イタリアによるゼーフェッケへの告発は多くが伝聞に基づいており、矛盾も多く、ゼーフェッケがユダヤ人および政治犯の弾圧に関与していたと確信するには至らないとの判断を示した。1955年、懲戒手続は証拠不十分で中止された。 1962年10月、ボンの保安班にて副班長を務めていたゼーフェッケは雑誌『デア・シュピーゲル』編集部への政治的工作に関与した(シュピーゲル事件(ドイツ語版))。彼は1962年10月27日より長官エルンスト・ブリュックナー(ドイツ語版)による指令の元でこの任務に従事していた。スペインにおける同誌副編集長コンラート・アーラース(ドイツ語版)の逮捕にもゼーフェッケが関与していた。アーラースはインターポールの手で逮捕されたが、反逆罪による起訴自体は行われなかった。『デア・シュピーゲル』では後にゼーフェッケを非難する記事を掲載し、また上官ブリュックナーはBKA長官となっていたディッコプフに宛てた手紙の中で、ゼーフェッケの行動が自らの指示を逸脱したものだったと主張した。 シュピーゲル事件によりゼーフェッケの名前が報道などに掲載されるようになると、彼の過去にも再び注目が集まるようになった。1963年2月、ミラノ市議会はアミントレ・ファンファーニ首相に対してゼーフェッケの起訴を求める電報を送ることに全会一致で合意した。1963年3月6日、連邦議会にてゼーフェッケに関する一連の論争が議題となった。当時の連邦内務相ヘルマン・ヘッヒャール(ドイツ語版)は問答の中で、ゼーフェッケが有能な職員であり、元SS隊員ではあっても政治的に熱心ではなかった上、既にBKAによる十分な再教育が行われたのだと説明した。しかしボンの政府当局ではイタリア側の目撃者などからの聴取を進め、1963年4月24日には2度目の懲戒手続が始まった。ゼーフェッケはボンの保安班を通じてCIAに彼の過去を洗い出そうとしている者を突き止めるように求めた。CIA側は調査を開始こそしたものの、それによって得られた情報をゼーフェッケに渡すかどうかで議論があった。ゼーフェッケがCIAの元で活動していた1950年代と異なり、1960年代にはCIAも元SS将校などナチ時代の高官に対する態度を転換していた。すなわち1961年に摘発されたハインツ・フェルフェ(ドイツ語版)元SS中尉のように、彼らの多くが東側による脅迫を受けており、その上で過去の暴露など恐れ二重スパイと化している可能性が極めて高いと考えられていたのである。実際、この時期には東独国家保安省がゼーフェッケの脅迫を計画し彼の過去を調査していた。偵察総局(ドイツ語版)(HVA)の第I課(Abteilung I)では1961年から調査を行っており、やがてゼーフェッケのポーランド勤務時代の記録を発見することとなる。これに基づき第I課が作成した報告書は、ゼーフェッケがアインザッツグルッペVIに勤務していた事を証明するものであった。ただし捜査の難航から、偵察総局がこの調査結果を発表するのは1976年になってからである。 1964年11月、2度目の懲戒手続が証拠不十分で終了する。1963年5月の時点で、ディッコップフはCIAに対して「恐らく懲戒手続に新しい証拠はもたらされないものの、ゼーフェッケがこれ以上BKAに勤務する事はできない」と報告した。1965年5月、ゼーフェッケは連邦防空組合(Bundesluftschutzverband)への出向を命じられ、また1966年6月には一般市民保護連邦庁(ドイツ語版)(Bundesamt für zivilen Bevölkerungsschutz)へ出向させられている。その後、当初「出向」(Abordnung)とされていた彼の身分は「異動」(Versetzung)に切り替えられた。1971年まで、ゼーフェッケはアールヴァイラー(ドイツ語版)にて政府防空壕(ドイツ語版)建設現場の保安責任者を務めた。この職にある間、彼は作業上必要な通常の保安点検に加えて、施設の重要性から防諜に関する任務にも従事することとなった。また北大西洋条約機構(NATO)による政府防空壕および関連施設の評価に関する準備にも従事し、例えば1966年の指揮所演習「Fallex 66(ドイツ語版)」にも彼が関与している。 結局、西ドイツの司法当局による調査ではゼーフェッケを起訴することができなかった。当初、彼は国家保安本部幹部に対する起訴の対象で、1967年2月9日から彼に関する調査が始まった。しかしゼーフェッケは「第V局A2課」という部局など知らないと証言し、当局はこれを覆すことができなかった。ミラノでの処刑に関する調査は1971年から始まったが、1989年5月には中止された。1960年8月に作成された警察の捜査記録によれば、ゼーフェッケは彼の発した命令はいずれも彼が所属する機関による承認が必要であった証言している。彼が所属した親衛隊や旧警察は既に解体され存在せず命令の実態も不明であり、この証言も覆されることはなかった。
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