陽明学以前
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宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。これに対して、宋代の学者は、訓詁学者は六経(五経)に込められた孔子ら聖人の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。 朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。 四書とは、経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。 隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。 この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び、科挙の使用注釈書は全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。 このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達していた江南地方には、明初期以来、朱子学と微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府崇仁県の呉与弼(康斎)や広州府新会県の陳献章(白沙)は朱子学派に属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践・静坐を重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異なる側面も見られなくはなかったのである。このことは特に陳献章の弟子湛若水(甘泉)と王守仁とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期の江南地方の儒学者と、明中期以後の陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし総じて明初期の思想界は朱子学的側面が強く、呉与弼や陳献章にせよ、本人としては朱子学の実践を行っているつもりであったのである。 なお以上の解釈には一定の歴史的根拠が与えられるが、これらの説明は日本の近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある。近代以後、日本の中国思想研究は、西洋哲学を模倣する必要に迫られた結果、朱子学の思弁的側面を強調し、これを以て哲学と比較可能であると見なすようになった。この結果、朱子学とその派生形態である陽明学の中にある、思弁的側面に集中的に研究が加えられ、或はその思弁的側面こそが朱子学ないし陽明学の特徴であると考えられるに至った。それ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試みの多くは、この思弁的側面のみに注目したものとなっている。 また、朱子学(旧来の思想に対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝が正式に認めた学問であった朱子学に対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後の日本に於ける近代思惟・反権力・人間解放などの概念と容易に結びつき、朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念に近似する部分を抜き取り、そこに思想的価値を与えるという試みが盛んに行われた。以後に説明される陽明学の特徴も、その様な意味づけを与えられた結果であり、それが朱子学及び陽明学の歴史的・全面的な結果であると言い得るか否かは大いに疑問とする立場も一部にはある。(2006年現在) 朱子の死んだのは1200年であるが、その頃の朱子学は、程氏系統の学問や道学と呼ばれ、必ずしも支配的な学問としての地位を獲得してはいなかった。 朱子の晩年に偽学の禁がおこって、道学を偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時の宰相趙如愚以下の名士59人が偽党とされた(慶元党禁)。 しかし、元代になると、南方では既に学界の主流となり、更に許衡と劉因の二人によって北方にも伝来していった。 以下、許衡と劉因との有名な問答のみを紹介する。劉因は、生涯、異民族たる元の朝廷に仕えなかった人であり、許衡は、仕えて大臣にまでなった人である。許衡が朝廷の召命をうけて北京におもむく途中、劉因を訪ねた。劉因いわく、公がただ一度の招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。次いで劉因にも召命が下ったが、劉因は固辞してうけなかった。ある人がその理由を聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年に元朝が長年絶えていた科挙を再開したときには、科挙の学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子のいわゆる『四書集注』を用いることにし、そのほかの五経についても従来の指定学説であった古い漢唐の注釈のかわりに、朱子もしくはその弟子の作った新しい注が指定されることになった。つまり、朱子学はこの頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙の科目となることによって、朱子学は圧倒的な権威をふるうことになるのである。
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