陽明学以前とは? わかりやすく解説

陽明学以前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 13:48 UTC 版)

陽明学」の記事における「陽明学以前」の解説

宋代学者に従って儒学歴史振り返ると、隋唐以前経書音訓音読)や訓詁単語の意味)を重視した訓詁学中心であった。これに対して宋代学者は、訓詁学者は六経五経)に込められ孔子聖人本旨正しく理解できておらず、改め聖人本旨理解する試みが必要であるとの認識達したその際隋唐以前訓詁研究行いつつも、より率直に聖人解釈者との一体性強調し解釈者の心と聖人心と普遍であるという前提構築することになったその結果宋代以後儒学は、孔子思想的側面聖人心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学陽明学であった朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地少な経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つ書物であった四書とは、経書の中の『礼記』から分割編纂した大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つ書物である。これらの書物比較短文で、また勝手な解釈混入させるに適当な内容書物であったため、利用される至った考えられている。特に朱子学従来儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容めぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種学派間の抗争は、直接には性善説解釈めぐって行われる場合多々見られることになった隋唐承け北宋経過した儒学は、南宋中頃以後徐々に道学呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃朱熹道学集大成して遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果南北中国交流始まり朱子学漸く華北にも地歩を築くに至った。 この朱子学解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書対す注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書元朝以来徐々に科挙登用され明朝初期に及び、科挙使用注釈書全て朱子学系統のものとなった。この結果朱子学念願王朝権力との一体化果たし思想界に重大な影響与えることになったのであるこのように明朝に於いて確立した朱子学権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業発達していた江南地方には、明初期以来朱子学微妙な距離を置く人々がいた。例えば、撫州府崇仁県の呉与弼(康斎)や広州府新会県の陳献章(白沙)は朱子学派属するものの、その聖人となるための修養法は読書よりも実践静坐重視するなど、後世から見ると若干朱子学とは異な側面見られなくはなかったのである。このことは特に陳献章の弟子若水甘泉)と王守仁とに交流があること、また王守仁と陳献章との学問的関係も絶無とされないことなどが注目され、明初期江南地方儒学者と、明中期以後陽明学者との関係を意味づけるものと考えられる場合もある。しかし総じて初期思想界は朱子学側面強く、呉与弼や陳献章にせよ、本人として朱子学実践行っているつもりであったのである。 なお以上の解釈には一定の歴史的根拠与えられるが、これらの説明日本近代中国思想研究に於ける影響下にあることを前もって知る必要がある近代以後日本中国思想研究は、西洋哲学模倣する必要に迫られ結果朱子学思弁側面強調しこれを以て哲学比較可能であると見なすようになった。この結果朱子学とその派生形態である陽明学中にある、思弁側面集中的に研究加えられ或はその思弁側面こそが朱子学ないし陽明学特徴であると考えられる至ったそれ故に、一般的に朱子学及び陽明学として説明される試み多くは、この思弁側面のみに注目したものとなっている。 また、朱子学旧来の思想対抗して生れたように考えられた)、特に陽明学(後に説明されるように、これは明朝正式に認めた学問であった朱子学対抗して生まれ出たように見えた)は、敗戦後日本に於ける近代思惟反権力人間解放などの概念容易に結びつき朱子学及び陽明学の中、比較的それらの概念近似する部分抜き取り、そこに思想的価値与えるという試み盛んに行われた以後説明される陽明学特徴も、その様意味づけ与えられ結果であり、それが朱子学及び陽明学歴史的全面的な結果であると言い得るか否か大い疑問とする立場一部にはある。(2006年現在朱子死んだのは1200年であるが、その頃朱子学は、程氏系統学問道学呼ばれ、必ずしも支配的な学問として地位獲得してはいなかった。 朱子晩年偽学の禁おこって道学偽学問とよび、道学の学従が官界から一掃されようとしたこともあり、当時宰相趙如愚以下の名59人が偽党とされた(慶元党禁)。 しかし、元代になると、南方では既に学界主流となり、更に許衡劉因二人によって北方にも伝来していった。 以下、許衡劉因との有名な問答のみを紹介する劉因は、生涯異民族たる元の朝廷仕えなかった人であり、許衡は、仕えて大臣にまでなった人である。許衡朝廷召命をうけて北京おもむく途中劉因訪ねた劉因いわく、公がただ一度招きによって起こったのは、あまりにお手軽すぎはしないか、と。許衡答えいわく、かくのごとからざれば、道、行われず、と。次いで劉因にも召命下ったが、劉因固辞してうけなかった。ある人がその理由聞くと、「かくのごとからざれば、道、尊からず」と答えたという。ともかく、延祐元年元朝長年絶えていた科挙再開したときには科挙学科として、朱子学で特に重んじる四書をたて、かつての注は朱子いわゆる『四書集注』用いることにし、そのほか五経についても従来指定学説であった古い漢唐の注釈かわりに朱子もしくはその弟子作った新しい注が指定されることになった。つまり、朱子学この頃にはすでに、科挙試験がその科目として採用せざるをえなくなるほどまでに普及していたということであり、また逆に科挙科目となることによって、朱子学圧倒的な権威をふるうことになるのである

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