陽明学の根本思想とは? わかりやすく解説

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陽明学の根本思想

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 03:38 UTC 版)

陽明学」の記事における「陽明学の根本思想」の解説

王陽明思想は『伝習録』、『朱子晩年定論』、『大学問』にうかがうことができる。そしてその学問思想特徴は以下のことばに凝縮されている。 1. 心即理陽明学倫理学側面を表すことば。「心即理」は陸象山朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそれを継承した朱子学テーゼ性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」とは天から賦与され純粋な善性を、他方「情」とは感情してあらわれる心の動き指し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子前者のみが「理」に当たるとした。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に外在する事事物物の「理」でもあるとされる。つまり「理」の遍在性内外貫通性朱子学特徴であった。 しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせたそのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する要は無いことになる。この考えはやがて外的権威である経書ひいては現実政治における権威軽視にまでいたる危険性はらんでいた。なお王陽明の「心即理」は基本的に陸象山のそれをトレースしたものであるが、陸が心に天理・人欲という区別立てなかったのに対し王陽明朱子と同様「天理存し人欲を去る」という倫理実践原理持っていた点は異なる。 2. 致良知陽明学方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王陽明晩年独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤かかわらず万人心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦聖人と同じ」)であり、また人間生命力根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに対し、「良知」は人が生来もつものといニュアンスが強い。また陽明学において非常に動的なものとして扱われる。 そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限りその行動は善なるものとされる逆に言えばそれは「良知」に基づく行動外的な規範束縛されず、これを「無善無悪」という。王陽明は「無善無悪」について、以下に掲げる「四句教」を残した。 無善無悪是心之体(善無く悪無きは是れ心の体なり)有善有悪是意之動(善有り有るは是れ意の動なり)知善知悪是良知(善を知り悪を知るは是れ良知なり)為善去悪是格物(善を為し悪を去るは是れ格物なり) これは、「理そのものである心は善悪超えたものだが、意(心が発動したもの)には善悪生まれる。その善悪を知るものが良知にほかならず、良知によって正すこと、これが格物ということだ」というのが大意である。ただし、善悪超えたといっても、孟子性善説から乖離したというわけではない。ここにおける「無」単なる存在としての有無ではなく既成善悪観念価値からは自由であることを指す。しかし誤解招きかねないことばであることは間違いなく、この解釈をめぐり、後に陽明学分派することになる契機となり、また他派猛烈な批判招来することにもなる。 3. 知行合一良知有り様(1)。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践を指す。陽明学反感を持つ朱子学者日本では誤解され実践重視論として理解されたが、これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識実践(あるいは体験)とは不可分考える。たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好むというのは「行」に属する。ただ美しいと感じてその色を見るときにはすでにして好んでいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって両者離れてあるわけではない王陽明説く。また「知は行の始めにして、行は知の成なり」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知実践的性格有し、また道徳的行い良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するであれば、それは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。 4. 万物一体の仁と良知結合良知有り様(2)。「万物一体の仁」とは、人も含めて万物根元が同じであると考え自他一体とみなす思想である。元々は程顥見られる発想であるが、陽明はそれを良知と結びつけた。陽明は自らを含む万物はいわば一つ肉体であって他者苦しみは自らの苦しみであり、それを癒そうとするのは自然で、良知のなせるものだとした。ここに陽明学社会救済根拠見出したのである。 5. 事上磨錬自己修養あり方朱子学においては読書静坐重視したが、陽明はそうした静的環境修養積んでも一旦事があった場合役には立たない日常の生活・仕事の中で良知を磨く努力をしなければならない、と説いた。これが「事上磨錬」である。

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