陽明学が開いた地平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 03:38 UTC 版)
聖人観の変化宋以後、「聖人、学んで至るべし」と言われるように、聖人は読書・修養によって人欲を取り除いた後に到達すべき目標とされるようになる。つまり理念的にはあらゆる人が努力次第で聖人となる道が開かれた。ただ読書などにかまける時間が多くの人々にあるはずもなく、実際にはその道は閉ざされたままだったといえる。 しかし陽明学では心以外の外的な権威を否定するため、もう読書などは不可欠なものとは認められない。むしろ万人に平等に、そしてすでに良知が宿っていることを認めていこうとする。王陽明のある弟子の「満街これ聖人」(街には聖人が充ち満ちている)ということばは端的にこのことを表現していると言えよう。陽明学にあって聖人となれる可能性があるのは、読書人のみならず普通の庶民にも十分あるとされるのである。朱子学との連続性を考慮するならば、宋以後における聖人の世俗化の動きが、明代中葉・末期に至ってひとつの頂点を迎えたといえる。 人欲肯定への道を開く心全体を理とするならば、その内にある欲望のみを否定することは原理的にできない。王陽明自身は「天理を存し人欲を去る」という朱子学的な側面を捨てきってはいなかったが、下で述べるように、その弟子達は人欲を自然なものとして肯定していくのである。よく知られているように明代中期以後、急速に貨幣経済が浸透する。軽々に思想と経済の間の因果関係を結論づけることはできないが、陽明学における人欲の肯定が、発展著しい商業経済にとって時宜に適う思想であったことは間違いない。 経書の地位低下心を外的な規範から解放した結果、六経などの経書を尊び学ぶ姿勢が減退していくことになる。王陽明自身は「吾が心に省みて非なれば、孔子の言といえども是とせず」と言い切ってはいても、未だ経書への姿勢は謙虚さがあった。しかしその弟子、就中高弟と言われる者でも生涯に読んだ経書は四書だけといわれる人が陽明学派から出てくるようになる。かくして経書はその聖性を減じていき、六経は単なる歴史に過ぎないという解釈が生まれた。これは清代考証学の一派である黄宗羲ら浙東史学から章学誠を経て、章炳麟へ受け継がれていった。 朋友関係の重視陽明学の一派は、講学といわれる研究会を好んだことで知られる。派内の交遊が壮んであることは、「五倫」(父子・君臣・夫婦・長幼・朋友)の中でも特に「朋友」という人間関係を重視する姿勢を生み出した。すなわち極めて同志意識・連帯意識が濃厚であった。本来、朋友以外の四倫は上下関係を基礎におくものであるが、朋友に限っては水平方向の人間関係である。それを重視するということは、儒教的価値観に一石を投じるものであった。
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