偽学の禁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 06:02 UTC 版)
53歳の時に郷里に帰った朱熹は、これから8年ほどは公務から遠ざかり、祠禄の官をもらって家で学業に励んだ。50代の著作として『易学啓蒙』『孝経刊誤』『詩集伝』『小学書』などがあり、次第に『四書』から『五経』へと研究対象が移行した。陸象山との無極太極論争や、陳亮との義利王覇論争が交わされたのもこの時期である。 淳熙16年(1189年)、孝宗が退位しその子の光宗が即位する。その翌年、朱熹は漳州知事に一年間赴任し、経界法の実施を試みたが、在地の土豪の反発を受けて上手く行かず、一年で離任する。また、紹熙4年(1193年)には潭州知事として3カ月間赴任し、張栻と縁の深い嶽麓書院を修復した。 紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、宰相の趙汝愚の推挙もあって寧宗は朱熹に強い関心を寄せ、煥章閣待制兼侍講(政治顧問)として朱熹を抜擢する。朱熹は、皇帝への意見具申や経書の講義などを積極的に行ったが、韓侂冑の怒りを買ってわずか45日で中央政府を追われ、郷里に戻った。その帰り道で、江西の玉山にて晩年の思想の集約であるとされる「玉山講義」を行った。 慶元元年(1195年)、趙汝愚は失脚し、韓侂冑が独裁的な権限を握るようになり、「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧が始まった。これによって道学は「偽学」として排撃され、道学者の語録は廃棄処分、科挙においても道学風の回答は拒絶された。この弾圧中には、道学派を弾劾すれば自分の官職が上がったため弾圧は激化し、朱熹も激しい弾劾に晒された。 慶元6年3月9日(1200年4月23日)、そうした不遇の中で朱熹は建陽の考亭で71歳の生涯を閉じた。朱熹の臨終の前後の様子は、蔡沈の「夢奠記」に記録されている。
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