開業に至る経緯とは? わかりやすく解説

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開業に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 17:04 UTC 版)

山田線」の記事における「開業に至る経緯」の解説

盛岡 - 陸中山田間は、盛岡三陸地方を結ぶ鉄道として、1892年公布鉄道敷設法にすでに規定されていた区間である。測量調査が行われたものの、盛岡 - 宮古間で標高 1,000 m を超す北上山地区界峠標高 751 m)を越えるため、予定線検討行われたが、建設具体化しないままとなっていた。地元岩手県出身原敬首相となった1920年至って漸く建設決定され1923年から1935年にかけて開業した陸中山田以南区間は、改正鉄道敷設法別表第7号規定する岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道」の一部で、三陸縦貫鉄道構成する予定線であったが、釜石までの区間は、前述区間引き続いて戦前1939年まで開業したものの、釜石以南については戦後建設開業となり、後の三陸鉄道南リアス線となっている。 盛岡 - 宮古間は大部分区間人口希薄な山岳地帯である。俗説では、この路線敷設するかどうか帝国議会審議した際、野党憲政会猛烈に反対し、同党議員は「こんな所に鉄道敷いて首相山猿でも乗せるつもりか」と首相原敬非難した。これに対し原は「鉄道規則読んでいただければわかりますが、乗せないことになっております」と、平然と答弁した、と伝えられている。ただし、質疑のあったとされる第43回帝国議会速記録記録残されていない。 このに関する話は、山田線予算通過翌月に原と共に盛岡訪れて講演した鉄道大臣元田肇が、予算審議の際強硬に反対した貴族院中村是公をやり玉に挙げて貴族院中村是公のごときは、「盛岡より山田に至る間はボウボウたる原野にして住める国なり、国家巨費投じて乗せんとするや」と極端な反対をなせり、余はこれに答えて大森林鉱山天与宝庫である、なんの不利なるや、と反論したのである。』と語った内容尾ひれ付いて広まったものと考えられるまた、1920年大正9年7月21日貴族院鉄道敷設法改正法律案特別委員会に際して公正会所属辻太郎山田線着工反対する意見繰り返した後、北海道の上駅 - 北見滝ノ上駅間の鉄道改正鉄道敷設法別表139号「石狩国ルベシベヨリ北見国滝ノ上ニ至ル鉄道」。未成線となった)の建設に関する質疑で、「北海道中央のこれこそ熊のほかにいない所であると私は思うておる。がここに大都市でもございますのですか。私が今まで想像しておるところでは、この地方は熊の巣だと思うておりますが、この図ではわかりませぬが、大都市この中二つ三つございますのか、あるいは大鉱山とかいうて、こういう貨物トン数どっさり出るところがあるのですか」と質問し鉄道省建設局長の大村太郎が「これは森林北海道といわれるくらいな森林のあるところです。この国境付近は…それでございますから、この材木欠乏時期こういう線を造りますれば非常な材木が出るまた薪炭も非常に出る、そのうえに国境前後には、原野がありまして開墾適した地が多くあります。(中略)よほど有望な線だと思っております。熊の巣は熊の巣ですが、熊の巣を開いたならば大変な財源になるのではないか思っております」と答弁しており、路線取り違えて、熊と入れ替わって伝えられ可能性がある、という意見もある。 だが実際に開業後、盛岡 - 宮古間は満員で座ることができず、立ち通しのことも少なくなかったという。もともと、この区間には1906年から乗合馬車運行が行われ、1913年には盛宮自動車により岩手県では初となる路線バスの運行開始されており、鉄道開業前から一定の流動存在した1950年釜石線全通以前山田線岩手県北部における唯一の海岸部内陸直通路線であり、特に1939年全通後戦時体制背景に、釜石製鐵所釜石鉱山擁した釜石東北線とを直接連絡する鉄道ルートとして、日夜通して貨物輸送貢献した太平洋戦争後の1946年11月山田線風水害により平津戸 - 蟇目間が長期運休となった全線復旧1954年までの8年間を要した大災害であり、その代替として GHQ指示により釜石線改築全通促進された。釜石線全通に伴い釜石から内陸への貨物輸送メインルートは同線に移り山田線相対的地位低下することになった。なお、この災害際し沿岸側に取り残され機関車搬出するため、青函連絡船十勝丸」を宮古港回漕して船積みすることで対処したエピソードがある。 その後も、1980年集中豪雨2008年岩手県沿岸北部地震2011年には東北地方太平洋沖地震東日本大震災)、2015年には土砂崩れ山田線列車脱線事故)の影響で、一部または全線不通となっている(詳しくは下述の年表参照)。

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開業に至る経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:38 UTC 版)

嵯峨野観光鉄道嵯峨野観光線」の記事における「開業に至る経緯」の解説

1989年平成元年3月JR西日本山陰本線嵯峨駅 - 馬堀駅間が電化準備及び複線化のため新線切り替えられ1899年明治32年開業旧線廃線となった一方JR西日本社内には経営基盤確立目的とした線区経営改善推進チーム1987年昭和62年11月設立されており、山陰本線については旧線活用した活性化検討されていた。旧線車窓景観良かったことから、京都新し観光資源として復活要望京都府中心に強くJR西日本社内検討結果事業化取り組むことが決定1989年平成元年11月JR西日本社内嵯峨野線プロジェクトチーム発足し運転再開向けた準備始まった運営母体となる嵯峨野観光鉄道JR西日本100 %子会社として1990年平成2年11月設立され同月末に鉄道事業免許交付されている。開業日が翌1991年平成3年4月設定されたが、廃止以来使用されていなかった線路短期間整備するため、社員全員レール枕木交換草刈りなどの作業が行われた。

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