開業と西南戦争
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明治6年(1873年)10月、米屋町(現在の中央町の一部)において足袋の専門店を開業する。商号は「つちやたび」(文献によっては「つちやたび店」)であった。これは、倉田家が代々屋号に用いている「槌屋」に由来する。開業当初は、座敷足袋を製造していた。商標には、家紋である打ち出の小槌を採用した。開業時に掲げられた木製の看板には、「御誂向(おあつらえむき)御好次第(おこのみしだい)」と記された。これは「希望の通りに誂えます」とった意味をもつ言葉である。 明治7年(1874年)6月24日、23歳のとき、当時15歳の本村モト(文献によっては「もと子」)と結婚する。結婚してからは、雲平が足袋のつま先部分を手がけ、モトが後方部分を担当する分業方式で製造を行った。雲平とモトは精力的に働き、毎日午前7時には仕事に取りかかり、就寝は深夜1時以降であったという。 明治10年(1877年)に西南戦争が起こると、雲平は、軍用の被服として、足袋2万足、シャツおよびズボン下それぞれ1万枚の製造を請け負い、多額の利益を挙げた。 続いて、被服や草鞋、漬物や梅干しなどの軍需日用品を買い集めて戦地に送ったが、政府軍が優勢になると、多くの商売人が軍需日用品の販売活動を始めたため、利益が見込めないと判断した雲平は、商品を処分するなどしたため無一文になった。 雲平は、この失敗から、 走る者はつまずきやすく、つま立つ者は倒れやすい。堅実なる一歩ずつを進めよ。進めたる足は堅く踏みしめよ。 との戒めを得ており、これは倉田家の家訓であり、ムーンスターの社訓にもなっている。
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