開業と延長
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藤相鉄道の測量・工事は順調に進んだ。一方で1911年(明治44年)8月に鉄道免許状が下付された駿遠鉄道は、かなり藤相鉄道と競り合ったものの社内の内紛などもあって測量もろくに行われず、1918年(大正7年)5月に免許失効となり会社自体が消滅することになる。 藤相鉄道がまず手掛けたのは、藤枝駅と藤枝市街を結ぶ「大手線」区間で、1913年(大正2年)に開業した。 続く路線は東海道本線をオーバークロスし、大井川に迫るが、渡河予定地点は大井川河口に近く、川幅は約1kmあり、速やかな架橋は費用の上で困難だった。このため取り敢えず大井川南岸の大幡 - 細江を1915年(大正4年)5月に先行開業し、大井川は徒歩連絡とした。その半年後には有料の人道橋・富士見橋を買収する形で大井川区間を人車軌道として「仮開業」するという、苦肉の策を打ち出している。この人車軌道区間の運行は制約が多く、続行運転の場合は7間(約21m)以上の間隔を空けることが義務づけられていた。また仮橋専属の巡視員を置き、桁の接合箇所を監視して常に安全状態を保つよう政府から求められていた。この区間は単線だったため、数両の続行運転をすると反対側からの運行は少なくとも30分は不可能になり、両側を運行する鉄道線のダイヤが乱れる要因ともなった。このため1918年(大正7年)には橋の中央部に交換用設備を設け、客車2両・貨車2両を待避の上限とする制約を課した上で上下線の交換を可能とした。 大井川架橋が難航する間にも、大井川南岸での路線延長ははかどり、遠州川崎町(後に榛原町)へ、さらに相良へと区間開業を重ねた。大井川の鉄道架橋(ただし道路併用橋)が正式に開業したのは、1922年(大正11年)の集中豪雨による富士見橋の流失をきっかけにした大正も末の1924年(大正13年)のことである。そして1937年(昭和12年)7月9日には鉄道専用橋も完成するが、後述するような不況の影響で資金が足りず、橋桁部分こそ鋼製だが橋脚は前時代的な木製だった。このため、橋梁上は通常で15km/h、強風時や増水時は5km/hの速度制限が課されており、さらに風雨の激しい時はこの区間を運休としてバスによる代行輸送を行っていた。 同じ頃、中遠鉄道も新袋井 - 新横須賀を開業させているが、こちらは沿線に越えるべき大河もなく、工事はスムーズであった。この後しばらく中遠鉄道の延長は途絶えるが、大正末期に南大坂へ延長し、また新袋井での国鉄との連絡を改善している。昭和に入って1927年(昭和2年)、新三俣まで延長され、戦前の中遠鉄道線は全通した。 藤相鉄道も1926年(大正15年)に地頭方まで延長しており、両鉄道の末端同士は15.3kmにまで迫った。
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開業と延長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:03 UTC 版)
浜松北方にあたる金指は高速交通が通っておらず(国鉄二俣線の開業は昭和に入ってから)、また引佐郡の奥山には半僧坊大権現で知られた方広寺があったため、鉄道建設が待たれていた。加えて沿線の三方原は茶や桑の産地でもあり、貨物需要も見込まれた。このため蒸気動力での濱松軽便鉄道が設立され、大正に入った1914年(大正3年)に、まず浜松市街北西部の元城から金指までが開通、翌年には当初の起点となった板屋町に乗り入れた。同年に金指から気賀(後に気賀口)まで延長している。 ここまでは建設も順調だったが、気賀から奥山までは、用地買収のトラブルや浜松鉄道(1915年(大正4年)に浜松軽便鉄道から改称)自体の経営難から難航し、1923年(大正12年)にようやく奥山まで全通した。
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