開業と初期のトラブル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)
「東京駅の歴史」の記事における「開業と初期のトラブル」の解説
東京駅は建設段階では中央停車場と称されていたが、開業が迫りその名前をどうするかが問題となった。東京にはいくつもの駅があるので、中央停車場のみを東京駅と称するのは問題がある、諸外国の例を見ても中央駅とすべきである、という主張もあったが、地方の人にとっては東京駅の方が分かりやすいという主張もあった。東京駅の名を提案したのは当時の鉄道院文書課長の中川正太であったとされる。結局開業まで2週間ほどしかない1914年(大正3年)12月5日にようやく鉄道院総裁達第113号により、中央停車場を東京駅とすることが正式に発表された。 「国鉄デハ6340系電車#京浜線開業時の大失態」も参照 12月18日には、来賓を招いて開業記念式典が開催された。鉄道院は2,345名に招待状を出し、出席は1,508人であった。当初は大正天皇の臨幸を仰ぐ計画もあったが、即位大典の直前であるという理由で中止となっている。開業式では鉄道院総裁の仙石貢や内閣総理大臣の大隈重信、東京市長の阪谷芳郎らが祝辞を述べている。また折から日本は第一次世界大戦に参戦したところであったが、青島の戦いを指揮した神尾光臣中将が凱旋して皇居に参内することになり、開業式に合わせて東京駅に到着することになった。そこで鉄道院は前日夕方に大阪を出る列車に乗って上京した神尾中将に品川駅で降りてもらい、当時最新の電車に乗り換えて東京駅に送り込むことを策した。10時30分に予定通り神尾中将は東京駅に到着し、関係者からの歓迎を受けた。 こうして開業式の日程を無事に終えたが、その後東京駅開業と同時に横浜との間で運転を開始することになっていた京浜線(現・京浜東北線)の新鋭電車に来賓を乗せて横浜の高島町駅(現在の横浜駅と桜木町駅の間付近に存在した仮駅)まで往復する試乗会を行ったところ、不具合で大混乱をきたすことになってしまった。新しい試みの多い新形電車であったにもかかわらず試運転が不十分で、突き固めの十分でない新しい線路に重い車両を走らせたため線路が沈下し、パンタグラフと架線が合わなくなったり、架線にパンタグラフが引っかかったりして、来賓を乗せた電車はあちこちで立ち往生してしまった。結果的に横浜まで40分のふれこみのところが2時間以上も要することになり、面目を失った鉄道院は翌12月19日の朝刊に謝罪広告を出す羽目となってしまった。これに関して、石丸重美技監らが責任を問われて馘首されたとする説が広く流布しているが、当時の人事的な争いも絡んだもので、京浜線電車問題だけの責任ではないとされる。後に石丸重美は副総裁として復職し、今度は報復人事を断行している。またこの事件により、予定されていた関係者の叙勲が取り止められている。 こうした混乱もあったが、開業式の2日後の12月20日から東京駅は正式開業し、一般に営業を開始することになった。同時に呉服橋駅は廃止となり、また鉄道開業以来の始発駅であった新橋駅は旅客営業を廃止して汐留駅となった。高架線の上で営業していた烏森駅が代わって新橋駅となっている。12月20日0時23分発の下り列車をもって旧新橋駅は営業を終了し、非番の駅員まで召集して総出で備品類を特別列車に積み込んで東京駅への引越しを行い、5時20分の東京駅始発列車を迎えている。こうしたこともあり東京駅開業時の駅員は旧新橋駅勤務の駅員が中心で、駅員総数283名であった。初代駅長を務めたのも旧新橋駅長を1895年(明治28年)から長く務めていた高橋善一であった。また営業開始に際して東京駅発行の第1号乗車券は、売った駅員も買った乗客も姓が川端だったという偶然があった。 開業当初は1日の平均乗降人員は9,500人程度に過ぎなかった。丸の内のオフィス街は未完成で、周辺の交通機関も未整備だったためである。当時勤務していた駅員は、終列車が出るとシーンとして気持ちが悪いくらいだったと語っている。何もない原っぱの中に壮大な駅舎が立ち、夜になると周囲は真っ暗といった状況であった。開業時のダイヤは、1912年(明治45年)6月15日に初めて新橋 - 下関間に特別急行列車(特急)の運転が開始されたときのものが基本となっており、特急は1往復のみ、急行も5往復に過ぎなかった。 正式開業以来、第1プラットホームは山手線用、第2プラットホームは京浜線(現・京浜東北線)用、第3プラットホームは長距離列車の到着用、第4プラットホームは長距離列車の出発用として使用された。しかし、京浜線は前述のトラブルにより、12月26日から運転休止となり、入念な整備を終えて翌1915年(大正4年)5月10日からようやく運転を再開した。 丸の内駅舎にはホテルが併設された。当時のホテルは外国人客が中心で、外国人訪日客数の増減により損益の浮き沈みの激しい事業となっていた。一方で大型客船が入港するとその乗船客を受け入れるホテルが不足し、訪日客の増加を図る上でホテルの増設は課題となっていた。しかし国鉄がホテルを運営する必要はないという反対の動きもあり、駅舎内のホテル設置はその是非と規模を巡って二転三転することになった。結局東京駅開業直前にホテル設置が正式決定したためホテルの工事は遅れ、駅開業時点では食堂関連設備のみが完成していた。鉄道院は当初ホテルを直営にしたい意向を持っていたが、鉄道院総裁が替わるうちにホテル反対論もでてきたために、築地精養軒に委託されることになった。これは「宿泊は帝国、料理は精養軒」と当時の業界で言われており、ホテルだけで経営していくのは難しいだろうとの予測から、食堂の営業利益で補填を行わせることを考えたものだとされる。東京駅の開業式典においては完成していた食堂関連設備を利用して来客への祝宴料理の提供を行い、また12月20日の開業から1階の食堂は営業を開始した。宿泊部門は1915年(大正4年)11月2日に東京ステーションホテルとして営業を開始している。
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