開業と前田家の出資
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:20 UTC 版)
最初の発電所、上辰巳発電所(後の辰巳発電所)は、犀川から取水する寺津用水より分水し犀川本流へ放水するまでの間に発電するというもので、石川郡犀川村大字上辰巳村(現・金沢市上辰巳町)に位置する。1898年10月に起工され、1900年(明治33年)5月23日に竣工した。当初の設備はペルトン水車2台とこれにベルトで連結されたウェスティングハウス・エレクトリック製120キロワット三相交流発電機2台であった。 発電所の完成に伴い、金沢電気は1900年6月25日に開業した。当時の金沢市は全国で9番目に人口が多く北陸最大の都市(1898年末時点)であったが、電気事業の出現は他都市に比べ遅く(ほぼ同じ人口の仙台市より6年遅い)、北陸3県でも富山市(富山電灯・1899年4月開業)、福井市(京都電灯福井支社・1899年5月開業)よりも遅くなった。こうして開業した金沢電気の電気事業は、開業初年から設立段階の想定需要であった電灯4000灯を超えており、5年後の1905年(明治38年)には2倍の9000灯まで拡大した。この間、1902年(明治35年)に発電機を1台増設している。順調な電灯需要拡大の一方、動力用電力需要を240馬力(約180キロワット)と見積もっていたが、1905年時点でも電力供給実績は63馬力に過ぎなかった。 需要が想定より少ないことから初期の金沢電気は経営不振であった。加えて社長の中川長吉の関係で能登銀行から一部資金を借り入れていたが、同銀行は1900・1901年の不況で深刻な経営危機に陥った。こうした環境悪化の対策として、金沢電気では旧加賀藩主前田侯爵家へ救済を求める。要請に応え前田家は1901年に金沢電気への出資を始め、翌1902年には小池靖一を送り込んだ。小池は加賀藩重臣長家の家臣であった家の出で、1902年1月中川に代わって2代目社長に就任した。また監査役に前田家分家の前田直行も加わった。さらに1903年(明治36年)には、旧藩重臣の家の出身者横山隆興・本多政由(本多政以の弟)が取締役に就任している。こうして旧藩関係者で固められた金沢電気は信用が向上し、経営が安定するようになった。1905年には最初の増資を実施し資本金を35万円としている。
※この「開業と前田家の出資」の解説は、「金沢電気瓦斯」の解説の一部です。
「開業と前田家の出資」を含む「金沢電気瓦斯」の記事については、「金沢電気瓦斯」の概要を参照ください。
- 開業と前田家の出資のページへのリンク