開業とその後の経緯
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宮城電気鉄道は1925年(大正14年)6月4日に仙台駅から西塩釜駅の間で開業した。この二つの駅のほかには東七番丁駅、榴ケ岡駅、陸前原ノ町駅、福田町駅、陸前高砂駅、多賀城駅があった。仙台駅と西塩釜駅の間の運賃については3等が25銭で2等はその倍だった。回数券や定期券も存在し、手荷物や小荷物、貨物の取り扱いがあった。仙台発の始発列車が5時35分発、最終列車が23時24分発、西塩釜発の始発列車が5時20分発、最終列車が23時12分発で、1日に29往復というダイヤだった。車両については、電気機関車1両、旅客用電車5両、貨車10両をもって開業を迎えた。西塩釜駅の立地の悪さがあったにもかかわらず多くの旅客が利用し、開業初年度の旅客数は当初の予測に対して2倍近いものだった。この後、宮城電気鉄道は1926年(大正15年)4月14日に本塩釜駅まで延びて、それにともなって旅客も順調に増えた。 宮城電気鉄道は1927年(昭和2年)4月18日に松島公園駅(現在の松島海岸駅)へと延伸した。この松島延伸にあわせて、宮城電気鉄道は劇場や食堂、浴場、人形の家からなる松島遊園の建設を計画していた。この施設は松島公園内の県有地1800坪を借りて建設され、松島公園駅開業から約3箇月後の8月1日に開園した。宮城電気鉄道は雑誌に行楽広告を載せて松島への観光客の誘致を図っていたが、松島遊園の事業は赤字でも黒字でもなくとんとんだったという。また、実業家の高橋良作による松島水族館が松島公園駅開業とほぼ同時期の4月に開園している。 1928年(昭和3年)4月10日に宮城電気鉄道は陸前小野駅まで延び、同年11月22日には石巻駅までの全線開通を果たした。仙台駅と石巻駅の間の3等運賃は1円50銭であり、1930年(昭和5年)時点のダイヤで仙台駅と石巻駅の間を走る列車は6往復あって、その所要時間は1時間40分だった。こうして全線が開通した宮城電気鉄道だったが、全線を乗り通す旅客は想定より少なく、旅客の大部分は仙台と塩竈の間に集中した。山本の言葉によれば、鳴瀬川を境に旅客の移動が分かれていると評される状態だったという。また、石巻には小牛田駅と石巻駅を結ぶ仙北軽便鉄道が大正時代初めに開通しており、これが国有化されて石巻線となっていた。石巻における貨物輸送については石巻線が主流のままだった。その後、昭和恐慌の影響で1930年(昭和5年)に宮城電気鉄道の旅客数は大きく減少し、その後も低調な状態が続いた。1935年(昭和10年)から業績が再び伸びるようになり、戦時体制下になるにつれ活況を呈するようになった。 1933年(昭和8年)、松島観光のための展望車が宮城電気鉄道に導入された。列車にガイドガールが添乗し、旅客に紅茶をふるまうサービスが行われていたという。1939年(昭和14年)時点のダイヤでは、仙台から塩竈まで15分間隔で1日60往復、松島まで30分間隔で38往復、石巻まで1時間間隔で18往復の列車が運転されるようになっていた。また、東七番丁駅から陸前原ノ町駅までの区間が1942年(昭和17年)に複線となった(1943年に複線化とも)。山本は東七番丁駅から西塩釜駅までの区間を複線化した上で、7分間隔の列車運行を考えていたという。
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