継続戦争
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「ヴァイナモイネン (海防戦艦)」の記事における「継続戦争」の解説
イルマリネン級2隻が主砲を射撃したのは、継続戦争緒戦のハンコ半島から赤軍が撤退した時の一回のみである。先の冬戦争でソ連にハンコ半島を割譲したが、継続戦争が勃発するとフィンランド軍の攻撃によりソ連は半島から撤退、フィンランドが再び半島を領有した。1941年9月13日、ドイツとの共同作戦「ノルトヴィント作戦」が実行されたが、これに伴う海戦で旗艦であったイルマリネンが触雷して沈没した。 1943年、イルマリネンに代わってヴァイナモイネンを旗艦とし、そのほか6隻のVMV警備艇と6隻の掃海艇からなる分遣艦隊が組織され、ヘルシンキやコトカなどの沿岸部で運用された。レニングラード包囲戦最中には、フィンランド湾に敷設された機雷の除去や警備にあたっている。 1944年夏、ソ連がフィンランドに対し大規模反攻(ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢)を行ったが、その中でソ連側はヴァイナモイネンを沈めるため全力を挙げた。ソ連側が出した偵察部隊がコトカ湾に差し掛かると、部隊は大きな軍艦の姿をとらえた。これをヴァイナモイネンとみたソ連側は、すかさず計132機にも上る爆撃機や戦闘機の大部隊でコトカを大規模空襲し、A-20がこの軍艦に爆弾9発を命中させて撃沈した。しかし、この時攻撃したのはドイツ海軍の防空巡洋艦「ニオベ」であり、ヴァイナモイネンは難を逃れている。
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継続戦争
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「パーヴォ・タルヴェラ」の記事における「継続戦争」の解説
戦後、タルヴェラは、ペツァモ要塞の指導を委任された。1940年9月、マンネルハイムの私的代理人としてベルリンに渡り、ドイツ参謀本部代表と武器供給等について交渉した。その後も数回ドイツを訪れ、独ソ戦(継続戦争)時のフィンランド軍の行動を調整した。 1941年6月、第6軍団(第5、第11師団、第1猟兵旅団)長に任命され、開戦と共にカレリア軍の編成下に入った。東カレリアの攻勢で重要な役割を果たし、7月、ソ連第71狙撃師団の防衛線を突破し、7月14日、ソ連第7軍を掃討し、1939年時のソ・フィン国境に到達した。9月4日、第6軍団(2個師団増強)は、スヴィル方面で攻勢を開始し、南部作戦集団の防衛線を突破し、9月6日、オロネツを奪取した。ハッグルンド将軍の部隊によるペトロザヴォーツク奪取を支援した後、オネジュ湖北方の戦いに参加した。 1942年初め、攻勢を停止し、防勢転移していたカレリア軍の司令官に任命。1942年中盤、ドイツ国防軍最高司令部附属フィンランド軍総司令官代表としてベルリンに赴任。 1944年6月末、ソ連軍が大規模攻勢を開始し、タルヴェルは緊急に召還され、セゴゼルとオネジュ湖間に展開する第2軍団(別名マセル作戦群)長に任命された。6月14日、オロネツ作戦群のL.エギア将軍を更迭。部隊を密かに撤収させ、スヴィル川の線で陣地を敷いたが、ソ連第32軍の攻撃を支えられず、8月9日に退却した。1944年8月1日から9月7日まで再び国防軍最高司令部附属フィンランド軍総司令官代表。
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継続戦争
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詳細は「継続戦争」を参照 1941年6月29日、継続戦争勃発に伴い即座にカレリア軍(英語版)が組織された。また、第1軍団(フィンランド語版)から第7軍団(フィンランド語版)まで計7つの軍団も組織されている。フィンランド陸軍の担当は主にフィンランド湾からカイヌー県にかけての地域であり、北部フィンランド地域はドイツ国防軍陸軍のノルウェー軍(英語版)が担当していた。1941年の夏から秋にかけて、フィンランド陸軍はソ連軍を東カレリアの奥まで押し戻し、冬戦争で失われたかつてのフィンランド領の再占領に成功している。1942年冬、フィンランドは積極的な攻撃を止めたためその後2年にわたって戦線は膠着した。 1944年6月、ソ連側のヴィボルグ=ペトロザヴォーツク攻勢発動により戦線は再び活発化、その結果フィンランドはカレリア地峡やヴィープリ、その他主要都市の大部分を失い、東カレリアからの撤退を余儀なくされた。しかし、タリ=イハンタラの戦いで激戦の末フィンランドは防衛に成功し、ソ連軍の侵攻を食い止めた。9月にフィンランドはドイツ軍の完全撤退などを条件にモスクワ休戦協定を締結し、継続戦争は終戦を迎えた。
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継続戦争
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詳細は「継続戦争」および「en:Baltic Sea campaigns (1939–1945)」を参照 「en:Finnish Ladoga Naval Detachment」および「en:Naval Detachment K」も参照 継続戦争が始まる前にフィンランド海軍は5隻の魚雷艇をイタリアに発注した。ソ連が冬戦争以降に取得したハンコ半島の基地は、フィンランド海軍の作戦領域を2つに分けた。これは、機雷原によって守られたフィンランド湾東部の入口にあるRussaröとOsmussaarの要塞砲を含んでいる。広大な機雷原は戦争が始まった際に、ドイツ海軍と協力して敷設された。ソ連が1941年12月にハンコを撤退するまで、海防戦艦はハンコのソ連の基地を砲撃した。 フィンランド湾には1941年から1945年の間に、69779個の機雷および障害物がフィンランド、ソ連、ドイツの各海軍によって敷設された。ソビエト海軍は16179個の機雷と2441個の障害物、フィンランド海軍は6382個の機雷を敷設した。ドイツ海軍は艦艇、潜水艦、航空機から45000個の機雷を敷設し、そのうち3000個は磁気機雷だった。終戦後、1957年まで掃海作戦が行われたが、機雷の危険性は数十年以上継続しており、バルト海には第二次世界大戦時代の機雷が何百も残されている。機雷によるフィンランド海軍の最大の被害は、イルマリネン級海防戦艦の喪失である。 1941年9月13日に触雷したイルマリネンは沈没し、乗員のうち271名が死亡、132名が救出された。生存者のほとんどは後に、外輪式の蒸気船を含む古い捕獲船を使用したオネガ湖の艦隊へ配属された。 1942年の海上戦闘は対潜水艦戦が中心であった。フィンランド海軍とドイツ海軍はバルト海に侵入するソ連の潜水艦を防ぐことを試みた。しかし、機雷原はソ連の潜水艦の活動を完全に停止させるには不十分であった。ソ連の潜水艦により18隻が撃沈され、うち7隻がフィンランドの船舶だった。 3隻のフィンランド海軍の潜水艦により、12隻のソ連の潜水艦が撃沈された。対潜水艦戦の次の段階は、NaissaarとPorkkalaの間の対潜ネットでフィンランド湾を封鎖することであった。対潜ネットの設置は海氷が溶けた直後に行われた。対潜ネットと付随する機雷原は障壁として効果的に機能し、ソ連の艦艇の一部は1944年の秋までフィンランド湾東部に閉塞されていた。ソ連海軍は障壁を回避するために、フィンランドの沿岸の航路を使用することが可能であった。 1942年春にフィンランド海軍はゴーグラント島を占領した。 1942年7月にソ連はフィンランド湾の小さな島であるソマーズ島を占領しようとしたが、ソ連は何隻かの巡視艇や魚雷艇と128名の兵士を失い、102名の兵士が捕虜となる結果に終わった。 1943年にフィンランド海軍は14隻の新しい魚雷艇を受領し、これまで使用されていた戦前型の魚雷艇を置き換えた。 1944年、ソ連はフィンランドに対する大攻勢を開始した。フィンランド海軍はヴィボルグ湾で陸軍の戦闘を支援したが、最終的には艦艇を撤退することを余儀なくされた。
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