第四夜 日系人部隊
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「99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「第四夜 日系人部隊」の解説
1943年4月、とも・一郎・次郎・しのぶはそれぞれアメリカへの忠誠を誓ったが、しのぶ以外の三人は互いにそれを知らなかった。山岸が現れて四人の前で一郎の志願兵での米軍入隊決定を伝え、入隊決定通知(身体検査出頭要請)を持ってきた。同室の小宮弘も米軍入隊となり、太助と大喧嘩に発展した。ともや太助は親の心子知らずと落胆する。五日後の入隊を知らされた一郎は次郎からの叱咤もありしのぶに求婚し、翌日つつましく挙式を行い結婚。二日後の夕食にワインを入手したともは四人で一郎の無事帰還を祈って乾杯をした。収容所内での入隊式が終わり、バスに乗り込む一郎らが収容施設を後にすると、見送りに集まっていた住民らは閉じられたゲートに殺到してバスが見えなくなるまで手を振り続けた。 7月になると小宮太助、野中夫妻ら忠誠を誓わなかった日系人は同様の者達を集めたツールレイク収容施設に移動となり、翌月には野中夫妻が交換船で日本へ帰国した。それと入れ替わるように恩赦で釈放された長吉がFBIに連れられマンザナー収容施設に移動させられて、とも・次郎・しのぶと再会した。 9月、日系人歩兵だけの442連隊に配属されて3ヶ月の基礎訓練後に一郎が10日間の一時休暇で収容施設に帰省した。長吉と再会し、その日の夕食には収容所内から食材が集められてすき焼きを振舞われた。明くる日に長吉が一郎としのぶの収容施設外への旅行外出許可が得られるよう上層部と交渉し、その翌日に一郎としのぶは新婚旅行に旅立つ。しかし一郎の軍服姿の威光もなく、二人はシアトル市街のレストラン・ホテルで次々と嫌がらせを受ける。日が暮れた頃、ある白人老女が持つ一軒の海辺の宿屋に泊まることができたので一週間をすごし、九日目に収容所へ戻る。十日目に長吉・次郎だけの見送りで三人は肩をしっかり抱き合い、一郎は振り返って復隊用バスに乗車した。 一郎が去っておよそ2ヶ月後、四人での食事時にしのぶが悪阻を覚え、ともだけが気づいてしのぶを医者に診せたところ妊娠3ヶ月を告げられ、三世誕生の予感に一同は歓喜した。その場に山岸が現れ、休暇から復隊して更に10ヶ月間の強化実戦訓練が続いていることがキャンプシェルビーの一郎からの手紙でわかり、ヨーロッパ戦の困難さも伺えた。ある日の近接格闘技訓練で一郎以下新兵を叩きのめした巨漢の教官を新兵の一人・夏木の男が背負い投げでノックアウトさせ、これに新兵の意気が上がった。 1944年5月には一郎としのぶの長男・ケン大和が誕生し、その知らせはナポリで一郎にも伝えられたが、部隊はイタリア戦線のローマ郊外を目指していた。ところが急遽北イタリアを抜けてフランス戦線ブリュイエル村の解放を命令されてその地に立った。そこの住民はまるで奇妙なものを見るように当惑していた。好奇心で一郎らに近づいた子供らを急いで呼び戻す母親たちからは日系米人を独軍の友軍とされて危険視されてしまった。休む間もなく部隊への次の発令はビフォンテーヌ村近くのポージュの森でドイツ軍に包囲されたテキサス大隊の救出命令だった。部隊内では兵士が全滅し兼ねない無謀な命令に強硬に拒絶反応を示す者と危険に晒されたテキサス大隊に同情的な夏木とが言い合いになっていた。「白人でも日系人でも命令には逆らえないのだから父祖から伝わる大和魂を持つ日系人だからこそ成遂げられたのだと胸を張れることを見せてやろう、後に残る自分らの子供家族同胞のためにも」と檄を飛ばす一郎に賛同して、部隊のスローガンが小さく、やがて耳を聾さんばかりの力強い鬨の声として野営地周囲に響き渡った。 10月16日。樹木が上り傾斜斜の塹壕で上方からの戦車砲弾の雨霰が襲いかかり、部隊は蜘蛛の子を散らすように塹壕から一斉に飛び出したが、散開し切れない場所での無謀とも言える突撃行動だったことと、雨と雪によって凍える寒さの中で昼夜ない砲撃を受け、たちまち死傷者の山となった。10月20日、地形や環境をうまく利用して身を隠していた独軍兵によって狙い撃ちをされていた442部隊はテキサス大隊まであと一マイルの地点で独軍の機関銃座から見境なく銃撃され、木々に当たった兆弾でも多くの死傷者が出る中で一郎は号令をかけて夏木らを率いて突撃し、後に沈黙した銃座から見渡した惨状に思わず立ち尽くしてしまった。下方の生き残り兵を従えて一郎は先に進むべく発破を掛けたその直後、生き残っていた機関銃手の動きを見て取って、先行しようとした夏木を庇うように被弾。先に進めと一郎から後を託された夏木は、味方の生き残り兵を更に撃抜いた狙撃兵が弾詰まりを起こしたと見るや自分の銃を投げ出して止めを刺した。放り出した銃を掴んで一気にテキサス大隊陣地まで駆け出した夏木は偶々出会った斥候から掴みかかられたところを動転逆上して掴み倒してナイフを奪って逆手刺しする寸前に大隊のエンブレムワッペンに気づいた。こうしてテキサス大隊は救われたのであった。 戻ってきた夏木に看取られながら、必ずかみさんと子供のところへ生きて帰れと言い残した一郎はそれまで手にしていたしのぶとケンの写真を取り落とし、静かに絶命。作戦は成功したが、このミッションだけで442連隊は死傷者800人以上もの犠牲を払わされた。 そんな442部隊が激戦を送る中で収容所では穏やかな日々が流れていた。ある日、野菜の畝作りをしていた長吉・次郎は、山岸と二言三言交わしてから電報とブロンズスター勲章を渡され、一郎の戦死を知った。 翌1945年3月、収容所内では東京大空襲が噂されていたが、長吉はデマだと一蹴し、うろたえる日系人たちに軽挙妄動を慎むように説き伏せて、日本の勝利を信じて疑わなかった。一方の日本では、昭和20年2月、日本軍部が米軍上陸地を沖縄南部と予想して持てるだけの家財道具を抱えた住民を沖縄北部に向けて疎開させ、さちとさちを預かるとき一家の姿もその中にあった。 6月、浅瀬の島の洞窟を利用しただけの軍民共用の救護所では病床も薬品も医者もいない、積み重ねられた死人の隣で傷病者は黙って死を待つだけという有り様だった。米軍が近づいてきたと女学生挺身隊の友人・弓子が伝えに戻って来ると護衛に当たっていた兵士は全員移動を半ば自棄で呼びかけた。止めに入ったさちを銃口を向けて脅した兵士はさちを退かせると洞窟を出て突撃したが、待ち構えていた米兵の銃撃で戻ってくることはなかった。 通訳兵の到着を待っていた米軍上陸部隊の海兵隊小隊長は翌日の洞窟攻撃を伝え、翌朝になると小隊は包囲の輪を狭めながら洞窟を擁する浅瀬の島へ近づき、救護所に潜伏している全員に向かって沖縄戦終結と投降を呼び掛けた。洞窟中の一人の兵士が全員玉砕を呼びかけて点火させた手榴弾の音を聞き、立上る黒煙を見た小隊は、通訳兵の伍長が救護兵を送る合図を機に一斉に走り寄った。 気を失っていたさちは弓子とともに野戦病院で治療を受け、海兵隊伍長の小宮弘と出会った。小宮は収容所で同室だった平松家の身内かと尋ねたが、家族に捨てられたと思っていたさちは敢て違うと答えた。海兵隊の病院を嫌がり、叔母のときの家に身を寄せたが、とき一家は全員死亡していた。頼る身寄りがいなくなったさちは広島のしづに会うべく、小宮に金の無心をしたが、8月6日、弘は広島市への原子爆弾投下という衝撃の事実を伝えた。
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