第四夜 日系人部隊とは? わかりやすく解説

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第四夜 日系人部隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:30 UTC 版)

99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「第四夜 日系人部隊」の解説

1943年4月、とも・一郎次郎・しのぶはそれぞれアメリカへの忠誠誓ったが、しのぶ以外の三人互いにそれを知らなかった山岸現れ四人の前で一郎志願兵での米軍入隊決定伝え入隊決定通知身体検査出頭要請)を持ってきた。同室小宮弘も米軍入隊となり、太助大喧嘩発展した。ともや太助親の心子知らず落胆する五日後の入隊知らされ一郎次郎からの叱咤もありしのぶに求婚し翌日つつましく挙式行い結婚二日後の夕食ワイン入手したともは四人一郎の無事帰還祈って乾杯をした。収容所内での入隊式が終わりバス乗り込む一郎らが収容施設後にすると、見送り集まっていた住民らは閉じられゲート殺到してバス見えなくなるまで手を振り続けた7月になると小宮太助野中夫妻忠誠を誓わなかった日系人同様の者達を集めたツールレイク収容施設移動となり、翌月には野中夫妻交換船日本へ帰国した。それと入れ替わるように恩赦釈放され長吉FBIに連れられマンザナー収容施設移動させられて、とも・次郎・しのぶと再会した9月日系人歩兵だけの442連隊配属されて3ヶ月基礎訓練後に一郎10日間の一時休暇収容施設帰省した長吉再会しその日夕食には収容所内から食材集められすき焼き振舞われた。明くる日長吉一郎としのぶの収容施設外への旅行外出許可得られるよう上層部交渉し、その翌日一郎としのぶは新婚旅行旅立つ。しかし一郎軍服姿の威光もなく、二人シアトル市街レストラン・ホテル次々と嫌がらせを受ける。日が暮れた頃、ある白人老女が持つ一軒海辺宿屋泊まることができたので一週間をすごし、九日目に収容所へ戻る。十日目に長吉次郎だけの見送り三人は肩をしっかり抱き合い一郎振り返って復隊用バス乗車した一郎去っておよそ2ヶ月後四人での食事時にしのぶが悪阻覚え、ともだけが気づいてしのぶを医者に診せたところ妊娠3ヶ月告げられ三世誕生予感一同歓喜したその場山岸現れ休暇から復隊して更に10ヶ月間の強化実戦訓練続いていることがキャンプシェルビーの一郎からの手紙でわかり、ヨーロッパ戦の困難さ伺えた。ある日近接格闘訓練一郎下新兵を叩きのめした巨漢教官新兵一人夏木の男が背負い投げノックアウトさせ、これに新兵意気上がった1944年5月には一郎としのぶの長男ケン大和誕生し、その知らせナポリ一郎にも伝えられたが、部隊イタリア戦線ローマ郊外目指していた。ところが急遽北イタリア抜けてフランス戦線ブリュイエル解放命令されてその地に立った。そこの住民はまるで奇妙なものを見るように当惑していた。好奇心一郎らに近づいた子供らを急いで呼び戻す母親たちからは日系米人独軍友軍とされて危険視されてしまった。休む間もなく部隊への次の発令はビフォンテーヌ近くのポージュのドイツ軍包囲されテキサス大隊の救出命令だった。部隊内では兵士全滅し兼ねない無謀な命令強硬に拒絶反応を示す者と危険に晒されテキサス大隊同情的な夏木とが言い合いになっていた。「白人でも日系人でも命令には逆らえないのだから父祖から伝わる大和魂を持つ日系人だからこそ遂げられたのだと胸張れることを見せてやろう、後に残る自分の子家族同胞のためにも」と檄を飛ばす一郎賛同して部隊スローガン小さく、やがて耳を聾さんばかりの力強い鬨の声として野営地周囲響き渡った10月16日樹木上り傾斜斜の塹壕上方からの戦車砲弾雨霰襲いかかり、部隊蜘蛛の子を散らすように塹壕から一斉に飛び出したが、散開し切れない場所での無謀とも言える突撃行動だったことと、によって凍え寒さの中で昼夜ない砲撃を受け、たちまち死傷者の山となった10月20日地形環境をうまく利用して身を隠していた独軍兵によって狙い撃ちをされていた442部隊テキサス大隊まであと一マイル地点独軍機関銃座から見境なく銃撃され木々当たった兆弾でも多く死傷者が出る中で一郎号令をかけて夏木らを率いて突撃し、後に沈黙した銃座から見渡した惨状に思わず立ち尽くしてしまった。下方生き残り兵を従えて一郎先に進むべく発破掛けたその直後生き残っていた機関銃手動き見て取って先行しようとした夏木庇うように被弾先に進め一郎から後を託され夏木は、味方生き残り兵を更に撃抜いた狙撃兵が弾詰まり起こしたと見るや自分の銃を投げ出して止め刺した放り出した銃を掴んで一気テキサス大隊陣地まで駆け出した夏木偶々出会った斥候から掴みかかられところを動転逆上して掴み倒してナイフ奪って逆手刺しする寸前大隊のエンブレムワッペンに気づいた。こうしてテキサス大隊救われたのであった戻ってきた夏木看取られながら、必ずかみさん子供ところへ生きて帰れと言い残した一郎それまで手にしていたしのぶとケン写真取り落とし静かに絶命作戦成功したが、このミッションだけで442連隊死傷者800人以上もの犠牲を払わされた。 そんな442部隊激戦を送る中で収容所では穏やかな日々流れていた。ある日野菜の畝作りをしていた長吉次郎は、山岸二言言交わしてから電報ブロンズスター勲章渡され一郎戦死知った。 翌1945年3月収容所内では東京大空襲噂されていたが、長吉デマだと一蹴しうろたえる日系人たちに軽挙妄動を慎むように説き伏せて日本勝利を信じて疑わなかった。一方日本では昭和20年2月日本軍部が米軍上陸地を沖縄南部予想して持てるだけの家財道具抱えた住民沖縄北部向けて疎開させ、さちとさちを預かるとき一家の姿もその中にあった。 6月浅瀬の島の洞窟利用しただけの軍民共用救護所では病床薬品医者もいない、積み重ねられ死人の隣で傷病者黙って死を待つだけという有り様だった。米軍が近づいてきたと女学生挺身隊友人弓子伝え戻って来ると護衛当たっていた兵士全員移動半ば自棄呼びかけた。止め入ったさちを銃口向けて脅した兵士はさちを退かせる洞窟出て突撃したが、待ち構えていた米兵銃撃戻ってくることはなかった。 通訳兵の到着待っていた米軍上陸部隊海兵隊小隊長翌日洞窟攻撃伝え翌朝になると小隊包囲の輪を狭めながら洞窟擁する浅瀬島へ近づき救護所潜伏している全員向かって沖縄戦終結投降呼び掛けた洞窟中の一人兵士全員玉砕呼びかけ点火させた手榴弾の音を聞き立上る黒煙見た小隊は、通訳兵の伍長救護兵を送る合図機に一斉に走り寄った気を失っていたさちは弓子とともに野戦病院治療を受け、海兵隊伍長小宮弘と出会った小宮収容所同室だった平松家身内かと尋ねたが、家族捨てられたと思っていたさちは敢て違うと答えた海兵隊病院嫌がり叔母のときの家に身を寄せたが、とき一家全員死亡していた。頼る身寄りがいなくなったさちは広島のしづに会うべく、小宮に金の無心をしたが、8月6日、弘は広島市への原子爆弾投下という衝撃事実伝えた

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