テキサス大隊の救出
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「第442連隊戦闘団」の記事における「テキサス大隊の救出」の解説
1944年10月24日、第36師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。10月25日には、第442連隊戦闘団第2大隊に待機命令、翌26日には救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。 10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の56名(617高地:第2大隊12名、失われた大隊救出:連隊本部等3名、第100歩兵大隊11名及び第3大隊30名)が戦死し、約800名が負傷した。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。 救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊のタムラ少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話があるが、これは矢野徹氏による創作の可能性が高いとされている。 テキサス大隊救出作戦後も戦闘は続き更に被害は増加した。ようやく後方へと下がった11月12日に師団長ダールキスト少将が師団を離れる戦闘団を閲兵した際、あまりに少ない整列(K中隊に18名、I中隊には8名しかいなかった)を見とがめ、「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言ったのに対し、連隊長代理のミラー中佐が「将軍、目の前に居るのがその全員です。(This is all the men, sir)」と答えた。その報告を聞いたダールキスト少将はショックの余りスピーチさえできなかったという。これは第36師団編入時には約2,943名いた兵員が800名ほどにまで減少していたからである。 Vosges・Bruyeres解放の戦闘(1944年10月14日~25日) ※失われた大隊救出前での戦死者。第100大隊:29名/第2大隊:42名/第3大隊:3名/第232工兵中隊:2名/計:76名 Vosges・失われた大隊救出の戦闘(1944年10月26日~31日)での戦死者。連隊本部:1名/第100大隊:11名/第2大隊:12名/第3大隊:29名/派遣衛生小隊:1名/第232工兵中隊:1名/第522野砲大隊:1名/計:56名 Vosges・ラ・ウシエール~セントダイの戦闘(1944年11月1日~17日)※失われた大隊救出後での戦死者。第100大隊:5名/第2大隊:20名/第3大隊:15名/第232工兵中隊:2名/対戦車中隊:3名/計:45名 Vosgesの一連の戦闘での戦死者合計:177名 シャンパン・キャンペーンでの戦死者。 第100大隊:1名/第2大隊:7名/第3大隊:6名/第232工兵中隊:2名/計:16名 フランス戦線全体での戦死者合計:193名
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