相次ぐヒット作への出演
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「クリント・イーストウッド」の記事における「相次ぐヒット作への出演」の解説
1970年、シーゲル監督作品の『真昼の死闘』でシャーリー・マクレーンと共演した。この映画は、イーストウッド演じる流れ者ホーガンとメキシコ第二帝政に抵抗する革命派の娼婦サラを描いた西部劇である。バッド・ベティカーが書き上げた原案をアルバート・マルツ(英語版)が手を加えている。イーストウッド演じるホーガンはタバコを吸いベストを着るなど、彼の演じた名無しの男の再現を意図して設定されている。また、レオーネ映画を模したヒスパニック系だが、彼の映画よりも粗悪で冷淡に描かれている。サラ役は当初はエリザベス・テイラーにオファーを出していたが、夫リチャード・バートンに同行して他の映画の撮影でスペインに行くことになっていたため、断られている。最終的にマクレーンが起用されたが、サラはメキシコ人の設定だったため、スタッフたちは薄い肌の彼女に難色を示した。シーゲルとイーストウッドも同様に感じており、シーゲルは「彼女に暖かさを感じることは困難です。彼女はあまりにも素直で、とてもハードです」と不満を述べている。 撮影には4か月間かかり、製作費は400万ドル投じられた。ニューヨーク・タイムズのロジャー・グリーンスパン(英語版)は、「私には、この映画が素晴らしいかはわかりません。しかし、それは非常に良いものであり、教養のある映画がそうであるように心に残る映画です」と批評した。スタンリー・カウフマン(英語版)は「古いハリウッドを維持しようとする試み…娼婦が修道女に変装できる場所。ヒーローは、ベストの下にダイナマイトの棒を隠し持つことができます。全ての物語が一つではなく、二つのキュートな仕上げをしています。それは『アフリカの女王』の西部劇版のようです」と批評している。また、ニューヨーク・タイムズの「ベスト映画1,000」の一本に選ばれている。 同年にはテリー・サバラス、ドナルド・サザーランドと共演した『戦略大作戦』でも主演を務めた。映画では、イーストウッド演じるアメリカ軍兵士が、仲間と共にナチスの金塊を強奪するアクション・コメディとなっている。また、イーストウッドが出演した最後のマルパソ・プロダクション非参加作品でもある。1969年7月からユーゴスラビアとロンドンで撮影が行われ、数百人のエキストラや爆薬などの危険な特殊効果が導入された。映画のクライマックスでは、ドル箱三部作のエコーが響き、ラロ・シフリンが作曲したエンニオ・モリコーネ風の音楽が流れる中でティーガーIと対決する。映画は高い評価を受けると同時に反戦感情を認められ、Rotten Tomatoesでは83%の支持率を得ている。 1969年末から1970年初頭にかけて、イーストウッドはシーゲルと共に『白い肌の異常な夜』の製作を進めた。この映画は、ラングがトーマス・カリナン(英語版)の小説をイーストウッドに渡して、映画化の話が進んだ。また、イーストウッドが女性の好意の的となる物語に出演した最初の映画でもある。脚本はマルツが担当していたが、内容を巡りイーストウッドと意見の相違があったため、クロード・トラヴァースが脚本を改訂し、マルツは別名義でクレジットされた。シーゲルによると、映画は「セックス、暴力、復讐」をテーマとし、「男性を骨抜きにする女性の本能的な欲求」を扱っているという。映画はカンヌ国際映画祭で高い評価を受け、ピエール・リシエント(フランス語版)がフランス各地で上映するように提案したが、イーストウッドとシーゲルの同意を得たものの、製作側の合意が得られなかった。映画は後にフランス各地で公開され、イーストウッドの傑作の一つに数えられている。しかし、アメリカでは振るわず、興行収入は100万ドルを切った。 1970年7月21日、イーストウッドの父が心臓発作を起こし、64歳で急死した。イーストウッドの祖父は92歳まで生きたため、父の死にショックを受けたという。父の死は「イーストウッドの人生の中で唯一の悪い出来事」と言われ、彼はこれ以降飲酒を控えフィットネスに励むなど体調管理に注意を払い、緊張感をもって暮らすようになった。この頃、イーストウッドはショーン・コネリーの後任としてジェームズ・ボンド役のオファーを受けたが、「ジェームズ・ボンドは英国人俳優が演じなければならない」としてオファーを断ったという。 1972年にイーストウッドは『シノーラ』に出演した。脚本はエルモア・レナードが担当し、白人地主とメキシコ人農民の荒そうに巻き込まれるガンマンの活躍を描いている。監督には『荒野の七人』のジョン・スタージェスが起用され、1971年11月からオールド・トゥーソン・スタジオ(英語版)で撮影が開始されたが、同時期に『ロイ・ビーン』の撮影とブッキングしている。6月からはヨセミテ国立公園で湖のシーンが撮影された。撮影中、「イーストウッドが馬アレルギーになり、気管支感染の可能性があるなど健康状態が芳しくない」という誤報が流れた。 1973年、イーストウッドはジェフ・ブリッジスとダブル主演となる『サンダーボルト』の製作に参加した。映画のアイディアはウィリアム・モリス・エージェンシーのスタン・ケイマンが考案したものだが、元々は『ダーティハリー2』のためにマイケル・チミノが描いたものだった。イーストウッドはベテラン犯罪者サンダーボルト役、ブリッジスは若手の泥棒ライトフット役でコンビを組み、悪役にはジョージ・ケネディとジェフリー・ルイスが起用された。ワーナーのフランク・ウェルズがマルパソが製作に参加することを拒否したため、イーストウッドはユナイテッド・アーティスツと共同製作した。1974年に公開された映画は悲劇と喜劇が混ざり合った内容が高く評価され、イーストウッド自身も「今回の演技はオスカー賞を受賞する価値がある」と確信するほどの自信を持っていた。しかし、実際にオスカーにノミネートされたのはアカデミー助演男優賞候補に選ばれたブリッジスのみであり、イーストウッドは結果を聞いて憮然としたという。興行収入も3,240万ドルと振るわず、イーストウッドはユナイテッド・アーティスツの製作手法に不満を感じ、「二度とユナイテッド・アーティスツとは仕事をしない」と激怒して契約していた2本の映画製作を取り消している。 1978年に『ダーティファイター』に出演し、コメディタッチな主役を演じる。当初、ジェレミー・ジョー・クロンズバーグ(英語版)の脚本はハリウッドの大手製作会社から相手にされず、マルパソの代理店も映画化には難色を示していた。イーストウッドの秘書ジュディ・ホイトと、イーストウッドの友人フリッツ・マネズを通して、最終的にワーナーが企画を買い取るように説得している。ヒロインには恋人のソンドラ・ロック、主要キャストにはジェフリー・ルイスが起用された。映画に登場する曲はスナッフ・ギャレット(英語版)が作曲している。映画は当時のイーストウッド出演映画の中で最高の収益を上げ、同時にそれまでのキャリアの中で最も高い評価を受けた。 舞台になったアルカトラズ刑務所と撮影用に作られたベンチ 1979年、イーストウッドは1962年に発生したフランク・モリスのアルカトラズ島脱獄を映画化した『アルカトラズからの脱出』に出演した。脚本は、J・キャンベル・ブルースが執筆した小説に基きリチャード・タークル(英語版)が書き上げている。製作はマルパソが担当し、監督にはシーゲルが起用された。しかし、シーゲルは映画を「自分の作品」と主張して映画の権利を10万ドルで買い取ったため、これをきっかけにイーストウッドとシーゲルは決裂してしまう。最終的に映画は「シーゲルとマルパソの共同作品」という形で合意が成立したが、シーゲルはこれ以降イーストウッドと共同で映画を製作することはなくなった。舞台となったアルカトラズ刑務所は50万ドルの費用をかけて復元され現地で撮影されたが、署長室などの一部のシーンはスタジオで撮影されている。映画はアメリカ国内だけで3,400万ドルの収益を上げ、批評家からも高い評価を受けた。タイム誌のフランク・リッチは「クールで映画的な優雅さ」、The New Republicのスタンリー・カウフマンは「映画の結晶」と評価している。
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