相次ぐ一族の死による混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 03:56 UTC 版)
「三好政権」の記事における「相次ぐ一族の死による混乱」の解説
三好政権は畿内、四国東方、淡路に勢力を展開し、安定した秩序を維持していた。長慶の嫡男・三好慶興は永禄2年(1559年)に足利義輝から偏諱を与えられて義長(後に「義興」と改名)と名乗り、翌3年(1560年)1月には三好氏歴代の官途であった筑前守に任ぜられた。この直後の3月には長慶は居城を河内国飯盛山城に移すが、これは三好氏の家督及び本拠地である芥川山城を義興に譲る目的もあったとみられ、三好政権は新たな段階に入るものと思われた。 ところが、主要な構成者達の死去が重なり、その基盤が揺らいでゆく。永禄4年には長慶の末弟で讃岐衆を率い「鬼十河」と呼ばれた三好軍の将・十河一存が病死した。永禄5年(1562年)3月にも阿波衆を率いていた長慶の長弟・三好実休が畠山高政との戦いで戦死する(久米田の戦い)。永禄6年(1563年)8月には長慶の嫡男・三好義興が死去するなど、有力な一族の相次ぐ死去という事態が続いた。 特に義興の死去で、三好氏は代理の後継ぎを据えることが要求された。結果、長慶の甥の中から、一存の子で母親が九条家と高い身分の十河重存(三好義継)を後継者とすることに決定した。潜在的な敵対関係にあった足利将軍家は、代々近衛家と縁戚関係にあり、その近衛家と角逐する九条家の血を引く義継を後継者へ据えることで、足利将軍家へ対抗しようとしたと考えられる。 この変則的な家督継承には少なからぬ混乱があったようだ。永禄7年(1564年)5月、長慶は次弟・安宅冬康を誅殺する。松永久秀の讒訴と、『続応仁後記』『三好別記』などの後世の軍記物などでは言われているが、天野忠幸などが義継が世継ぎとして安定した盤石な三好家を継承する為に、抵抗勢力の旗頭になり得ると判断した冬康を「たとえ無実でも」粛清しなければならなかったのではないかと指摘している他に長江正一も「久秀の讒訴であったとすれば、それを長慶が見抜けなかったことは三好家の悲劇だが、長慶としては、若年の義継の地盤の盤石化の為に、冬康を殺す必要があったのだろう」と指摘している。冬康粛清について、一次史料などから久秀の関与は否定されている。後に冬康は無実であったと分かり、元々病を患っていた長慶は自らも7月に死去してしまった。
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