漫画・映画・サブカルチャー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)
「三島由紀夫」の記事における「漫画・映画・サブカルチャー」の解説
生前、自身でも『のらくろ』時代から漫画・劇画好きなことをエッセイなどで公言していた三島の所蔵書には、水木しげる、つげ義春、好美のぼるらの漫画本があることが明らかになっている。 毎号、小学生の2人の子供と奪い合って赤塚不二夫の『もーれつア太郎』を読み、〈猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシ〉ファンを自認していた三島は、この漫画の徹底的な「ナンセンス」に、かつて三島が時代物劇画に求めていた〈破壊主義と共通する点〉を看取し、〈それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる〉と賞讃している。平田弘史の時代物劇画の〈あくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味〉を発見して好んでいた三島は、白土三平はあまり好きでないとしている。 〈おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画〉を愛する三島は、〈他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況〉こそが漫画であるとして、〈漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならない〉と語っている。 三島は、漫画家が〈啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである〉として、若者が教養を求めた時に与えられるものが、〈又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつてはたまらないのに、さうなりがちなこと〉を以下のように批判しながら、劇画や漫画に飽きた後も若者がその精神を忘れず、〈自ら突拍子もない教養〉、〈決して大衆社会へ巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養〉を開拓してほしいとしている。 かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、「宇宙虫」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。「もーれつア太郎」のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。(中略)折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(1965年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。 — 三島由紀夫「劇画における若者論」 ボクシング好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、講談社の漫画誌『週刊少年マガジン』連載の『あしたのジョー』を毎週愛読していたが、発売日にちょうど映画『黒蜥蜴』の撮影で遅くなり、深夜に『マガジン』編集部に突然現れて、今日発売されたばかりの『マガジン』を売ってもらいたいと頼みに来たというエピソードがある。編集部ではお金のやりとりができないから1冊どうぞと差し出すと、三島は嬉しそうに持ち帰ったという。また、「よくみるTV番組は?」という『文藝春秋』のアンケートの問いに、『ウルトラマン』と答えている。 1954年(昭和29年)の映画『ゴジラ』は、公開直後は日本のジャーナリズムの評価が低く「ゲテモノ映画」「キワモノ映画」と酷評する向きが多勢であり、特撮面では絶賛されたものの各新聞の論評でも「人間ドラマの部分が余計」と酷評され、本多猪四郎監督の意図したものを汲んだ批評は見られなかったが、田中友幸によれば三島のみが「原爆の恐怖がよく出ており、着想も素晴らしく面白い映画だ」として、ドラマ部分を含めたすべてを絶賛してくれたという。 次第に三島の審美眼はプロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らとも対談もした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について語っている。 SFにも関心を寄せていた三島は、1956年(昭和31年)に日本空飛ぶ円盤研究会に入会する(会員番号12)。1957年(昭和32年)6月8日には日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。なお、この観測会は、科学的な研究を主目的とする「日本空飛ぶ円盤研究会」(略称JFSA)のものではなく、UFO実在論を唱える別団体「宇宙友好協会」(略称CBA、1957年に設立)のものだとされている。1962年(昭和37年)にはSF性の強い小説『美しい星』を発表したが、その1年半前には夏には毎晩のように双眼鏡片手に屋上に昇っていたため、家人から「屋上の狂人」と呼ばれ、ついにある日瑤子夫人と自宅屋上でUFOを目撃している。 1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌『宇宙塵』に寄稿し、〈私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである〉と記した。また、アーサー・C・クラークの『幼年期の終り』を絶賛し、〈随一の傑作と呼んで憚らない〉と評している。 三島はサーカスなども好きで、8歳の時に観たハーゲンベック・サーカス東京公演やそれ以前に観た松旭斎天勝の手品にも心を奪われ、〈僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものをすべて愛した〉と言っている。 大人になってからも、35歳の時に夫人同伴でロサンゼルスに行った折に初めて訪れたディズニーランドをとても気に入った様子で、そこで買ったドナルドダックの絵葉書で自宅にいる幼い娘・紀子宛てに、〈とても面白く、のり子ちやんの喜びさうなものが一杯ありました〉と書いて絵本や帽子も送っているが、それ以来、子供が小学生になったら一家でディズニーランドに行きたい、というのが三島の口癖となり、大人でもすごく楽しいからと母・倭文重にもぜひ見せたいと言っていたという。 三島が死の覚悟をすでに固めていた1970年(昭和45年)の正月にも、2人の子供を連れて家族でディズニーランドに行こうと度々提案していたが、瑤子夫人は『豊饒の海』が完結した後にしたいと断ったため、三島の一家揃ってのディズニーランド再訪の夢は叶うことがないまま終った。
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