ハーゲンベック・サーカス
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「サーカス (小説)」の記事における「ハーゲンベック・サーカス」の解説
三島が8歳だった1933年(昭和8年)にドイツのハーゲンベック・サーカス団が来日し、日本全国で巡回興行が行われた。東京では万国婦人子供博覧会の第三会場・芝会場において3月17日から5月10日まで興行が催され、秩父宮殿下と妃殿下も訪れた。このハーゲンベック・サーカス団の来日により、日本で「サーカス」という言葉が定着し、サーカスブームを巻き起こした。 この時の東京公演に8歳の三島も観に行っており、それ以前に観た松旭斎天勝の手品の思い出と重ねながら、19歳の時に振り返っている。三島がハーゲンベック・サーカスを見た昭和初期は「サーカス黄金期」といえる時期で、天勝ほどではなかったにせよ、サーカス舞台の世界は少年だった三島に強い印象を残し、『サーカス』の創作に繋がっていった。 いくつの年であつたか、天勝の手品を僕ははじめて観たのだ。何年か経つて更にダンテ(英語版)といふ手妻使ひが日本に来た。ハーゲンベックやベル・ハームストンのサーカスも僕は天勝をみたときのあの夢のなかで不意に愕ろかされたやうな愕きのつゞきとしてそれを観にゆかずにはゐられなかつた。ダンテの手品は天勝よりも何層倍巧妙な大仕掛なものであつたかしれない。ましてハーゲンベックのサーカスは大人の目をもおどろかすに足りた。でも僕にはそれらをあの天勝のはげしい印象のつゞきとしてしか眺めることができなかつたのだ。(中略)僕はキラキラした安つぽい挑発的な儚い華奢なものをすべて愛した。サーカスの人々をみて僕は独言した。「ああいふ人たちは」と僕は思つた。「音楽のやうに果敢で自分の命を塵芥かなぞのやうに思ひ、浪費と放蕩の影にやゝ面窶れし、粗暴な美しさに満ちた短い会話を交はし、口論に頬を紅潮させながらすぐさま手は兇器に触れ、平気で命のやりとりするであらう。彼らは浪曼的な放埓な恋愛をし、多くの女を失意に泣かせ、竟には必らずや、路上に横はつて死ぬであらう」と。 — 三島由紀夫「扮装狂」
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