浪曲師から歌手へとは? わかりやすく解説

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浪曲師から歌手へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 02:55 UTC 版)

村田英雄」の記事における「浪曲師から歌手へ」の解説

福岡県浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、実父広沢仙遊実母矢野ツタの子として生まれる。生後まもなくツタ子の姉弟子である出利スミ子養子となる。その後スミ子梶山春雄と結婚し一家佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。 4歳の時、両親雲井式部一座加わり巡業先で雲井式部から京山茶目丸と名付けてもらい、宮崎県孔雀劇場にて『中山安兵衛婿入り初舞台を踏む。その後大人気浪曲師因んで少年 酒井雲改名無許可名乗っていたが、本家の知るところとなり、これが機縁となり大阪道頓堀劇場出演中酒井雲本人訪ね楽屋で声しらべをしてもらい、5歳のときに酒井雲門下弟子入りし当時師匠住んでいた大阪市西九条移住し修行開始する64番目の弟子であった。この時、師匠から酒井雲坊の名前をもらい、13歳真打昇進14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後九州にて地方公演続ける。 1945年16歳海軍志願し佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される6月19日福岡市吉塚専売局砂糖輸送する任務就いた際に、福岡大空襲遭遇翌日十五銀行ビル地下室遺体搬送作業従事した1947年少女浪曲師吉田伊万里本名 野口ユイ子)と結婚1949年浪曲界に顔の利いた西川芸能社(現 新栄プロダクション)前社長西川幸男浪曲師出身で、初代木村友衛門下だった)に宛て、自ら手紙書きマネージメント依頼師匠酒井雲西川合意、「日本一浪曲師」を夢見て妻子九州置いて上京し25歳村田英雄改名数年後妻子呼び寄せる新婚当時浪曲人気といえども貧乏の中で生活していたが、ラジオでの口演実演少しずつ名前が売れ出し若手浪曲師として注目を集めるうになる1958年、たまたまラジオ村田口演聴いた古賀政男見出され、すでに映画演劇知られていた十八番の芸題(演目)であった浪曲無法松の一生』を古賀歌謡曲化(歌謡浪曲)、同曲で歌手デビュー果たした。 尚、従来舞台映画知られていたこの作品取り上げたのは、師匠である酒井雲自身浪曲界でも屈指の読書家であり『文芸浪曲』(文字読み書き出来ない人々にも文学親しんでもらおう考えだした芸題群の事)という浪曲ジャンル確立し、この事を見習って自身北九州舞台とした代表的な文学作品であった同作取り上げた事と文学界きっての偏屈者と噂され原作者岩下俊作自身浪曲ファン浪曲化承諾したといわれる。 しかし、同年三船敏郎&高峰秀子主演によるリメイク版映画公開があったものの、ヒット恵まれずわずかに人生劇場」のリバイバルヒットがあったのみ)NHK紅白歌合戦への出場果たせずにいた。 1961年11月発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年第4回日本レコード大賞特別賞受賞。「王将」のヒットで、以前出した無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果ヒット人気確立する。 「王将」は1962年三國連太郎&淡島千景主演監督伊藤大輔脚本伊藤大輔東映東京)、1973年には勝新太郎&中村玉緒主演監督堀川弘通脚本笠原良三東宝)でそれぞれ映画化され村田代表作一つとなった1973年持病糖尿病悪化倒れ一年間休業する復帰1970年代入ってからはヒットもなく一時低迷するも、演歌ブーム最中1979年に、有線放送から「夫婦春秋」(1967年発売)がヒットし相乗効果で(当時の)新曲人生峠」、続いて夫婦酒」をヒットさせ健在ぶりをアピールした。また1981年1982年には、ラジオ番組ビートたけしのオールナイトニッポン』でその豪快なキャラクター逸話ネタとして取り上げられた事で若年層からの人気獲得する1988年、ともに同年代同時期に活躍し歌謡界リードしてきた三橋美智也春日八郎と「三人の会」を結成ジョイント・コンサートなどで活動した作風デビューから一貫して『男』、『人生』、『夫婦』を題材歌った曲が多い。また『二階堂伸』、『北くすを』、『北くすお』、のペンネーム作詞作曲こなしている。 俳優としては1939年新興キネマ京都作品少年浪曲師としての初出演皮切に、1974年まで任侠映画等に多数出演身長160cmと小柄ながら、男らしい風貌鍛え上げた声で1960年代後半東映任侠映画欠かせない主演スターとして活躍鶴田浩二高倉健北島三郎千葉真一らと多数共演した持病糖尿病が再び悪化した1991年以降闘病生活送りながらも「演歌が再び注目されるまで歌う」という執念から精力的に活動し話題集めた1993年 芸能生活60周年記念し、『俺は村田!!』を出版1997年 半生記生命あってこそ』を出版芸能生活65周年記念パーティーを開く。 1999年11月13日 福岡県浮羽郡吉井町(現うきは市)の生家石柱建立、翌2000年10月18日若宮八幡宮生誕地記念碑建立される。 2000年 石田眞子再婚(但し未入籍)。

※この「浪曲師から歌手へ」の解説は、「村田英雄」の解説の一部です。
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