東南アジア・南アジア
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東南アジア、南アジアへは紀元前2500年以降に広まった。その担い手はオーストロネシア語族を話すハプログループO-M95 (Y染色体)に属する人々と考えられる。 東南アジアにおいても、稲作文化と同時に結核も伝播したという指摘がある。
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東南アジア・南アジア
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「第二次世界大戦下の各国情勢」の記事における「東南アジア・南アジア」の解説
太平洋戦争、東南アジア戦線 (第二次世界大戦)(en:South-East Asian theatre of World War II)の記事も参照。 国・地域概説関連記事フランス領インドシナ フランス領コーチシナ(英語版) フランス保護国アンナン(英語版) → ベトナム帝国 フランス保護領トンキン(英語版) フランス保護国カンボジア(英語版) フランス保護領ラオス(英語版) 第二次世界大戦下のフランス領インドシナ(英語版)日本占領時期のカンボジア 仏印進駐 タイ 日本軍進駐下のタイ ネパール 第二次世界大戦下のネパール(英語版) イギリス領インド帝国 自由インド仮政府 第二次世界大戦下のインド(英語版)第二次世界大戦下のセイロン(英語版)日本軍によるアンダマン・ニコバル諸島の占領 イギリス領ビルマ → ビルマ国 日本占領時期のビルマ ビルマの戦い イギリス領マラヤ マレー連合州(英語版) 海峡植民地 日本占領時期のイギリス領マラヤ(英語版)日本占領時期のシンガポール マレー作戦 イギリス領ボルネオ(英語版) ラブアン直轄植民地 北ボルネオ サラワク王国 ブルネイ王国 日本占領時期のイギリス領ボルネオ 蘭印作戦ボルネオの戦い オランダ領東インド 日本占領時期のインドネシア 蘭印作戦 フィリピン・コモンウェルス → フィリピン第二共和国 第二次世界大戦下フィリピンの軍事史(英語版) フィリピンの戦い (1941-1942年)フィリピンの戦い (1944-1945年)
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東南アジア・南アジア
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東南アジアではASEAN諸国を中心として1960年代以降に外資導入や輸出を志向した工業化が進み、1980年代から経済成長をとげる。特にプラザ合意の影響で日本の製造業の国外移転が進み、産業内貿易が発展した。 インドネシアは1982年から1983年に不況となり、IMF融資の条件として貿易の自由化を行った。関税の引き下げ、原材料輸入の自由化、関税割り戻しの導入、通貨ルピアの切り下げなどの政策パッケージによって1987年以降に発展がはじまる。輸入・外資・銀行業の規制も緩和された。輸出産業が発展し、従来の石油やガスに代わって工業製品の割合が増えた。マレーシアは投資促進法(1986年)で外資が規制緩和され、1985年の約17%から1989年には約70%まで急増した。投資によって製造業が成長し、輸出の中心が石油から工業製品へと移った。シンガポールは中継貿易を主体としていたが、マレーシアからの独立後(1965年)に製造業が発展して1980年には製造業のシェアが29%となった。外資の導入に積極的で、製造業の全雇用のうち外資は60%、直接輸出では90%に達している。タイは輸出と投資の循環によって1980年代後半に成長を続け、輸出に占める工業製品の割合が農産品を上回った。ベトナムは1986年のドイモイ政策で経済の自由化が始まり、農業から成果が表れて1989年には戦後初の米の輸出が可能となった。1994年にはアメリカの対ベトナム禁輸が解除され、外資法は100%の出資を認めて誘致を進めた。 インドは1948年の独立から社会主義政策をとっており、1970年代の貿易依存率は約5%だった。1991年の湾岸戦争の影響でIMF融資を受け、その引き換えとしてインドの経済改革(英語版)が進んだ。関税引き下げ、輸入ライセンスの撤廃があり、2005年には経済特区が認められて外資100%の出資も可能となった。インドの1980年代の成長率は4%で、現在は8%近い。
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東南アジア・南アジア
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インドシナ 13世紀タイのランナータイ朝をはじめとする諸王朝で、タカラガイの貝貨が使われていた記録がある。13世紀の雲南で流通したタカラガイは、チャオプラヤー川の流域のロカック(羅斛(中国語版))から運ばれていた可能性がある。14世紀の商人汪大淵の『東夷誌略(中国語版)』には羅斛の物産としてタカラガイの記録があり、ポーロの『東方見聞録』とも一致する。タカラガイはタイ沿岸で集められたのちに交易路でムアン、スコータイ朝、ランナータイをへて雲南に運ばれたと考えられる。 14世紀のタンジェ出身の旅行家イブン・バットゥータは、『リフラ』でタカラガイの貝貨について記している。モルディブ諸島に生息するタカラガイが貝貨となり、島民はベンガルのコメと交換していた。貝貨の単位は、タカラガイ100個がステヤーフ、700個がファール、1200個がクッター、10万個がブストゥーと呼ばれ、4ブストゥー=金貨1枚だった。モルディブのタカラガイはベンガルに運ばれたのち、西はイエメンからアフリカのスーダンなどに運ばれ、東はタイ南部から雲南へと運ばれた。 インド 4世紀頃のグプタ朝の時代から、銅貨とともにタカラガイが小額面の貨幣として日常の取り引きに使われた。18世紀から19世紀のベンガル地方でも市場では銅貨とタカラガイの貝貨が使われ、比較的高額のルピー銀貨は納税用だった。レートは1ルピー=銅貨64パイ=貝貨5120個であり、ムガル帝国の末期まで一般的に流通し、一部の地域では19世紀前半まで納税に貝貨を使用できた。タカラガイはヨーロッパ船によってモルディブ諸島からオリッサやベンガルなどの海岸へ運ばれており、商人はモルディブで1ルピー9000個のレートで仕入れて2500から3000個のレートで売った。貝貨はかさばるため、イギリス東インド会社の収税官は納税された貝貨を他の地域に送金できなかったという記録もある。貝貨と銀貨の相場は周期的に変化しており、貝貨は農産物の対価として払われるので収穫期に相場が上昇し、納税に必要な銀貨は納税期に相場が上昇した。
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