東南アジア・オセアニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「東南アジア・オセアニア」の解説
1963年9月23日から東南アジア(フィリピン・インドネシア)とオセアニア(オーストラリア・ニュージーランド)の計4カ国を訪問。直接の切っ掛けは、オーストラリアのマッキュアン副首相の招待で、太平洋時代の到来を見越して同国は、日本に対する関心を高めており、従来の英連邦中心主義から日本を中心とするアジアとの経済的な結びつきに重点を移し換えを考えていた。ニュージーランドも同様の立場であることから、池田はこの機会に、これら両国との経済的な連携を強化しEECとも対抗しうる、自由陣営の三本柱の一つとして、日本の地位を確立したいと考えた。フィリピンとインドネシアは、先に挙げたようにマクミラン英国首相に頼まれたマレーシア紛争で強硬な態度をとるインドネシアのスカルノを説得し、マレーシア、フィリピン、インドネシア三国間の同盟(マフィリンド)を設立させるための調停工作として予定に組み込んだものであった。他にこの4カ国を訪問は、アメリカを除外したこの4カ国を東京に集め、日本を含めた5カ国でマレーシアとの対決政策を打ち出していたインドネシアを自由主義陣営に引き込むという「西太平洋機構(West Pacific Organization)」構想を池田が提唱していたという説もある。同時期に東アジア共同体の原型ともいうべきアジア経済協力機構(OAEC)設立構想がアジア諸国で高まり、池田や外務省は前向きであったが、財政負担を恐れた大蔵省と国内農業保護を重視する農林省の反対で日本が参加せず、構想も頓挫したとされる。 最初に訪問したフィリピンの若いマカパガル大統領からは「御好意はありがたいが、国連でも持て余している問題が日本の手に負えますか」などと断られた。 インドネシアのスカルノとの会談において、スカルノは「君は何もしらない。イギリスやアメリカがこの国で何をやっているか。イギリスは植民主義の再建を企ているし、CIAが何をしているか知ったら君も驚くだろう。イギリスやアメリカがおれを敵視するなら、おれはインドネシアにソ連の基地を認めてやる。第二のキューバだ。そうなったら奴らも少しは参るだろう」などと語った。当時のスカルノはイギリス大使館を焼打ちするなど、意気はなはだ盛んで曲者でもあり、とても調停どころでなかった。しかし池田はインドネシアの安定が、軍と共産党の危険なバランスの上に乗るスカルノの存在によってかろうじて維持されていると判断し、スカルノへの支援を継続した。その後佐藤政権まで経済援助が続き1965年の「9月30日事件」でようやく解消された。戦前の対日感情から、まだまだアジア人には、日本の主導による外交問題の処理については警戒心が強く、日本が外交でイニシアチブを発揮しようとしても、日本の指導は受け入れてもらえなかった。日本国内では池田の大国意識の結果であるとの批判を浴びた。 当時ドゴールの反対でヨーロッパ市場から締め出されていたオーストラリアでは、一転して日本への関心も高く、第一級の国賓待遇を受けた。またニュージーランドも同様に親日国になっており歓迎を受けた。 この他、東南アジア諸国に於ける戦後補償問題では、その解決を目指し、タイ、ビルマ、フィリピン、インドネシア、南ベトナムには補償支払い金を決定した。またアメリカ政府へガリオア・エロア資金両援助の返済にも調印、戦後日本の対外的な負債処理を決着させた。日本の悲願ともいわれたOECD加盟は、その後紆余曲折があったものの1964年4月28日、正式加盟を果たした。以上、成果0ももちろんあったが、池田以後の日本外交の最重要課題となる諸問題についての素地を作り、「外交追随、経済自主」というその後自民党の基本パターンを形作ったといえる。
※この「東南アジア・オセアニア」の解説は、「池田勇人内閣の政策」の解説の一部です。
「東南アジア・オセアニア」を含む「池田勇人内閣の政策」の記事については、「池田勇人内閣の政策」の概要を参照ください。
- 東南アジア・オセアニアのページへのリンク