東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝
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「シャイレーンドラ朝」の記事における「東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝」の解説
古来稲作の好適地であったジャワでは、農業を基本とする社会の形成も古く、3世紀までには萌芽的な諸権力がいくつも形成されていたものとみられているが、ジャワ全体を統一するような権力は9世紀後半まであらわれなかった。したがって、シャイレーンドラ朝もまたジャワにあった諸勢力のうちのひとつであった。 8世紀後半、シャイレーンドラ朝は、広く東南アジアの海域に進出した。当時のカンボジアやベトナム南部のチャンパ王国の碑文には、ジャワの水軍が襲来したことが記されている。767年には安南都護府(ハノイ)が「崑崙闍婆軍」に攻略されているが、なぜこの時期にシャイレーンドラが大発展を遂げ、遠征を繰り返したかについての理由はよくわかっていない。 また、カンボジアのクメール人にひろまった大乗仏教は、シャイレーンドラの影響が大きかったのではないかという見解もある。、ジャヤーヴァルマン2世が、9世紀のはじめにアンコール朝を起こしたとき、「ジャワの宗主権からの解放者」と称されたことを根拠としている。ジャヤーヴァルマン2世が新王朝を開くきっかけとなった事件は、10世紀の、アッバース朝とインド・中国・東南アジアとの交易の実体を記したアラビア語文献『中国とインドの諸情報-第二の書』にザーバジュのマハーラージュの王国がクマール国を襲撃した事件として記載されている。ザーバジュはシャイレーンドラ、マハーラージュはインド古来の大王の称号マハーラージャ、クマールはクメール国であり、シャイレーンドラがクメール王を殺害してしばらくの間クメール国を属国とした。その後クメール王族の一人ジャヤーヴァルマン2世がジャワから帰還し、新王朝を開いたと考えられる。 ジャワのシャイレーンドラ王家は、832年には、ジャワに並立する別の権力で、ムラユ語を用いるパラル王朝に服属させられている。シャイレーンドラ王女プラモーダワルダニーが、上述のように、中部ジャワのもう一つの権力であるサンジャヤ王統のピカタンと結婚したのは、パラル王朝への対抗策であったとも考えられる。 シャイレーンドラは、こののちシュリーヴィジャヤ王家と姻戚関係をもち強大化をめざしたものの、古マタラム王国などのヒンドゥー勢力によりジャワより後退した。ジャワでは大乗仏教が衰えて、ふたたびシヴァ信仰のヒンドゥー文化がさかんになった。いっぽう、9世紀半ばには、シャイレーンドラはシュリーヴィジャヤと合邦して11世紀の滅亡までスマトラ島を本拠地として、政治力と商業力で周囲に君臨した。南インドのチョーラ朝の碑文(1006年)にはその子孫がネーガバタムに精舎を建てたとあるが、その後の歴史は不明である。 シュリーヴィジャヤ王国もまた仏教を保護し、インドのナーランダー僧院とも深い関連をもっていたとされる。
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