東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝の意味・解説 

東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 00:27 UTC 版)

シャイレーンドラ朝」の記事における「東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝」の解説

古来稲作好適であったジャワでは、農業基本とする社会形成古く3世紀までには萌芽的な諸権力いくつも形成されいたものとみられているが、ジャワ全体統一するような権力9世紀後半まであらわれなかった。したがってシャイレーンドラ朝もまたジャワにあった諸勢力うちのひとであった8世紀後半シャイレーンドラ朝は、広く東南アジア海域進出した当時カンボジアベトナム南部チャンパ王国碑文には、ジャワ水軍襲来したことが記されている。767年には安南都護府ハノイ)が「崑崙闍婆軍」に攻略されているが、なぜこの時期にシャイレーンドラが大発展を遂げ遠征繰り返したかについての理由はよくわかっていない。 また、カンボジアクメール人にひろまった大乗仏教は、シャイレーンドラの影響大きかったではないかという見解もある。、ジャヤーヴァルマン2世が、9世紀はじめにアンコール朝起こしたとき、「ジャワ宗主権からの解放者」と称されたことを根拠としている。ジャヤーヴァルマン2世新王朝を開くきっかけとなった事件は、10世紀の、アッバース朝インド中国東南アジアとの交易実体記したアラビア語文献中国インド諸情報第二の書』にザーバジュのマハーラージュの王国クマール国を襲撃した事件として記載されている。ザーバジュはシャイレーンドラ、マハーラージュはインド古来大王称号マハーラージャクマールクメール国であり、シャイレーンドラがクメール王を殺害してしばらくの間クメール国を属国とした。その後クメール王族一人ジャヤーヴァルマン2世ジャワから帰還し新王朝開いた考えられるジャワのシャイレーンドラ王家は、832年には、ジャワ並立する別の権力で、ムラユ語用いるパラル王朝服属させられている。シャイレーンドラ王女プラモーダワルダニーが、上述のように、中部ジャワもう一つ権力であるサンジャヤ王統のピカタンと結婚したのは、パラル王朝への対抗策であったとも考えられる。 シャイレーンドラは、こののちシュリーヴィジャヤ王家姻戚関係をもち強大化をめざしたものの、古マタラム王国などのヒンドゥー勢力によりジャワより後退したジャワでは大乗仏教衰えて、ふたたびシヴァ信仰ヒンドゥー文化さかんになった。いっぽう9世紀半ばには、シャイレーンドラはシュリーヴィジャヤ合邦して11世紀滅亡までスマトラ島本拠地として政治力商業力で周囲君臨した南インドチョーラ朝碑文1006年)にはその子孫がネーガバタムに精舎建てたとあるが、その後歴史不明である。 シュリーヴィジャヤ王国もまた仏教保護しインドナーランダー僧院とも深い関連をもっていたとされる

※この「東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝」の解説は、「シャイレーンドラ朝」の解説の一部です。
「東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝」を含む「シャイレーンドラ朝」の記事については、「シャイレーンドラ朝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝」の関連用語

東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



東南アジア世界のなかのシャイレーンドラ朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのシャイレーンドラ朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS