本格的な攻防へとは? わかりやすく解説

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本格的な攻防へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:34 UTC 版)

有岡城の戦い」の記事における「本格的な攻防へ」の解説

右近についで茨木城中川清秀宮原城の小岸存之も帰服し、大和田城多田城三田城信長寝返ったため重は孤立した。その上荒木軍の兵は逃亡1万1万5千の軍勢は5千にまで減じた。 ここに至り戦局有利と見た信長石山本願寺との和平交渉打ち切り11月14日滝川一益明智光秀蜂屋頼隆氏家直昌安藤守就稲葉良通羽柴秀吉細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突した。この時の様子を『信長公記』では 足軽隊出した後、武藤右衛門やその配下者ども敵陣駆け入った。宗右衛門伊丹方の侍と馬上渡りあい、首四つをあげて尼崎凱旋した。また多く味方将士伊丹城周辺放火し回り遮蔽物をむくすることで城方働き閉塞した —  と記している。その後信長有岡城猪名川挟んだ古池田(池田城)に本陣移して有岡城攻囲した池田城重の元居城で、この当時廃城になっていたと[誰に?]思われている。織田軍は、まず別動隊として動いていた滝川一益丹羽長秀隊が同年12月4日兵庫一ノ谷焼き払い塚口付近に布陣した。 本格的な攻城戦12月8日酉刻(午後六時頃)からで、まず織田軍の鉄砲隊有岡城乱射し次いで弓隊が町屋を放火した。しかし有岡城戦国時代の城としては珍しい総構えの城で守り堅く、夜の暗さ攻め切れず逆に戦闘終了した亥刻(午後十時頃)には織田軍は万見重元多く近臣と2千兵を失うことになる。その後信長有岡城周り固めて11日には古池田まで陣を戻し15日には安土城帰城してしまった。『信長公記』では有岡城記述減っていき、信長鷹狩り楽しんでいる記述増えてくるが、このことより『町を放火候なり』によると「信長は一旦持久戦持ち込むことにした」と解説している。12月8日戦い思いのほか損害大きかったことから力押し攻城戦変更し兵糧攻め切り替えられたと[誰に?]思われている。 有岡城東西400m南北に600mからなる大城で、発掘調査から有岡城土塁の下から石垣積み発見され墓石などの転用石材があり石垣先駆ではないかと[誰に?]注目されている。また日本最初天守備えていたと[誰に?]言われており、城内には北ノ砦、上﨟塚砦、塚砦、岸ノ砦、昆陽口砦などが築かれており堅城であった。これに対抗して信長公記』では織田軍の布陣様子を、 二重三重堀をほり、塀、柵を付け手前々々堅固に申し付けられ候 —  としており、有岡城対する砦のようなものが建てられた。織田軍は有馬から山崎までの広範囲布陣して長期化様相となってきた。 重は毛利軍石山本願寺軍の後詰期待していたが増援軍は現れなかった。食糧欠乏しつつあり、士気高めるため信長嫡男織田信忠隊がいる加茂砦に翌天正7年1579年)の正月明け夜襲をかけた。加茂砦には信忠率い美濃近江3千兵が陣を張っていて、そこに自身指揮をとり5百兵を北ノ砦より出撃させ3町離れた加茂砦の西方より火を放って切りかかった。また東に待ち伏せていた一隊は、逃げてくる敵を押しつつ討ち取っていった。[要出典] 加茂砦の急襲知った刀根山砦にいた兵たちが直ち信忠隊の救援駆け付けたが、馬や兵糧奪われ加茂砦は炎上した後だった。信忠は無事であったが「荒木村重強し」との評判京都まで伝わり今様流行るまでにいたった。[要出典]織田軍はその後警戒厳重になり、信長自身有岡城督戦訪れたりした。同年4月18日有岡城方より討って出て有岡城城兵3兵が討ち取られたようだが、それ以外記述はなく9月までの戦闘経緯不明である。 9月2日夜半重は5,6名の側近引き連れ夜間に船で猪名川下って嫡男次がいる尼崎城大物城)へ移っていった。この時の様子を「忍び有岡の城を出立づ。共に乾助三郎重代相伝葉茶壺を負はせ、阿古とて、常に膝下召使ひし女を召具しけり」(『陰徳太平記』[要文特定詳細情報])としている。『戦国武将たち』によると、この「阿古」なる人物重の側室身辺警護する武者ではなかったかと解説している。また「重に反意あり」としていた細川藤孝は、 君に引く荒木ぞ弓の筈ちがい居るにいられぬ有岡の城 という歌を詠んで、突然城と家族捨て茶道具と共に夜逃げした重を皮肉った絶望的な戦いに命が惜しくなって逃げ出してしまったという[誰の?]解釈もあるが、「荒木家老の者共さし寄り重を諫めて云く、つらつら城中形勢を見るに、毛利家援兵今は頼み少なく徒らに月日送り給う故、兵糧甚だ乏しく成り候。此上別に行も候はじ、只早く大将尼崎御出有りて、中国西国諸将を語らはれ候はば、定めて援兵を出さるべきかにて候先ず一旦城中忍び御出ありて、随分御智謀めぐらされ候へと、衆口一舌に勧めけり。重是を聞きて、実に是もさる事也、妻子諸軍士共のためなれば、いかにもして忍び出で謀ほめぐらすべき候」(『陰徳太平記』[要文特定詳細情報])と記している。三木合戦もそうであったが、毛利氏援軍約束しながら花隈城尼崎城通じて兵糧補給をしていたが、1年経って援兵は来ないので、このままでは城を持ちこたえるのは不可能と判断し家臣使者としても効果はなく、重自ら安芸出向き毛利氏直接交渉しようとしたのではないか説明している。『戦国武将たち』では「茶道具毛利の手土産とみることができる」としている。また、天野忠幸毛利軍から支援を受ける上で内陸有岡城の不利を指摘し、むしろ戦略的判断から海岸沿いの尼崎へと移ったとする。 重の逃亡伏せられていたが、信長間者知られるところとなり、12日有岡城攻城軍半数信忠総大将として尼崎城へ向かわせた一方滝川一益調略開始した上﨟塚砦にいた砦の守将の中西新八郎と副将宮脇平四郎重の逃亡事実使い寝返り誘い、それに成功した。一益は「進むも滝川、退くも滝川」といわれた戦術家で、調略の才も秀でていた武将であった10月15日亥刻(午後十時頃)、織田軍は有岡城総攻撃開始した有岡城城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢整えた。しかし上﨟塚砦に押し寄せた滝川隊は、何の抵抗も受けることなく城内侵入した。これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが裏切ったわけではなく中西らの説得応じた守備兵力の足軽大将らが加わったためである。 総構え有岡城であった内側からの攻撃には弱いため、守備兵討ち取られていき、北ノ砦の渡辺勘太郎塚砦の野村丹後の両大将降伏申し出た受け入れられず、切腹した。増援軍の雑賀衆白兵戦には弱くほぼ全滅した総構えの城とは城内百姓町人住居多数ある。織田軍は城内焼き討ちにし郷町から侍屋敷火の手広がっていった。非戦闘員二の丸逃れたが、そこに織田軍が突入してきたので本丸後退していった。本丸三方を堀で囲まれ南側空堀隔てて二の丸面しており、織田も本丸への侵入不可であった11月19日城守をしていた荒木左衛門開城決意津田信澄接収部隊率いて本丸入城した。ここに有岡城の戦い戦闘終結することになる。

※この「本格的な攻防へ」の解説は、「有岡城の戦い」の解説の一部です。
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