本格的な攻防へ
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右近についで茨木城の中川清秀、宮原城の小岸存之も帰服し、大和田城、多田城、三田城が信長に寝返ったため村重は孤立した。その上荒木軍の兵は逃亡、1万〜1万5千の軍勢は5千にまで減じた。 ここに至り戦局有利と見た信長は石山本願寺との和平交渉を打ち切り、11月14日、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突した。この時の様子を『信長公記』では 足軽隊を出した後、武藤宗右衛門やその配下の者どもが敵陣に駆け入った。宗右衛門は伊丹方の侍と馬上で渡りあい、首四つをあげて尼崎に凱旋した。また多くの味方将士は伊丹城の周辺に放火して回り、遮蔽物をむくすることで城方の働きを閉塞した — と記している。その後信長も有岡城と猪名川を挟んだ古池田(池田城)に本陣を移して有岡城を攻囲した。池田城は村重の元居城で、この当時は廃城になっていたと[誰に?]思われている。織田軍は、まず別動隊として動いていた滝川一益、丹羽長秀隊が同年12月4日兵庫の一ノ谷を焼き払い塚口付近に布陣した。 本格的な攻城戦は12月8日酉刻(午後六時頃)からで、まず織田軍の鉄砲隊が有岡城に乱射し、次いで弓隊が町屋を放火した。しかし有岡城は戦国時代の城としては珍しい総構えの城で守りが堅く、夜の暗さで攻め切れず、逆に戦闘が終了した亥刻(午後十時頃)には織田軍は万見重元ら多くの近臣と2千兵を失うことになる。その後信長は有岡城の周りを固めて11日には古池田まで陣を戻し、15日には安土城に帰城してしまった。『信長公記』では有岡城の記述が減っていき、信長が鷹狩りを楽しんでいる記述が増えてくるが、このことより『町を放火候なり』によると「信長は一旦持久戦に持ち込むことにした」と解説している。12月8日の戦いが思いのほか損害が大きかったことから力押しの攻城戦を変更し、兵糧攻めに切り替えられたと[誰に?]思われている。 有岡城は東西に400m、南北に600mからなる大城で、発掘調査から有岡城の土塁の下から石垣積みが発見され、墓石などの転用石材があり石垣の先駆ではないかと[誰に?]注目されている。また日本で最初の天守が備えていたと[誰に?]言われており、城内には北ノ砦、上﨟塚砦、鵯塚砦、岸ノ砦、昆陽口砦などが築かれており堅城であった。これに対抗して『信長公記』では織田軍の布陣の様子を、 二重、三重堀をほり、塀、柵を付け、手前々々堅固に申し付けられ候 — としており、有岡城に対する砦のようなものが建てられた。織田軍は有馬から山崎までの広範囲に布陣して長期化の様相となってきた。 村重は毛利軍と石山本願寺軍の後詰を期待していたが増援軍は現れなかった。食糧も欠乏しつつあり、士気を高めるため信長の嫡男・織田信忠隊がいる加茂砦に翌天正7年(1579年)の正月明け夜襲をかけた。加茂砦には信忠が率いる美濃・近江3千兵が陣を張っていて、そこに村重自身が指揮をとり5百兵を北ノ砦より出撃させ3町離れた加茂砦の西方より火を放って切りかかった。また東に待ち伏せていた一隊は、逃げてくる敵を押しつつ討ち取っていった。[要出典] 加茂砦の急襲を知った刀根山砦にいた兵たちが直ちに信忠隊の救援に駆け付けたが、馬や兵糧を奪われて加茂砦は炎上した後だった。信忠は無事であったが「荒木村重軍強し」との評判は京都まで伝わり今様が流行るまでにいたった。[要出典]織田軍はその後警戒が厳重になり、信長自身も有岡城に督戦に訪れたりした。同年4月18日に有岡城方より討って出て有岡城の城兵3兵が討ち取られたようだが、それ以外の記述はなく9月までの戦闘経緯は不明である。 9月2日夜半、村重は5,6名の側近を引き連れ、夜間に船で猪名川を下って、嫡男村次がいる尼崎城(大物城)へ移っていった。この時の様子を「忍び有岡の城を出立づ。共に乾助三郎に重代相伝の葉茶壺を負はせ、阿古とて、常に膝下に召使ひし女を召具しけり」(『陰徳太平記』[要文献特定詳細情報])としている。『戦国の武将たち』によると、この「阿古」なる人物は村重の側室で身辺を警護する女武者ではなかったかと解説している。また「村重に反意あり」としていた細川藤孝は、 君に引く荒木ぞ弓の筈ちがい居るにいられぬ有岡の城 という歌を詠んで、突然城と家族を捨て茶道具と共に夜逃げした村重を皮肉った。絶望的な戦いに命が惜しくなって逃げ出してしまったという[誰の?]解釈もあるが、「荒木家老の者共さし寄りて村重を諫めて云く、つらつら城中の形勢を見るに、毛利家の援兵も今は頼み少なく、徒らに月日を送り給う故、兵糧甚だ乏しく成り候。此上し別に行も候はじ、只早く大将尼崎へ御出有りて、中国・西国の諸将を語らはれ候はば、定めて援兵を出さるべきかにて候。先ず一旦城中を忍びて御出ありて、随分御智謀をめぐらされ候へと、衆口一舌に勧めけり。村重是を聞きて、実に是もさる事也、妻子諸軍士共のためなれば、いかにもして忍び出で謀ほめぐらすべき候」(『陰徳太平記』[要文献特定詳細情報])と記している。三木合戦もそうであったが、毛利氏は援軍の約束をしながら、花隈城や尼崎城を通じて兵糧補給をしていたが、1年経っても援兵は来ないので、このままでは城を持ちこたえるのは不可能と判断し、家臣を使者としても効果はなく、村重自ら安芸に出向き毛利氏と直接交渉しようとしたのではないかと説明している。『戦国の武将たち』では「茶道具は毛利への手土産とみることができる」としている。また、天野忠幸は毛利軍から支援を受ける上で内陸の有岡城の不利を指摘し、むしろ戦略的判断から海岸沿いの尼崎へと移ったとする。 村重の逃亡は伏せられていたが、信長の間者に知られるところとなり、12日に有岡城の攻城軍の半数を信忠が総大将として尼崎城へ向かわせた一方、滝川一益は調略を開始した。上﨟塚砦にいた砦の守将の中西新八郎と副将の宮脇平四郎に村重の逃亡の事実を使い寝返りを誘い、それに成功した。一益は「進むも滝川、退くも滝川」といわれた戦術家で、調略の才も秀でていた武将であった。 10月15日亥刻(午後十時頃)、織田軍は有岡城に総攻撃を開始した。有岡城の城兵はただちに各砦へ配置し臨戦態勢を整えた。しかし上﨟塚砦に押し寄せた滝川隊は、何の抵抗も受けることなく城内へ侵入した。これは中西新八郎と宮脇平四郎のみが裏切ったわけではなく、中西らの説得に応じた守備兵力の足軽大将らが加わったためである。 総構えの有岡城であったが内側からの攻撃には弱いため、守備兵は討ち取られていき、北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は降伏を申し出たが受け入れられず、切腹した。増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱くほぼ全滅した。総構えの城とは城内に百姓、町人の住居も多数ある。織田軍は城内を焼き討ちにし郷町から侍屋敷へ火の手が広がっていった。非戦闘員は二の丸に逃れたが、そこに織田軍が突入してきたので本丸に後退していった。本丸は三方を堀で囲まれ、南側は空堀を隔てて二の丸に面しており、織田軍も本丸への侵入は不可能であった。 11月19日、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意、津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城した。ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになる。
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