本格的な吟味開始と明らかになった幕府要人の関与
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「郡上一揆」の記事における「本格的な吟味開始と明らかになった幕府要人の関与」の解説
宝暦8年7月20日(1758年8月23日)、江戸城に寺社奉行阿部正右、町奉行依田政次、勘定奉行菅沼定秀、大目付神尾元数、目付牧野成賢の5名が呼び出され、老中の酒井忠寄から2通の箱訴状、これまでの吟味の結果を記した吟味書等、関係書類を手渡された上、評定所の御詮議懸りに任命され、老中の指揮の下で郡上一揆に関する吟味を行うように命じられた。これは五手掛と呼ばれる幕府評定所における裁判で最も大規模な体制であり、また江戸時代を通じても百姓一揆の裁判で評定所の御詮議懸りが任命された例は郡上一揆のみである。 幕府の中で評定所御詮議懸りによる吟味の指揮を取ったのが、勝手掛老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄、そして御用取次であった田沼意次であった。田沼は御詮議懸りメンバーの依田正次に対し、この事件は将軍のお疑いがかかっているので、勘定奉行大橋親義、寺社奉行本多忠央が関与しているからといって、少しも手加減する必要は無いと申し渡した。 郡上一揆の幕府評定所御詮議懸りによる吟味は、このように幕府内部の問題解決を主目的として開始された。そのため吟味開始翌日に早くも大橋親義が尋問されたのを皮切りに、美濃郡代青木次郎九郎やその手代、郡上藩役人の尋問が先行して行われた。吟味の中で美濃郡代の郡上藩年貢徴収法改正への介入は、寺社奉行本多忠央から勘定奉行大橋親義への働きかけが行われ、その上で美濃郡代青木次郎九郎に対して上司である大橋親義が命じたということが明らかになった。まず宝暦8年8月3日(1758年9月4日)、大橋親義は佐竹壱岐守へ預処分を言い渡された。そして宝暦8年8月22日(1758年9月23日)には、老中酒井忠寄は石徹白騒動についても郡上一揆の吟味と同じく評定所御詮議懸りが行うよう、御詮議懸りの5名に覚書を交付した。 さらに吟味の過程で、美濃郡代による郡上藩年貢徴収法改正への介入に関与した幕府高官は本多忠央、大橋親義だけではなく、大目付曲淵英元、そして老中本多正珍が関与していたことまで明らかとなった。青木次郎九郎が提出した書状に老中本多正珍の名を見出した御詮議懸りは、宝暦8年8月25日(1758年9月26日)、さっそく吟味の指揮を取っていた勝手掛老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄、御用取次田沼意次に報告するとともに、言語不明瞭な将軍家重の言葉を良く解するため、将軍の側近となっていた大岡忠光にまで報告が行われた。宝暦8年9月2日(1758年10月3日)、老中本多正珍は罷免され、翌宝暦8年9月3日(1758年10月4日)には御用取次の田沼意次が郡上一揆、石徹白騒動の吟味への参加が命じられることになる。将軍側近である御用取次が評定所の吟味に参加した例はこれまでに無く、幕府中枢の老中まで事件に関与していたことが明らかとなり、幕府評定所御詮議懸りによる吟味の主目的であった幕府高官の事件関与の解明とその解決が困難を極める中、将軍の信頼厚い田沼意次が吟味に参加することによって事件処理の円滑化を図ったものと考えられる。
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