細川ガラシャ
(明智玉 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 14:10 UTC 版)
細川 ガラシャ(伽羅奢[1]、迦羅奢[2]、Gracia[3]) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。実名は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)。
注釈
- ^ 忠興は家臣2名に珠を昼も夜も見張らせた。珠は近親者以外からの伝言は受け取れず、近親者からのものであっても2人の検閲を受ける必要があった。また、家を訪問してきた者と外出した女性を全て記録して書面で提出させ、外出した女性については誰が許可したのか、どこへ行ったのかまで記録させた。珠も含めた屋敷内の女性は各自が許可された部屋にしか行くことができず、領域を接していない人間と会話することはできなかった[22]。
- ^ その場にいたグレゴリオ・セスペデス司祭は、彼女が秀吉の側室ではないかと疑った(『アントニオ・プレネスティノの書簡』)[24]。
- ^ 忠隆子孫はのちに細川一門家臣・長岡内膳家〔別名:細川内膳家〕となり、明治期に細川姓へ復している。
- ^ ガラシャ―忠隆―徳(西園寺実晴室)―公満―女(久我通名室)―広幡豊忠―女(正親町実連室)―公明―実光―正親町雅子―孝明天皇―明治天皇―大正天皇―昭和天皇―上皇―今上天皇
出典
- ^ 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)284頁、『日本史大事典』第6巻(平凡社、1994年)167頁、『日本女性人名辞典』(日本図書センター、1998年) 945頁、『世界大百科事典』第26巻(平凡社、1988年)292頁
- ^ ウェブサイト「肥後細川藩拾遺」に紹介されている「細川公爵家の先祖忠興夫人の信仰美談」(山本秀煌 1930年)には、「細川家記」からの引用として「迦羅奢」と表記されている。
- ^ 村上直次郎訳、柳谷武夫編『イエズス会日本年報下』雄松堂書店、1969年、261頁
- ^ 熊谷開作『婚姻法成立史序説』酒井書店、1970年、239頁
- ^ 井上章一ほか『明智光秀と細川ガラシャ』筑摩書房、2020年、216頁
- ^ 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA、2016年、156-161頁
- ^ 角田(2006)248頁
- ^ 細川忠興同夫人等書状. 第3軸 細川忠興夫人消息 一、室町末期-江戸初期
- ^ 角田(2006)235頁
- ^ 5分でまる分かり細川ガラシャガラシャ,2023年10月9日閲覧
- ^ 小谷野敦『名前とは何か なぜ羽柴筑前守は筑前と関係ないのか』青土社、2011年、141-142頁
- ^ 奥富敬之『苗字と名前を知る事典』東京堂出版、2007年、175頁
- ^ 尾脇秀和『氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか』筑摩書房、2021年、297頁
- ^ 田端 2002, p. 52.
- ^ a b 田端 2002, p. 54.
- ^ 米原 2000, 宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」 , p.87.
- ^ 米原 2000, 宮本義己「細川幽斎・忠興と本能寺の変」 , p.88.
- ^ a b c 田端 2002, p. 56.
- ^ “戦国を訪ねる旅マップ(福井・滋賀・京都三府県連携観光促進協議会)”. 滋賀県. 2023年8月21日閲覧。
- ^ 田端 2002, p. 57.
- ^ 森島康雄「細川ガラシャの味土野幽閉説を疑う」(『丹後郷土資料館調査だより』9号、2020年)
- ^ 『完訳フロイス日本史3』第62章
- ^ a b c d e f 村井 1976.
- ^ ヘルマン・ホイヴェルス『細川ガラシャ婦人』春秋社、1966年
- ^ 『イエズス会日本報告集 第I期第3巻』日本諸国記より。
- ^ 田畑 2010, p. 206-207.
- ^ a b c d 金子拓「第三章」『記憶の歴史学 史料に見る戦国』講談社、2011年。
- ^ 静岡 川勝知事が退職届提出 当初の意向から時期早める - NHK 2024年4月10日
- ^ 細川家はみんな怒ってる!ガラシャの子孫が“辞世の句”を引用した川勝知事に激怒 「言語道断でけしからん、無礼千万だ」
- ^ “特別展示 細川ガラシャ _ あの人の直筆”. 国会図書館. 2020年11月3日閲覧。
- ^ “C0096246 消息”. 東京国立博物館. 2020年11月3日閲覧。
- ^ 熊本県立美術館 2018.
- ^ 天皇陛下は明智光秀の子孫、皇室に引き継がれる「戦国武将たちのDNA」とは?
- ^ みんな今上天皇に連なる親戚!?歴史上の有名人は皇室のご先祖でもあった!
- ^ Mulier fortis [...] sive Gratia Regni Tango Regina
- ^ Immoos, Thomas (December 1996). “Gracia Hosokawa 細川ガラシャ: Heroine of an opera 1698.”. The 41st International Conference of Eastern Studies (The Toho Gakkai (The Institute of Eastern Culture)).
- ^ Mulier fortis [...] Viennae Austriae, Typis Leopoldi Voigt [...] anno 1698
- ^ Gratia Regni Tango Regina
- ^ Cornelius Hazart. Kirchengeschichte - Das ist: Catholisches Christenthum durch die ganze Welt außgebreitet. Wien 1678
- ^ Japonische Kirchengeschichte, Bekehrung und christliche Tugenden der Königin Tango
- ^ Mulier fortis cuius pretium de ultimis finibus sive Gratia Regni Tango Regina exantlatis pro Christo aerumnis clara [...] anno domini MDCLXXXXVIII, die 31. Iulii.
- ^ 長岡京ガラシャ祭
- ^ “「勝山」を演じて”. 産経ニュース (2021年11月4日). 2021年11月4日閲覧。
明智玉(あけち たま)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:19 UTC 版)
後の細川ガラシャ。光秀の娘であり、細川忠興の正室。本能寺の変に際して、信長に反旗を翻した光秀と離縁ではなく幽閉を選んだ忠興らの行動を身勝手と批判した。
※この「明智玉(あけち たま)」の解説は、「センゴク」の解説の一部です。
「明智玉(あけち たま)」を含む「センゴク」の記事については、「センゴク」の概要を参照ください。
- 明智玉のページへのリンク