旧公邸とは? わかりやすく解説

旧公邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 03:03 UTC 版)

在アメリカ合衆国日本国大使館」の記事における「旧公邸」の解説

在アメリカ合衆国日本国大使館旧公邸はネオ・ジョージアンスタイルの建築で、1931年昭和6年10月設立され太平洋戦争勃発による日米開戦からGHQ連合国軍による日本占領経てサンフランシスコ講和条約発効による日本主権回復に至る1941年昭和16年12月8日から1952年昭和27年4月28日までの米国政府による接収間中米国極東委員会による使用経て1978年昭和53年)まで大使公邸として使用された。

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旧公邸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 01:56 UTC 版)

内閣総理大臣公邸」の記事における「旧公邸」の解説

旧官邸渡り廊下連結していた平屋造り508平方メートルの旧公邸は、その外観こそは官邸連なるライト風建物だったが、内装には和式取り入れていたことから、完成当時は「日本間」と呼ばれていた(画像)。内装工事完了するとすぐに田中義一入居し以後6人の歴代首相がここに寝起きした。 旧公邸は、二・二六事件陸軍反乱兵によって掻き乱され住居としては使い物にならないほどにまで荒らされてしまった。そこでこれを復旧するのは諦めて官邸事務所転用し翌年には官邸南庭木造二階建ての仮公邸新築した。この家屋外観日本式そのものだったので「日本家」と呼ばれた。しかし「日本家」は会合臨時休息所として使用されることはあっても、定住する者はない空き家だった。二・二六事件以後歴代首相は、もう誰もこの物騒な敷地内居住しようとはしなかった。「日本家」は1945年昭和20年5月25日米軍による大空襲焼失した戦後になって首相私邸居住は変わらなかった。歴代首相毎日都内私邸から官邸まで、黒塗り首相専用車乗ってパトカー先導通勤していたのである一方当時大物政治家御殿のような邸宅居住している者も少なくなかったそうした邸宅をもつ首相なかには逆に官邸機能私邸の方へ持ってきてしまう者もいた。すでに戦前には、近衞文麿杉並区荻窪私邸荻外荘」を主要閣僚との会談などに活用し大戦前夜重要な国策多くがここで決定されている。鳩山一郎脳梗塞後遺症から身体が不自由だったこともあり、「音羽御殿」と呼ばれた文京区音羽大邸宅には与党幹部政府要人が自ら足を運ぶことが多く保守合同日ソ共同宣言下準備もここで行われた。ずっと後のことだが、「目白御殿」と呼ばれた文京区目白台田中角栄私邸にも与党幹部各省庁局長クラスなどが引っ切りなし出入りして、まるで官邸のような様相呈していた。 幣原内閣外相だった吉田茂は、傍系11宮家皇籍離脱決定すると、いち早く関係各方面働きかけアールデコの粋を尽くした白金台旧朝香宮邸現・東京都庭園美術館)を外務大臣公邸とすることに決定してしまう。 そうこうしているうちに吉田首相になり、外相引き続き兼務したので、外相公邸事実上首相公邸になった与党議員出入りして落ち着けない官邸嫌った吉田は、愛してやまないこの瀟洒な邸宅政務大半を執ったので、外相公邸次第第二官邸のごとき様相を呈するいたった。現在「官邸と言うとそれが首相官邸スタッフのことを意味することもあるように、戦後一時期において「外相公邸」「目黒」などと言えば、それは吉田やその側近たちのことを指した一方、旧公邸の方はその後引き続き官邸事務所として使われていたが、60年安保デモ隊官邸包囲して岸信介カンヅメにされるという事態が起きると、官邸隣接した居住施設必要性改め浮き彫りにされた。そこで1963年昭和38年)から旧公邸に大規模な改修を施す工事始まり、その完成待って1968年昭和43年)には佐藤榮作二・二六事件以来実に32年ぶりに公邸主としてここに移り住んだ7年8ヵ月という連続在任最長不倒記録をうち立てた佐藤は、任期後半4年間を公邸暮らしている。後に佐藤寛子夫人は、田中角榮福田赳夫大平正芳などが大派閥の領袖ありながらいずれも短期政権終わったことを評して、「首相在任中を通じて公邸住み続けることこそが、長期政権秘訣ですよ」と語っていた。 しかし佐藤以後首相がみな公邸住まいをしたわけではなかった。旧公邸には大規模な改修施されとはいえ、やはりそもそも住み心地の悪い住居だった。怪談加えて、狭い、日当りが悪い、造りが古い、使い勝手が悪いなど、満足のいくものがなく、そのうえ巨大なゴキブリネズミ頻繁に出没するといった問題まで抱えていた。危機管理上の懸念と、官邸機能強化から、首相公邸住まい常態として定着するのは、平成入ってからである(「歴代総理公邸」の節を参照)。 5年5ヵ月長期政権担った小泉純一郎は、新官邸建設 → 旧公邸の取壊し旧官邸移動 → 新公邸への改装という、一連の歴史的な官邸建替え事業一部始終を自らの任期中体験することになった2002年平成14年8月28日、旧公邸の取壊し控えて小泉は仮公邸となった品川区東五反田内閣法制局長官公邸引っ越したが、そこで官舎豪勢なことに驚愕し、「総理大臣公邸よりも、官房長官公邸よりも、官僚公邸の方が上なのかなあ」と溜息したという。 荻外荘見学できないが、塀越し垣間見ることができる。 「荻窪会談第2次近衛内閣発足控えて荻外荘行われた荻窪会談」では「東亜新秩序」の建設確認された。左から近衛文麿松岡洋右外相吉田善吾海相東條英機陸相音羽御殿現在は、多目的集会所鳩山会館として一般に公開されている。 「党幹部会」音羽御殿応接室集まった自民党幹部中央鳩山一郎、その左に石橋湛山、右に安藤正純三木武吉見える。音羽御殿保守合同日ソ国交回復向けた調整などの舞台にもなった。

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