旧公邸
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「在アメリカ合衆国日本国大使館」の記事における「旧公邸」の解説
在アメリカ合衆国日本国大使館旧公邸はネオ・ジョージアンスタイルの建築で、1931年(昭和6年)10月に設立され、太平洋戦争勃発による日米開戦からGHQの連合国軍による日本占領を経て、サンフランシスコ講和条約発効による日本の主権回復に至る1941年(昭和16年)12月8日から1952年(昭和27年)4月28日までの米国政府による接収期間中の米国極東委員会による使用を経て、1978年(昭和53年)まで大使公邸として使用された。
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旧公邸
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旧官邸と渡り廊下で連結していた平屋造り508平方メートルの旧公邸は、その外観こそは官邸に連なるライト風の建物だったが、内装には和式を取り入れていたことから、完成当時は「日本間」と呼ばれていた(画像)。内装工事が完了するとすぐに田中義一が入居し、以後6人の歴代首相がここに寝起きした。 旧公邸は、二・二六事件で陸軍反乱兵によって掻き乱され、住居としては使い物にならないほどにまで荒らされてしまった。そこでこれを復旧するのは諦めて官邸の事務所に転用し、翌年には官邸南庭に木造二階建ての仮公邸を新築した。この家屋は外観が日本式そのものだったので「日本家」と呼ばれた。しかし「日本家」は会合や臨時の休息所として使用されることはあっても、定住する者はない空き家だった。二・二六事件以後の歴代首相は、もう誰もこの物騒な敷地内に居住しようとはしなかった。「日本家」は1945年(昭和20年)5月25日の米軍による大空襲で焼失した。 戦後になっても首相の私邸居住は変わらなかった。歴代首相は毎日都内の私邸から官邸まで、黒塗りの首相専用車に乗ってパトカー先導で通勤していたのである。一方、当時の大物政治家は御殿のような邸宅に居住している者も少なくなかった。そうした邸宅をもつ首相のなかには、逆に官邸の機能を私邸の方へ持ってきてしまう者もいた。すでに戦前には、近衞文麿が杉並区荻窪の私邸「荻外荘」を主要閣僚との会談などに活用し、大戦前夜の重要な国策の多くがここで決定されている。鳩山一郎は脳梗塞の後遺症から身体が不自由だったこともあり、「音羽御殿」と呼ばれた文京区音羽の大邸宅には与党幹部や政府要人が自ら足を運ぶことが多く、保守合同や日ソ共同宣言の下準備もここで行われた。ずっと後のことだが、「目白御殿」と呼ばれた文京区目白台の田中角栄の私邸にも与党幹部や各省庁の局長クラスなどが引っ切りなしに出入りして、まるで官邸のような様相を呈していた。 幣原内閣で外相だった吉田茂は、傍系11宮家の皇籍離脱が決定すると、いち早く関係各方面に働きかけてアールデコの粋を尽くした芝白金台の旧朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)を外務大臣公邸とすることに決定してしまう。 そうこうしているうちに吉田は首相になり、外相も引き続き兼務したので、外相公邸は事実上の首相公邸になった。与党議員が出入りして落ち着けない官邸を嫌った吉田は、愛してやまないこの瀟洒な邸宅で政務の大半を執ったので、外相公邸は次第に第二の官邸のごとき様相を呈するにいたった。現在「官邸」と言うとそれが首相や官邸スタッフのことを意味することもあるように、戦後の一時期において「外相公邸」「目黒」などと言えば、それは吉田やその側近たちのことを指した。 一方、旧公邸の方はその後も引き続き官邸事務所として使われていたが、60年安保でデモ隊が官邸を包囲して岸信介がカンヅメにされるという事態が起きると、官邸に隣接した居住施設の必要性が改めて浮き彫りにされた。そこで1963年(昭和38年)から旧公邸に大規模な改修を施す工事が始まり、その完成を待って1968年(昭和43年)には佐藤榮作が二・二六事件以来実に32年ぶりに公邸の主としてここに移り住んだ。7年8ヵ月という連続在任の最長不倒記録をうち立てた佐藤は、任期後半の4年間を公邸で暮らしている。後に佐藤寛子夫人は、田中角榮・福田赳夫・大平正芳などが大派閥の領袖でありながらいずれも短期政権に終わったことを評して、「首相が在任中を通じて公邸に住み続けることこそが、長期政権の秘訣ですよ」と語っていた。 しかし佐藤以後の首相がみな公邸住まいをしたわけではなかった。旧公邸には大規模な改修が施されたとはいえ、やはりそもそもが住み心地の悪い住居だった。怪談に加えて、狭い、日当りが悪い、造りが古い、使い勝手が悪いなど、満足のいくものがなく、そのうえ巨大なゴキブリやネズミが頻繁に出没するといった問題まで抱えていた。危機管理上の懸念と、官邸機能の強化から、首相の公邸住まいが常態として定着するのは、平成に入ってからである(「歴代総理と公邸」の節を参照)。 5年5ヵ月の長期政権を担った小泉純一郎は、新官邸の建設 → 旧公邸の取壊し → 旧官邸の移動 → 新公邸への改装という、一連の歴史的な官邸建替え事業の一部始終を自らの任期中に体験することになった。2002年(平成14年)8月28日、旧公邸の取壊しを控えて小泉は仮公邸となった品川区東五反田の内閣法制局長官公邸に引っ越したが、そこで官舎の豪勢なことに驚愕し、「総理大臣公邸よりも、官房長官公邸よりも、官僚の公邸の方が上なのかなあ」と溜息したという。 荻外荘見学はできないが、塀越しに垣間見ることができる。 「荻窪会談」第2次近衛内閣の発足を控えて荻外荘で行われた「荻窪会談」では「東亜新秩序」の建設が確認された。左から近衛文麿、松岡洋右外相、吉田善吾海相、東條英機陸相。 音羽御殿現在は、多目的集会所鳩山会館として一般に公開されている。 「党幹部会」音羽御殿の応接室に集まった自民党幹部。中央に鳩山一郎、その左に石橋湛山、右に安藤正純、三木武吉が見える。音羽御殿は保守合同や日ソ国交回復へ向けた調整などの舞台にもなった。
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