戦前の地域特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:24 UTC 版)
大正末期から活動し、 1935年に亡くなった社会運動家高橋貞樹の著書『被差別部落一千年史』によれば「同情的差別撤廃の運動者は、部落の欠点について言う。 部落の生活は不潔である。狭い屋内に密集群棲(ぐんせい)して非衛生的である。 トラホームが多い。 彼らはとかく猜疑心(さいぎしん)に富んで穢多根性(こんじょう)なるものがある。 貯蓄心がなくていつまでも貧乏である。 犯罪者が多い。 とかく団結して社会に反抗しようとする傾きがある。かような事実が改善できぬ限り社会が部落を嫌うのは当然と言うべきである。 われわれはこの事実を否定することはできぬ。そして部落の欠点というものを考えて見るとき、貧ゆえに起こりくるものばかりである。部落の不潔、密集的な非衛生生活、トラホーム、猜疑心(さいぎしん)、穢多根性(こんじょう)、貯蓄心の欠如、犯罪、反抗、一つとしてこれ貧窮と社会の圧迫とから醸(かも)されたやむをえざる情勢ではないか。」 ただし今日の部落問題研究者は、被差別部落が貧しくなった原因は「社会の圧迫」ではなく松方デフレであったと指摘している。灘本昌久は次のように述べている。 重要なことは、部落の貧困化は差別問題とはまったく別のところからやってきたことにある。それが、松方デフレ政策にほかならない。1877年(明治10年)に勃発した西南戦争で、明治政府は最強のプロ戦闘集団である薩摩武士を相手に多額の軍費を使い、不換紙幣を乱発したために、悪性のインフレに見舞われた。その解決のために、松方正義大蔵卿が急激な紙幣整理というハードランディング方式をとったために、一挙にデフレになり、部落の製造業が壊滅的打撃を受けたのである。 決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放(行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる)とい漸進的方式であったのに対して、明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。 部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである。 部落産業の一つに三味線製造用の猫の捕獲があり、このことから、関西地方では被差別部落民を「猫殺し」と呼ぶこともある。 大正時代(1912年 - 1926年)に兵庫県神戸市長田区の番町部落を視察した畑道雄は 此長田村につきて調査せるも血族結婚の数は実に一割二分の多きに達せるなり。 概して早婚早熟にして女は十二三歳の頃より男は十五六歳にして異性を知る。 現に余が聞き知れるには十三歳にして姙娠せる女のありしが如きは実に驚くべき事実といふべし。 近親従兄妹の婚姻は普通にして中には叔父姪、叔母甥の関係に及べる者稀ならずと聞く。 と記している。 ただし、番町部落は1899年(明治32年)の条約改正にともなう外国人居留地制度の廃止による中心市街地改造のために兵庫県が宿屋営業取締規則を改正し、それまで中心市街地区に密集していた木賃宿の営業許可地域を旧葺合区の新川スラムおよび旧林田村の番町部落に限定指定したことでこれらの地域に低廉で劣悪な木賃宿や長屋が集中することとなった。この結果、これらの地区を中心とする地域へ低廉な住居を求める下層労働者が神戸市外から流入し、下層労働者の居住地域となった。 他に木賃宿営業許可区域に指定された地域に東京の山谷、大阪の釜ヶ崎などがある。この中心市街地スラムの解体を目的として成立した制度により番町部落では人口の急膨張を生み、1868年に戸数85戸、388名だった人口が1888年には2,208人へと急増する。 結果、従来農業従事者の多かった番町部落が典型的な都市型部落へ変貌していった。その急膨張を生んだ移住者のすべてが他地域の被差別部落出身者であるとは考えられず、番町部落の被差別部落民の多くは、都市政策によって肥大化したスラムに吸収された被差別部落出身外者が被差別部落民化していったと見られている。 詳細は「貧民窟」および「ドヤ街」を参照 『中央新聞』大正7年(1918年)9月13日は次のように報じている。 それから更に部落には早婚の弊があり、十七八の少年や十三四の未だ乳臭い小娘だと思つてゐると意外にも二人は人の親で蝶々髷の小さい母親が赤ん坊を抱いてゐたと云ふ悲惨な話をよく耳にした。部落民に子供の多い事生れた子供が兎角不完全である事などは是等の関係で略想像する事が出来るが、又一面には部落民の女に貞操観念の薄いこと、従つて男女の野合が多いこと、殊に大阪の特殊部落に於て此の風習が盛んな事は全く想像の外で淫猥な極彩色の浮世絵に描かれた有りの儘の事実を最も赤裸々に見る事が出来る。(略)尤もこれは普通の細民部落にも多い現象だが殊に社会と隔絶して自由の天地を局限された特殊民は常に娯楽が少く、仲間同志が互に密集して淋しい心を慰め合ふといふ特有の風習から男女の接近する機会が多く、又同居を好んで赤の他人の男女が雑然と狭い一家に起臥を続けてゐる事が如何に彼等の醜悪な劣情を唆る事であらう。 部落の下級民の間に全く貞操観念が爪の垢ほどもなく、更に甚だしいのは親子姦、兄妹姦といふあるまじき不倫が行はれるのも敢て珍しくないといふに至つては戦慄せざるを得ない。 留岡幸助は明治時代(1868年 - 1912年)に北海道の空知集治監で教誨師をしていた折、主として関西の部落出身の受刑者に多数接した経験から「挙動が野卑であつて、其罪質を調べて見ると随分猛悪なものが多い。 例へば辻強姦をするとか、辻強盗をするとか、或は殺人をしても眼を繰抜いて、手足を寸断するとか、一種名状すべからざる惨酷な性情を有つて居る。さうしてなかなか犯罪の比例が多い、普通民の犯罪が人口千人に対して一・三位であれば、特殊部民の犯罪は人口千人に対して約八以上もある。 非常に多い処では人口千人に十人位もある所がある」と述べている。
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