戦前の大東亜縦貫鉄道構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 06:48 UTC 版)
「日韓トンネル」の記事における「戦前の大東亜縦貫鉄道構想」の解説
九州と朝鮮半島を結ぶトンネルを掘る構想の原点は、1930年代に立てられた「大東亜縦貫鉄道構想」であった。これは当時日本領であった朝鮮半島の南端の釜山府(現・釜山)を起点とし、京城府(現・ソウル)を経て安東(現・丹東)から当時の満州国領内へ入り、奉天(現・瀋陽)を経由して中華民国領内に入り、北京、南京、桂林を経て、ハノイ、サイゴン(現・ホーチミン)、プノンペン、バンコク、マレー半島を通りシンガポールに至る約10,000kmの路線を建設する構想であった。 さらに1940年代に東京 - 下関間を結ぶ弾丸列車計画(後に新幹線として実現)が立てられた後、1942年には「東亜交通学会」が設立され、日本本土(内地)から壱岐、対馬を経て釜山へ至る海底トンネルを建設し、上記の大東亜縦貫鉄道と結んで東京 - 昭南(シンガポール)間を弾丸列車で結ぶ構想が立てられた。日本本土側の起点は下関、博多、呼子(現・唐津市)などが考えられていた。なお、1942年4月に満鉄東京支社調査室が作成した報告書「大東亜縦貫鉄道ニ就テ」では、日本側の起点を下関としている。 実現に向けて対馬や壱岐でボーリング調査などが実施されたが、これらの計画は第二次世界大戦の終戦によりすべて頓挫した。
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