戦前の国定教科書制
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1872年に義務教育制度が始まった頃は、検定済教科書が用いられていた。しかし、教科書疑獄事件の発生を受けて、国定教科書に改められた。 以下、山住正己著『教科書』(岩波新書)より、教科書制度の変遷を振り返る。 1872年(明治5年) 学制公布。(教科書自由発行・自由採択制) 1880年(使用禁止書目の発表) 1881年(開申制・採択教科書を監督官庁に報告すればよい) 1883年(認可制・採択してよいかどうか、許可を受ける必要あり) 1886年(検定制) 1903年(明治36年)〜1945年(昭和20年)(国定制) 教科書に対する国家統制は、自由民権運動の高揚と、それに対抗するような教育政策の反動化、という形で進行した。「開申制」の次の「認可制」は、時間がかかり授業に差し支えて不便、という声をもとに、「検定制」に切り替えられた。数年後、教科書会社と採択側の教育関係者との間で、贈収賄が行われているとして、30数県157人が検挙されるという大事件(教科書疑獄事件)が発生した。 政府はそれを好機として、教科書を「国定制」に切り替えた。
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