戦前の変遷
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本形式は登場直後の試運転で大阪市内の高架複々線に入線、中間に800形を組み込んだ3両編成を2本連結した6両編成で路盤固めに使用された。7月5日の複々線開業後は神戸線の主力として中間に800形を組み込んだ3両編成を組んで運用されたほか、本形式投入で余剰となった51形のうち51 - 62の前面5枚窓車のグループを宝塚線に転出させた。 1928年3月には608-807-609の3両を使用して特急運転を想定した試運転を実施、阪神間を西宮北口駅のみ停車した運行と十三・塚口の両駅を追加して3駅停車した運行の2種類で行われた。 1928年11月には全車に日本初のドアエンジンが装備され、車掌の業務が大幅に改善された。同時に608-806-609の3両で阪急初の固定式クロスシートが設けられた。関西では1927年に京阪電気鉄道が1550型で2扉転換クロスシートを、後に阪急になる新京阪鉄道がP-6で2扉固定クロスシートを採用している。クロスシート改造は2両編成運転も想定して807も対象となっていたが、改造の過程で対象外となった。 600系は重量の割に主電動機出力が小さく、特急運転開始後の1930年12月に全編成をM-T-Mの3両編成とした。これにより余剰となった800形の3両を900形と同一性能で電装、特急運用を可能とした。改造車はクロスシート車806を除く804・805・807の3両で、690形690 - 692に改番された。性能は定格出力150kW(750V)の主電動機2基搭載となった。1932年9月には800形の残る全車が電装され、690形が元の車番に復旧された。600系は600形と800形で別性能となり、独立して運用されることになる。クロスシート車も608・609と806に分かれ、ロングシート車と連結運用された。 1934年5月、当初改造の3両を除く800 - 803・806の5両が再び制御車に戻り、捻出された主電動機は900形900 - 904の出力増強用、制御機器や台車は同年製造の920系1次車に転用された。電動車として残った3両は改番されていない。付随車化した800形(800 - 803・806)は900形(900 - 904)とのMc-Tcの2両編成を組成し、900形の2扉クロスシート車と800形の3扉ロングシート車(806はクロスシート車)の編成で特急に充当された。 1941年の太平洋戦争勃発に伴う戦時輸送力増強のため、1942年3月に608・609の2両のクロスシートがロングシートに戻され、900形と組んでいた806もロングシート化された。その後、920系の増備により600形の神戸線運用は減少し、今津線で1形や90形の電装解除車と2連を組んだ。 1944年4月、800形は650形に形式変更された。800 - 803・806は650 - 654に、804・805・807が655 - 657に改番され、650 - 654が制御車、655 - 657が電動車となった。この655 - 657の3両は戦後占領期の一時期、神戸線・今津線での連合軍専用車に指定されていた。 戦争末期の西宮空襲では656が被災したが、戦後1946年には復旧している。この他、609が戦時中春日野道駅構内で972と衝突事故を起こしてしまい、戦時中から戦後しばらくの間長期休車となり、西宮車庫の一隅に留置されて、主要機器は他の車両に提供されていた。
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戦前の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 17:31 UTC 版)
昭和初期の阪神本線では、1929年7月の御影駅周辺の高架化や1933年6月の神戸市内地下化など、残存していた併用軌道区間の専用軌道化工事を推進していた。このため、401(801)、831形とも、高速化や連結両数の増加に伴った改良を逐次行った。 まず、1928年に401 - 403の3両に対してパンタグラフの取り付け試験を行い、東洋電機製造製TDK-G形と三菱電機製S600-ABの2種類のパンタグラフをテストした。翌1929年には401形の801形への改番を実施、1931年ごろには全車ライトブルーから茶色に塗色を変更した。 1932年1月に841、842の台車を試験的に抱き合わせ式ブレーキに改造したほか、電気カプラーを取り付けた。同年7月にはパンタグラフ化を実施したが、その際、片側にまだポールを取り付けていたことから、801 - 814と841、842の奇数車は大阪側、偶数車は神戸側にパンタグラフを取り付け、815 - 830と831 - 840、843 - 850では逆に奇数車神戸側、偶数車大阪側にパンタグラフを取り付けた。同じ頃に801形の全車自動ドア化と貫通幌の取り付けを実施している。 1933年の神戸市内地下化によって新設軌道線から併用軌道区間が消滅したことから救助網及びポールを撤去、連結両数の増加に伴って非連結面にも常時貫通幌を取り付けるようになった。 401(801)、831形の両形式とも、登場当初から阪急神戸線や、少し遅れて昭和初期からフリークエントサービスの向上を図ってC10、C11形が牽引する京阪神間区間運転列車の運転を開始した東海道本線に対抗すべく、急行運用に投入された。1929年12月からは梅田駅 - 新在家駅間で3両連結運転を実施し、神戸市内地下線開通以降は3両運転を全線に拡大するとともに特急の運転を開始して、801、831の両形式は鋼体化改造を終えたばかりの1001形各形式とともに特急運用に充当され、翌1934年7月の省線電車開通や急電運転開始に伴う阪神、阪急、省線の三者が繰り広げた競争の阪神側の主力車両となった。 1936年には連結両数の増加と地下線内走行によって明瞭なアナウンスが必要となったことから全車車内放送装置を取り付けた。また、連結両数の増加に伴って、手動加速の801形と自動加速の831、851、861、881形各形式が混結されるようになったが、831形以降のRPC系制御器にリレースイッチを取り付けて併結できるようにした。しかし、その場合831形以降の車両がノッチを一段ずつ進段しないと、運転台に搭載してあるブレーカーが大きな音を立てて飛んでしまったという。
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