戦前の喫茶店
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 21:09 UTC 版)
「日本における喫茶店の歴史」の記事における「戦前の喫茶店」の解説
現代に見られるような本格的な喫茶店の形態を初めて持ったのは、1888年(明治21年)に開店した「可否茶館」である。勤めていた外務省を辞めた鄭永慶(てい えいけい)が、現在の台東区上野に開店した「可否茶館」は現代の複合喫茶の様相で、トランプやビリヤードなどの娯楽品、国内外の新聞や書籍、化粧室やシャワー室などが備えられていた。鄭は「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、文化交流をする場」として広めようとした。当時ブラックコーヒー一杯の値段は一銭五厘、牛乳入りコーヒーは二銭だったが、蕎麦が八厘から一銭だったことを考えると高価な飲み物だった。しかし店の経営が振るわなかったことに加え、鄭は投資にも失敗して多額の借金を抱えたため、1892年(明治25年)にその幕を下ろし、鄭は日本を去って偽名でアメリカ合衆国に密航した。 それからしばらく経った1911年(明治44年)、画家の松山省三、平岡権八郎、小山内薫がパリのカフェをイメージして4月に開店した「カフェー・プランタン」をはじめ、水野龍の「カフェー・パウリスタ」、築地精養軒の「カフェー・ライオン」など、銀座にカフェーと称する店が相次いで誕生した。それぞれの店は独自色を打ち出し、「カフェー・プランタン」は会員制サロン風カフェとして、「カフェー・パウリスタ」はコーヒー中心の多店舗展開で、「カフェー・ライオン」は美人女給を揃えたサービスで、それぞれ人気を博した。 「カフェー・プランタン」、「カフェー・パウリスタ」、および「カフェー・ライオン」も参照 大阪では1912年(明治45年)、旧川口居留地の大阪市西区川口町に「カッフェー・キサラギ」がオープンしている。またこの頃には、温めた牛乳を提供する「ミルクホール」も登場し、学生などに人気を博した。 昭和に入ると「飲食を提供しつつ女給のサービスを主体にした店」と、「あくまでコーヒーや軽食を主体とした店」への分化が進む。前者はそのまま「カフェー」または「特殊喫茶」「特殊飲食店」として、バーやキャバレーのような形で次第に風俗的意味合いを持つようになった。1929年(昭和4年)に「<カフェ><バー>等取締要項」が、1933年(昭和8年)に「特殊飲食店取締規則」が出され規制の対象となった。一方、後者は「純喫茶」「喫茶店」と呼称されるようになり、現在の意味で言う「カフェ」として発展していくこととなる。 詳細は「カフェー (風俗営業)」および「純喫茶」を参照 1933年(昭和8年)当時は、特殊飲食店が喫茶店の2倍を数えたものの、一般庶民にコーヒーが浸透しはじめ、1935年(昭和10年)には東京市だけで10,000店舗を数えるなど順調に増え続けサービスや提供形態の多様化が進んだ。多様化は地域の特性を育み、例えば銀座は高級感を売りに出した店舗が特徴として知られるようになり、神田は容姿端麗な女性給仕を揃えた学生を対象としたサービスを展開、神保町は落ち着いた雰囲気で本を読みながら過ごすスタイルが定着した。 戦前の喫茶店、カフェーや女給の姿は永井荷風や谷崎潤一郎の『痴人の愛』、広津和郎の『女給』、龍膽寺雄の『甃路スナップ 夜中から朝まで』、太宰治、林芙美子の『放浪記』、佐多稲子の『レストラン洛陽』、平林たい子の『砂漠の花』、宇野千代の『脂粉の顔』などの作品で様々に描き出されている。 しかし日中戦争が勃発し、戦時体制が敷かれるようになるとコーヒーは贅沢品に指定され、1938年(昭和13年)には輸入制限が始まった。第二次世界大戦がはじまると完全に輸入が禁止され、供給源を断たれた喫茶店は次々と閉店していった。そのような中でも大豆や百合根を原料とした代用コーヒーを用いて細々と経営を続ける店も見られた。またこうした事情を契機として、喫茶店から別業種へ業態転換した店も多く見られ、「千疋屋」「ウエスト」「コロンバン」「中村屋」などは業態転換が成功した代表例であるとされる。
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