姉妹の女優
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1949年(昭和24年)1月15日、東京都世田谷区烏山町(現在の同区烏山)に生まれる。父は戦前に日活大将軍撮影所の小道具係であり、戦後も東映東京撮影所や連合映画撮影所で装飾部として活動した小谷春勇(小谷春男)、叔父が大映の撮影技師・渡辺公夫(1918年 - 1983年)、兄がのちに東映の照明部に在籍しており、2歳下の妹がのちに女優なる谷身知子(1951年 - )である。 1964年(昭和39年)4月、府立十二中を前身とする伝統校であった東京都立千歳高等学校(2002年3月閉校)に入学する。二年次在学中の満16歳とき、1965年(昭和40年)9月に公開された独立系成人映画『裸女山脈』(監督川合茂貴)の主演に抜擢され、珠 るみとクレジットされて映画界にデビューした。同年11月に公開された可能かづ子主演作『禁じられた肌』(監督武田有生)でも助演、珠 ルミの表記でクレジットされている。1967年(昭和42年)3月、同高校を卒業した。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、珠についての言及はない。デビューは1965年という黎明期といえる時期であるが、確かに田中が同書で同様に挙げている映画作家の作品には出演してはいない。デビューは早いが、年齢的には1967年デビューの谷ナオミ(1948年 - )、青山リマ(1949年 - )、真湖道代(1949年 - )、あるいは1968年(昭和43年)デビューの芦川絵里(1949年 - )と同世代である。1968年には、妹の谷身知子が「邦かほり」の名で美矢かほるの主演作『人生㊙劇場 壺あらそい』(監督小川欽也)に出演、同年には姉を負う形で映画界にデビューした。1969年(昭和44年)5月に公開された珠の主演作『情事のあと始末』(監督酒匂真直)には妹(邦かほり)も共演、1970年(昭和45年)1月に公開された『性の売買』(監督葉山隣)では珠瑠美・邦かほりの二枚看板でポスター展開した。 1971年(昭和46年)3月2日に公開された『好色痴女』に主演、同作の監督である木俣堯喬のプロダクション鷹に入社、同作で共演、すでに前年に「谷身知子」と改名して同社に入社していた妹とともに同社の専属女優になる。当時、同社の専属女優には、珠・谷姉妹のほか、芦川絵里、水城リカ(1943年 - )がいたが、芦川は同年7月に引退しており、水城もほとんどテレビ映画や新藤兼人の近代映画協会の劇場用映画に出演するようになっていた。同年11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、このとき珠は、インディペンデント系のプロダクション鷹の製作するほとんどの作品に主演するようになる。多く共演した妹の谷は、1973年(昭和48年)1月に公開された『日本性風俗史 淫ら絵巻』(監督木俣堯喬・和泉聖治)を最後に映画界から遠ざかっている。珠もまた、同年末に製作され翌1974年(昭和49年)1月に公開された『日本性風俗史 姦通』に主演したのを最後に、一時的に引退した。木俣堯喬もこの年の前半、ソビエト連邦(現在のロシア連邦)・東欧圏に旅に出ている。 珠が映画界に復帰したのは、1975年(昭和50年)2月19日に公開された、日活製作・配給による「日活ロマンポルノ」の一作『新・団地妻 売春グループ13号館』(監督西村昭五郎)への主演であった。珠は、同作により『団地妻 昼下りの情事』(1971年)に始まる「団地妻」女優に加わった。以降は、日活あるいはプロダクション鷹の製作する「日活ロマンポルノ」、プロダクション鷹が製作しジョイパック(現在のヒューマックス)系のミリオンフィルムが配給するいわゆる「ピンク映画」に数多く主演・助演した。珠は、1981年(昭和56年)11月に公開された、プロダクション鷹の製作、ミリオンフィルムの配給作品『復讐セックス 女が犯す』を監督し、映画監督に転身した。監督デビュー前の最後の出演作は、同年10月23日に公開された角ゆり子主演による日活製作のロマンポルノ『嗚呼!おんなたち 猥歌』(監督神代辰巳)への客演であった。このとき満32歳であった。
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姉妹の女優
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1951年(昭和26年)3月10日、東京都世田谷区烏山町(現在の同区烏山)に生まれる。父は戦前に日活大将軍撮影所の小道具係であり、戦後も東映東京撮影所や連合映画撮影所で装飾部として活動した小谷春勇(小谷春男)、2歳上の姉が女優からのちに映画監督に転身した珠瑠美(1949年 - )である。 1966年(昭和41年)4月、青葉学園高等学校(1988年廃止)に進学する。姉の珠瑠美は、すでに前年の1965年(昭和40年)9月に『裸女山脈』(監督川合茂貴)に主演して映画界にデビューしていた。『日本映画俳優全集・女優編』等には、高校卒業後に家事手伝いをしていたところ、1970年(昭和45年)にスカウトされて邦 かほりの名でデビューした旨の記述があるが、東京国立近代美術館フィルムセンターの所蔵作品詳細によれば、同校に在学中の1968年(昭和43年)に公開された美矢かほるの主演作『人生㊙劇場 壺あらそい』(監督小川欽也)に出演した旨、「邦かほり」名義でのクレジットがある。1969年(昭和44年)3月、同校を卒業、同年5月には姉の珠瑠美が主演した『情事のあと始末』(監督酒匂真直)、同年6月には同じく『競艶おんな極道 色道二十八人衆』(監督武田有生)、同年8月には二条朱美主演の『女肉 狂い責め』(監督武田有生)、辰巳典子主演の『女の舌』(監督酒匂真直)に「邦かほり」の名で出演、同月、『濡れた秘事 女高生体験記』(監督武田有生)で主演を果たしている。『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者として、扇町京子、橘桂子、城山路子(光岡早苗と同一人物)、内田高子、香取環、新高恵子、松井康子、西朱実、朝日陽子、火鳥こずえ、華村明子、森美沙、湯川美沙、光岡早苗、路加奈子、有川二郎、里見孝二、川部修詩、佐伯秀男の名を挙げているが、邦かほりあるいは谷身知子についての言及はない。1966年デビューの一星ケミ(1947年 - )や祝真理(1948年 - )、1967年(昭和42年)デビューの辰巳典子(1947年 - )や白川和子(1947年 - )、谷ナオミ(1948年 - )、青山リマ(1949年 - )、真湖道代(1949年 - )、あるいは同じ1968年デビューのハニー・レーヌ(1952年 - )や芦川絵里(1949年 - )ら同様、戦後生まれの第二世代に属する。 「邦かほり」名義で出演したのは、1970年3月に公開された『残酷色情絵図』(監督武田有生)までであり、同年5月に公開された『肉体ハイジャック 殺しの前の快楽』(監督梅沢薫)をもって、谷 身知子に改名した。同年、珠瑠美とともに、姉妹で木俣堯喬のプロダクション鷹専属になる。水城リカ(1943年 - )、あるいは芦川絵里らとともに木俣堯喬の門下生として育てられた。姉と多く共演作したが、当時、同社は若松プロダクションと提携しており、同年8月に公開された足立正生の監督作『叛女・夢幻地獄』では、脚本家・映画監督の大和屋竺とともに主演している。1971年(昭和46年)11月、老舗であり大手五社の一社であった日活が成人映画路線に全面的に舵を切り、「日活ロマンポルノ」(1971年 - 1988年)を開始するが、当初、谷がこれに出演することはなかった。1972年(昭和47年)5月10日に公開されたプリマ企画製作による『私のよわいとこ?』(監督秋山駿)に主演、これが谷が出演した映画の中で、唯一の日活配給作品である。同年中に製作され、1973年(昭和48年)1月に公開された『日本性風俗史 淫ら絵巻』(監督木俣堯喬・和泉聖治)が最後の出演作になった。 満27歳になる1978年(昭和53年)、アメリカ人のリチャード・キンティンと結婚、アメリカに移住する。キンティンとの間に3子がいる。その後、姉の珠瑠美は木俣堯喬と結婚、プロダクション鷹の取締役に就任している。以降の消息は知られておらず、存命であれば2014年(平成26年)には満63歳である。
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