国会議員へ
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1977年5月22日、自身36回目の誕生日に父・江田三郎が急逝。江田三郎は1977年3月に日本社会党を離党し、菅直人、安東仁兵衛らを誘って社会市民連合を結党したばかりだった。三郎は当時落選中で、第11回参議院議員通常選挙に立候補する腹積もりであったが、公示日直前の5月22日に急逝した。そのため五月が代わりに担ぎ出されることとなり、同年5月24日、依願免官。その後、社会市民連合公認で全国区から立候補し、参議院議員に初当選する。
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国会議員へ
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1952年(昭和27年)10月の第25回衆議院議員総選挙に群馬三区から無所属で立候補し初当選した。国会では無所属議員18人で院内会派「無所属倶楽部」をつくった。野田卯一・池田勇人と共に「大蔵省の3田」と呼ばれる。当時は大蔵省出身の国会議員が衆参合わせて24人いた。無所属の福田を除く23人は全て吉田茂・池田勇人の自由党所属だったが、福田は自らこれを「栄えある一議席」と呼んだ。 1953年(昭和28年)12月、自由党に入党した。やがて岸信介に仕える。1958年(昭和33年)には当選4回ながら自由民主党政調会長就任。 1959年(昭和34年)1月から自民党幹事長を、6月からは農林大臣を務める。 1960年(昭和35年)12月、大蔵省の先輩である池田勇人の政権下で、政調会長に就任するが、「高度経済成長政策は両3年内に破綻を来す」と池田の政策を批判、岸派の分裂を受ける形で坊秀男・田中龍夫・一万田尚登・倉石忠雄ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成し、派閥解消を提唱するなど反主流の立場で池田に対抗した。これが後に福田派(清和政策研究会)に発展する。池田から政調会長をクビにされ、福田および同調者は池田内閣の続いている間、完全に干し上げられ長い冷飯時代を味わう。 佐藤栄作政権下では大蔵大臣・党幹事長・外務大臣と厚遇され、福田の後見人である岸からの強い支持もあって、岸・佐藤兄弟の後継者として大いにアピールできたものの、この時から“ポスト佐藤”を巡る田中角栄との熾烈な闘争(角福戦争)が始まる。日本列島改造論を掲げ、積極財政による高度経済成長路線の拡大を訴える田中に対して、福田は均衡財政志向の安定経済成長論を唱える。また中華民国(台湾)と断交してでも中華人民共和国との日中国交回復を急ぐ田中に対して外務大臣時代にアルバニア決議に反対して「二重代表制決議案」と「重要問題決議案」をアメリカ合衆国などと共同提案したように台湾とのバランスに配慮した慎重路線を打ち出す。佐藤は任期中の国交回復と北京訪問を目指して密使を送り込み、中華人民共和国と中華民国との間で連絡を取っており、総理の座を譲ろうとしていた福田を中華人民共和国側関係者に引き合わせていた。これらの自民党右派のスタンスは岸派以来の伝統で、福田派の後継派閥である清和政策研究会出身の総理である森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三・福田康夫らに引き継がれている。 1972年(昭和47年)7月、「われ日本の柱とならん」を掛け声に佐藤後継の本命として保利茂・松野頼三・園田直・藤尾正行ら他派の親福田議員を結集して総裁選に出馬する。決選投票(田中282票、福田190票)で角栄に敗れるが、「やがては日本が福田赳夫を必要とする時が来る」と強気の発言を残した。また、この際福田に肩入れをしていた当時の金融界のフィクサーであった大橋薫は、生前「自分が病気で入院していたために福田が負けた」と漏らしている。 詳細は「1972年自由民主党総裁選挙」を参照 発足した田中内閣においては無役となったが、同年12月の総選挙で自民党が改選前議席を割り込むと田中が挙党一致を求める形で第2次田中角栄内閣に行政管理庁長官として入閣。翌1973年(昭和48年)11月の内閣改造では、田中の列島改造論とオイルショックによる経済の混乱の収束を求められ、急逝した愛知揆一の後任として大蔵大臣に就任し、総需要抑制などのインフレ抑制策を発動した(1974年7月の参議院選挙後に閣僚辞任)。1974年(昭和49年)12月に発足した三木内閣でも副総理・経済企画庁長官として入閣し、経済政策の陣頭に立ったが、ロッキード事件への対応を巡って党内で三木おろしが決定的になった1976年(昭和51年)11月に閣僚辞任している。
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国会議員へ
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2001年(平成13年)9月4日、衆議院議員在任中だった父・伊藤宗一郎の死去に伴い、宮城4区では補欠選挙が行われることとなった。自由民主党は世襲候補として伊藤を機械的に擁立することはせず、公募による候補者予備選挙を実施した。この予備選において伊藤は前参議院議員の亀谷博昭に大差をつけて選出される。自民党の公認候補として同補欠選挙で元宮城県知事の本間俊太郎らを破り初当選した。 2003年(平成15年)、衆議院議員に再選。 2005年(平成17年)の郵政国会では、郵政民営化に慎重な立場をとっていたが、最終的には賛成した。第44回衆議院議員総選挙では自民党公認を得て3選され、第3次小泉改造内閣では外務大臣政務官、2008年(平成20年)発足の福田康夫改造内閣では外務副大臣に就任した。 2009年(平成21年)、第45回衆議院議員総選挙に自民党から立候補。公明党の推薦も受けたが民主党の石山敬貴に敗れ、重複立候補していた比例東北ブロックでも復活出来ずに落選した。 落選後に人材派遣会社・パソナグループの特別顧問に就任、就職先が決まらない大学生らにビジネスマナーから専門知識を教授する『人材創造大学校』の「事務総長」を務める。 2012年(平成24年)、第46回衆議院議員総選挙に自民党から立候補し、前回敗れた石山を大差で破って4選。国政に復帰した。 2013年 (平成25年)、衆議院環境委員長に就任。 2014年(平成26年)、第47回衆議院議員総選挙に自民党から立候補し、5選。 2017年(平成29年)、第48回衆議院議員総選挙に自民党から立候補し、6選。 2021年(令和3年)、第49回衆議院議員総選挙に自民党から立候補し、7選。
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