十二イマーム派法学:オスーリー派の確立
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「十二イマーム派」の記事における「十二イマーム派法学:オスーリー派の確立」の解説
スンナ派イスラーム法学の法源として、旧来次の四つが認められてきた。すなわち、クルアーン、預言者の伝承、共同体の総意、類推である。クルアーンは神の言葉そのものとして最高の権威を持つことはいうまでもない。しかし、それは法学・神学的解釈の大枠に過ぎない。現実の具体的問題に法学的解釈を下す際、最も重要な法源は預言者の伝承である。シーア派では、これに加え、預言者ムハンマドから直接代理を賦与された十二人のイマームの伝承(アフバール)を最高重視する。この伝承集は10世紀から12世紀に編纂されたが、現在も十二イマーム派の法解釈において最高の権威を有している。 現実の共同体で発生する法的問題に対応するために、クルアーンや伝承を用いても十分に対処できない場合は、法解釈者の個人的判断が加えられることになる。この個人的判断は、イジュティハード、イスティフサーン、キヤース、ラーイーなど、判断の根拠の精確さに応じて、また用いられる目的に応じた用語がある。シーア派では、恣意的で根拠が薄弱なラーイーやキヤースは排除される。他方、信頼度の高い伝承的根拠に基づき、理性を行使する法的判断がイジュティハードである。 イジュティハードの行使は、原則としてシーア派で禁止されることはなかった。しかし、十二世紀までは、むしろこれを排除する傾向があった。のちにこれの重要性について注意を喚起したのが、モンゴル朝期に活躍したアッラーマ・ヒッリーであった。これ以後、サファヴィー朝においてもその重要性は認識されていたが、時代に反映するほど明白な争点として現れなかった。しかし、十九世紀への変わり目にいたり、行使の可否を巡って、イジュティハードは決定的に重要な法概念であると考えられるようになったのである。 この時期、法解釈の方法をめぐり熾烈な抗争が行われた。一方は法的解釈に際して、クルアーンおよび預言者とイマームの伝承の地は一切法源として用いるべきではないとする立場、他はクルアーンや伝承で十分対処できない新しい問題については、資格を認定された法学者の理性的判断を容認する立場である。前者をアフバーリー派(伝統墨守の一派)、後者をウスーリー派(法学の原則に理性を許容する一派)と呼んだ。 アフバーリー派は、サファヴィー朝半ば、モッラー・アミーン・アスタラバーディーによって確立された。その基本的立場によれば、十二代目イマームの「お隠れ」以前、以後いずれにおいても信者共同体の法的状況には何ら本質的相違、変化はないと考える。したがって、イマーム不在の時代にあっては、クルアーンは別格として、最も重要な法源はイマームの伝承だけである。そして、そのような伝承の集大成として、4つの伝承のみを容認するのである。 伝承重視の立場は徹底していた。例えば、ある伝承の信憑性が不確かであっても、四大伝承集に採録された伝承であれば真正なものとみなした。また、ある行為の妥当性について伝承では判定がなされておらず、その行為自体が疑わしい場合、その行為を行うことは慎重に控える。さらに、対立する伝承が複数ある場合は、イマームの言行を優先する。それでも判断できない場合は、いずれの伝承にも従わない(タワッコフ)という立場をとった。 この伝承重視の立場は、サファヴィー朝以降、一八世紀に入ってからも十二イマーム派の主流となっていた。特に、現在のイラク共和国南部地域で同派の勢力は顕著であった。この地域はアタバードと呼ばれ、シーア派の聖地であり、宗教的学問の中心地であった。初代イマーム・アリー(ナジャフ)や、三代目イマーム・ホセイン(カルバラー)の墓廟など、イマームに縁のある地が多く存在する。国境という人為的概念が希薄な時代のことであり、イランからも数多くの優秀な学者、学生が賢者を求めて、まだイマームたちの霊力に引きつけられるかのようにアタバードを訪れた。しかし、一八世紀末にこのアタバードで異変が生じつつあった。アフバーリー派に対する攻撃がなされたのである。 この反撃の旗手となったのが、ベフバハーニーという人物であった。シーア派では、イマームのお隠れ以後、百年に一人時代を変える人物(モジャッデド)が現れると言われている。ベフバハーにーはモジャッデドであり、シーア派学界で優に歴代十傑に入る人物として高く評価されている。 ベフバハーニーは、1705年、エスファファーンの町で生まれた。イラクのナジャフで研鑽して後、イラン南西部のベフバーンの町に30年滞在した。この地においても当時一斉を風靡していた伝統主義を掲げるアフバーリー派が優勢であり、彼はこの一派の影響力を削除する活動を行った。その後イラクに戻り、イマーム・ホセイン殉教の地カルバラーを本拠地といて、アフバーリー派に対する戦いを継続した。 反アフバーリー派の書物を著して同派の主張に反駁を加える一方で、分散するウラマーの権威を極力単一の人物に集中し、シーア派全体を統合しようと企てた。そして、この立場に反対する者を異端宣言(タクフィール)することによって、教敵の勢力を削いだ。目的達成のためには暴力も辞さなかった。勢力的な活動の結果、彼が没する18世紀末から19世紀の変わり目には、アフバーリー派の勢力は、ほぼ潰えてしまったといわれている。こうして伝承重視に対して、理性の働きを重んじるオスーリー派が力を得るようになった。 オスーリー派の勝利は、モジュタヘドの勝利であった。モジュタヘドとは、法解釈において独自に理性的判断を下す機能(イジュティハード)を許可された宗教学者のことである。元来、イスラームでは聖職者階級は存在しないため、誰であっても一定の学的水準に達したものは、独自の法解釈に基づき行動することができる。しかし、現実には一般の信者が一定の学的水準に達することは極めて困難である。モジュタヘドになるためには、通常何十年もの年月を要したからである。例えば、アラビア語、文学、倫理学、クルアーン解釈学、伝承がく、聖者伝、法学倫理、他の宗派の教義など、幅広い知識を必要とした。したがって、一般信者はムスリムとしての宗教的、社会的義務を遂行するとき、その行為の規範を提供する宗教学者に助言を求める。これをタグリード(模倣)という。 シーア派の教義によると、全ての信者は少なくとも一人の規範の対象を持たなければならない。この規範(模倣)の対象(源)をマルジャア・アッ=タグリードという。マルジャア・アッ=タグリードは生きたモジュタヘドであって、故人であってはならない。信者と宗教学者のこの関係は、オスーリー派の勝利によって一層強化された。 ベフバハーニーの没後、19世紀も半ばに近づく頃、ウラマー階層全体を最も学識のある単一のマルジャア・アッ=タグリードの下に統合しようという動きがあった。その結果、単一のマルジャア・アッ=タグリードになったのがサーへべ・ジャヴァーヘル、そしてその後を受けたのが、シャイフ・モルタザー・アンサーリーであった。特にアンサーリーは「法学者の封印」とさえいわれ、十二イマーム派教学に、大きな足跡を残した。こうしてマルジャア・アッ=タグリードがシーア派世界に君臨する多勢が出来上がった。この経過と以後の発展について、モタッハリーは、1960年代に執筆した「宗教学者組織の基本的問題」という論考のなかで次のように説明している。 新しい(西洋)文明がまだイランに来ておらず、都市間の交流手段が今よりも貧しかった100年ほど前までに、各都市の人々は、自分たちの資金(ホムス)を同じ町のウラマーに支払っていた。そしてそれらの資金の大半は同じまちで費やされていた。しかし、この一世紀において、それぞれの地点相互に接近する新しい手段が発明されたために、資金はマルジャア・アッ=タグリードという人物に支払うことが習慣となった。これ以後、マルジャア・アッ=タグリードの居住する中心地は注目を受けるばかりか、彼の命令が従われるようになった。その結果、(これらの宗教的資金のうち)イマームの取り分と言われる部分が、新しい土地からもたらされて、宗教学院(の収入)としてはいることになったため、学院は拡大した。全体として、(人々の)往来が盛んとなり、人びちが身近にマルジャと面会し、学院が拡張し、学生や卒業生の数が増え、徐々に町や村がマルジャの影下に入ったため、指揮権と権力が拡大されたのである。 同時代にこの指揮権と権力を十分に行使し、その指揮権と権力を拡大するために新しい手段を活用した人物が、シーラーズィーであった。この権力と指揮権を初めて明らかにしたのが、かの有名なタバコ利権に関する教令(ファトワー)であった。 単一のマルジャア・アッ=タグリードの体制が出来上がったため、経済的にも基盤が安定した宗教学層は、イランの近・現代史上、特異な社会・政治的役割を演じることができた。
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