神学的解釈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:48 UTC 版)
ゼカリヤ書11:12–13では、ゼカリヤは彼の労働の対価として銀貨30枚を受け取り、それを「陶工に」投げたとされる。クラース・スヒルデルは、これはゼカリヤの価値であり、それをかたにしてクビになったのだと述べている。このときゼカリヤは「気前のよい払い」と言っているが、出エジプト記21:32で奴隷の値段が銀貨30枚だったのを踏まえれば、皮肉であるとも取れる(ゼカリヤ11:13、訳注:英語版聖書では "handsome price" とされており、この handsome は「かなりの、気前のよい」の意。日本語版聖書では「尊い価」となっている)。しかし、バリー・ウェッブは文字通り「相当な金額」であるとしている。 スヒルデルは、聖書にたびたび現れる銀貨30枚は「預言の聖霊が(歴史の)前後を束縛したものだ」としている。マタイは、祭司長らがユダが返した金で畑を買うことを決めたことを指して、「預言者エレミヤによって言われた言葉が成就した」、つまり「イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」と語る(マタイ27:9-10)。多くの神学者はここで現れるエレミヤの名は誤って書かれたものだとみなしているが、エレミヤがエレミヤ書32で畑を購入したことは、エレミヤとマタイが共に念頭に置いている何物かを示唆している可能性がある。クレイグ・ブロムバーグは、マタイは「実際に予測的預言が成就した」と言っているのではなく、予型論的解釈に基づいて引用しているのだと主張している。ブロムバーグによれば、マタイは読者に対して「エレミヤやゼカリヤのように、イエスは預言的かつ司牧的な奉仕により人々を導こうとするが、かえって人々に苦しめられる」と語っているという。ウィリアム・ヘンドリクセンは、マタイが触れているのはエレミヤ書19である、と主張している。 ブロムバーグはまた、マタイは「イエスの死は身代金であり、奴隷を解放するために贖われた代価」であり、このため外国人墓地の購入に血の代価が使われた(マタイ27:7)のは、「イエスの死は、異邦人を含む世界のすべての人々の救いを可能にする」ことを示唆しているのだ、と述べている。 1877年の聖書注解本によれば「Argurion、argenteus、denarius。この言葉は2つの節に現れる。(A) 我らが主に対する裏切りの対価としての「銀貨30枚」(マタイ26:15、27:3、5、6、9)。これらは従来デナリウス銀貨とされてきたが、十分な根拠はない。これと並立するゼカリヤ書の記述(11:12-13)では「銀貨30枚」と訳されている。しかし、これは間違いなく「銀30シェケル」と読むべきであり、ところが「銀30シェケル」は、使用人が誤って殺された場合に支払われる血の代価であることが分かる(出エジプト21:32)。したがって、この節の「銀30シェケル」は、実際のシェケルではなく、ギリシャ植民地のシリアおよびフェンシアで標準となっていたアッティカのテトラドラクマである可能性がある。このテトラドラクマは我らが主の時代には一般的であり、スタテルは見本に過ぎなかった」。
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