正教会の聖餐理解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:09 UTC 版)
詳細は「聖体機密」を参照 正教会においてもカトリック教会と同様に、聖体礼儀の中で成聖されたパンとぶどう酒の中に、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの中世以降のギリシャ語・教会スラヴ語読み)が実存すると理解する。しかしながら、カトリック神学のような聖変化によってパンとぶどう酒が聖体・聖血に『完全に』実体変化をしたと理解するのではなく、真のパンとぶどう酒であって、なおかつ真の聖体・尊血(聖血)であると考える。 もっとも、正教会の聖餐論を東西教会の分裂以降に発達したスコラ神学によるカトリック教会の聖餐論(スコラ神学の集大成者であるアキノの聖フォマ<トマス・アクィナス>による解釈)と比較したり、また更に後の時代になってカトリック教会への抗議(プロテスト)から始まったプロテスタントの神学を用いて解釈しようとしたりすること自体にそもそもの無理がある。カトリックやプロテスタント諸派の(それぞれの)聖餐論的理解に対して正教会の見解を問われれば聖変化を認めるという立場をとるが、それは『機密制定の晩餐』の席上でイイスス・ハリストスがパンとぶどう酒を手にとって、それぞれ自分自身の体であり血であると宣言したから、パンであってハリストスの体であり、ぶどう酒であってハリストスの血なのである。また、どの時点で聖変化が起こるのかについても、その問い自体がスコラ神学的発想によるものなので、正教会にとってはそのような問いかけ自体がナンセンスとも言えるのである。 強いていえば、主日の朝、信者が家を出るとき、その日の聖体礼儀に供される聖パンを携えたときから始まるとも考え得るし、聖パンに供されるためにパン生地が練られるときからとも、あるいは小麦などパンのそれぞれの原料がこの世に存在し始めたときからとも言える。そして、その成聖の過程は聖体礼儀の中において、捧げられたパンとぶどう酒を司祭が記憶(アナムネーシス)し、「なんじの聖神゜(せいしん:聖霊)をもって、これを変化せよ。」という聖神゜の降臨を願う祈り(エピクレーシス)を唱えることにより聖神゜が降臨して完成されると考えられる(ちなみにカトリック教会の神学では、エピクレーシスで聖霊が降臨して聖変化が始まり、聖体を制定する典礼文(制定句)が唱えられ、アナムネーシスされて完成すると考える)。 しかしながら、『使徒の教会』の継承を自認する正教会の信者にとって信仰上の大切なことは、イエスの言葉と教会の伝統に従ってイエスの制定された領聖(聖体拝領)等の各機密に与ることであり、神学的解釈や理解よりも伝統の中に息づき生き続けるいのちを受け、且つ継承していくことに正教信仰の真髄があるとも言える。
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