上海郵便局とは? わかりやすく解説

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上海郵便局

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 00:51 UTC 版)

上海郵便局
基本情報
正式名称 上海郵便局
設置者 大蔵省駅逓寮、大蔵省駅逓局、内務省駅逓局、農商務省駅逓局、逓信省運輸通信省、逓信院
所在地 上海共同租界内天潼路1号[1]
特記事項
1923年(大正12年)1月1日廃止、同日より電信事務及び会計事務を上海電信局が承継。
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上海郵便局(シャンハイゆうびんきょく)は、清国並びに中華民国上海共同租界内に設置されていた日本郵便局。本項においては、その電信事務及び会計事務を承継した上海電信局(シャンハイでんしんきょく)についても解説する。

概要

上海郵便局は1876年明治9年)4月15日に開業した[2][3]。日本が設置した最初の在外国郵便局であった[4]。開業当初は在上海日本領事館を間借りして運営されており、初代局長を務めたのは同地駐箚の総領事品川忠道であった[5][6]1882年(明治15年)1月2日に郵便為替[7]1885年(明治18年)6月1日に郵便貯金の取扱を開始し[8]1892年(明治25年)8月12日にはそれまで窓口か私書箱による交付のみであったところ、郵便物配達を開始した[9][10]日清戦争下の1894年(明治27年)8月16日に一時閉鎖されたが[11]、終戦後の1895年(明治28年)8月17日に業務を再開している[12]。当時の清国においては同国から承認を受けずに設置された外国郵便局が複数存在し、日本が設置した上海郵便局もその一つであったが、1903年(明治36年)5月18日に日清間に郵便仮約定が締結され、在清国日本郵便局の存在は同国からの実質的承認を得た[13][14]辛亥革命後、日本は中華民国及び大北電信会社との交渉を経て、日華間に海底電線陸揚権約定を締結し、長崎 - 上海間に海底電信線を敷設した[15][16][17]。この海底電信線を使用して上海郵便局においては1915年大正4年)1月1日に電信事務の取扱を開始した[18]。同年9月には新局舎が完成している[19][20]1922年(大正11年)2月1日のワシントン会議太平洋及極東問題総委員会における支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議を受け、各国が中華民国に設置している郵便局は別に定めるものを除いて撤去することとなり、1923年(大正12年)1月1日に上海郵便局は廃止された[21][22]

上海郵便局の郵便事務は長崎郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局が承継したが、電信事務及び会計事務については同日より新設された上海電信局が承継した[21]。上海電信局は日華間の海底電線陸揚権約定に基づき、日本電信系に発着する和文電報並びに日本及び中華民国政府の欧文官報を取扱う電信局で、上海郵便局の局舎をそのまま使用した[21][23][24][25][26][27]。当時の上海においては、この日本電信局のほか、中華民国設置の電報局に加え、外資系の大北電信会社、大東電信会社(EN:Eastern Telegraph Company)及び商務太平洋電報会社(EN:Commercial Pacific Cable Company)の会社局が設置され、各々において電報の取扱を行っていた[28]。中華民国政府はこうした外国通信会社に与えている通信特許権を回収すべく交渉を行っており、日華間の海底電線陸揚権約定の期限が1930年昭和5年)末で期限を迎えるために両国間に開かれた外交交渉においても受配事務の引渡しなどの条件を積極的に主張し、概ね合意を得るに至ったが、中華民国政府内における混乱等に起因して結局正式な調印に至らず、その後の満洲事変等による関係悪化に伴い、さしむき現状を維持するとの暫定的協定が大戦の終結まで継続した[29][30]第一次上海事変及び第二次上海事変において戦禍を蒙りつつ、大戦下においても業務を継続したが、1945年(昭和20年)6月に海底電信線が不通となり、大部分の業務を華中電気通信に移管して、間もなく終戦を迎えた[31][32]。その後、中華民国政府は1945年(昭和20年)9月17日に上海電信局を接収した[33]

歴史

日米郵便交換条約の締結

45銭の鳥切手
サミュエル・ブライアン肖像

1873年(明治6年)8月6日、日米両国は帝国日本と亜墨利加合衆国の間に取結たる郵便交換条約(通称:日米郵便交換条約、一名皇米郵便交換条約)に調印、同条約は翌1874年(明治7年)6月14日に明治7年太政官布告第62号として公布せられ、1875年(明治8年)1月1日より施行された[34][35][36]。明治初年の日本においては1860年万延元年)に英国が居留民と本国との通信を図るべく横浜及び長崎に郵便局を設置したのを嚆矢として、1865年慶応元年)に仏国が横浜、1867年(慶応3年)に米国が横浜及び長崎に各々の郵便局を設けて外国郵便の取扱を行っており、日本から外国へ郵便を送る際にはこれら在日外国郵便局がその逓送を行っていた[37]。こうした郵便における主権恢復を果たすには各国と郵便条約を締結し、外国郵便を日本において自ら取扱う必要があったため、国際郵便にかかる専門的知見を有するサミュエル・ブライアンをいわゆるお雇い外国人に撰び、1873年(明治6年)2月24日に同人を米国に派して、同地において訪欧中の森有礼に代って駐米臨時日本公使を務めていた高木三郎と共に交渉し、本条約は締結されるに至った[35][38]。条約施行と同時に外国郵便料金用として3銭、12銭、15銭及び45銭のいわゆる鳥切手の発行が開始され、1875年(明治8年)1月5日から横浜郵便局、長崎郵便局及び神戸兵庫郵便局において外国郵便の取扱を開始した[39][40]

日本側による上海航路の独占

太平洋郵便汽船会社のゴールデン・エイジ丸。三菱による買収後は広島丸と改称された(日本近代史研究会編、『写真図説 総合日本史 第6巻 近代編上』(391頁)、1955年(昭和30年)11月、国際文化情報社)
品川忠道肖像

本条約の施行に伴い在日米国郵便局は閉鎖され、日本は米国と対等に郵便物を交換し、且つ米国が郵便条約を締結している各国に対して米国経由により郵便物を送付し得るようになったが、日本には自前の郵便航路がなく、日清間における郵便物逓送は全く米国の太平洋郵便汽船会社(EN:Pacific Mail Steamship Company)がこれを独占していた[41][42][43]。しかるに日米郵便交換条約第5条は「横浜兵庫長崎の日本郵便局より支那上海合衆国の郵便出張所へ発出する信書新聞紙及ひ諸般の刷印物其他商品の見本雛形又は上海より日本へ発出する同前の品々を日本と支那の間に定期を以て往復する合衆国又は日本の郵船を以て右日本の三港と支那上海の間に逓送交換すへし」として日米両国が上海との間に郵便航路を開くことを定めていた[34]。そこで日本政府は台湾征討により飛躍的に発展した三菱商会へ上海横浜間定期航路の開設を依頼し、同航路は1875年(明治8年)2月3日より開設されることとなった[42]大蔵卿大隈重信は関係府県に対して次のごとく布達した[44]

当省汽船三菱商会ヘ相托有之候東京丸外三艘横浜上海ノ間ニ不断通航為致可申尤来二月三日東京丸横浜抜錨神戸ヘ二十四時馬関ヘ六時長崎ヘ十二時間碇泊直チニ上海ヘ発航ノ筈自後八日目即水曜ニ相当候日毎ニ横浜上海両港ヨリ無相違発航可致候条此旨府県下区長戸長ヘ為心得通知有之度此段相達候也
— 大隈重信、汽船東京丸外三艘上海へ発航の件(所収;日本経営史研究所編、『近代日本海運生成史料』、1988年(昭和63年)10月、日本郵船)

上海航路開設当日の第一便の東京丸には三菱商会副社長岩崎彌太郎自ら乗船し、同地フランス租界には三菱商会の支店が開設されたが、本航路は前述の米国太平洋郵便汽船会社の既設航路と激しい競争を生じた[42][45]。両者とも貨客運賃の低廉化に努め、この時期には三菱商会側に一ヶ月あたり約2万円の欠損を生じたというが、この競争による打撃は太平洋郵便汽船側においても大きく、同社は上海航路からの撤退意嚮をみせはじめた[46]。1875年(明治8年)9月15日には三菱商会は政府より13隻の汽船と運航助成金として年額25万円を受けて社名を郵便汽船三菱会社と改称した[46][47]。政府の手厚い支援を受けた同社は太平洋郵便汽船会社と上海航路の買収について協議し、同年10月に日本政府は同社へ買収費用81万円を貸与して契約が成立した[46][47]。この買収により太平洋郵便汽船のコスタリカ丸、ゴールデンエイジ丸及びオレゴニアン丸ならびに同航路にかかる陸上施設の一切が三菱側の所有に帰し、またネバダ丸の貸与を受けて同社は日本 - 上海間航路をほとんど独占するに至った[46][48]

こうして上海航路を確乎たるものとした日本は、既に上海にあった米国郵便局に代って日本宛郵便物を管掌すべく同地における日本郵便局の開設を企図することになった[48][47]。1875年(明治8年)10月23日、駅逓頭前島密米国郵政長官及び同国上海郵便局長に対し次のごとく将来上海に日本郵便局を設置するつもりであることを通知した[49]

明治八年十月廿三日正院ヘ届

是迄上海ヨリ吾国ヘ送レル郵便ハ総テ同地出張米国郵便局ヨリ太平洋郵船会社ノ船ヲ以テ運漕致シ来候処今般右船々三菱会社へ買入候ニ付定約期限中子バダ号ヲ除キ他ノ船々ヲ以テハ同局ヨリ之レヲ運漕セシムヘキ権利無之然ル処未タ同地ニ吾郵便局ノ御設立モ不相成候ニ付右郵便ノ運漕ヲ相休候テハ互地ノ往復ヲ閣滞シ衆庶ノ苦情ヲ我国ニ来シ候場合ト相成不容易次第ニ付差向別紙ノ通リ上海出張米国郵便局及ヒ其本国駅逓院ヘ駅逓頭ヨリ文通為致候条此段御届申上候也 但上海ヘ吾郵便局御設立ノ儀ハ別紙ヲ以テ相伺可申候也

訳文
明治八年十月廿日駅逓頭ヨリ合衆国華盛頓駅逓総長ヘ通知
横浜ト上海トノ間ノ支線ヲ往復致シ候太平洋郵便汽船会社所有船一艘ヲ除キ余船ハ皆合衆国旗ヲ日本国旗ニ変ヘ候ニ付未タ確定不致候得共向来日本政府上海ニ於テ在留日本領事館ト一致シ郵便局設立致シ候積ニ有之候尤在上海合衆国郵便事務官セウハルド氏ヘハ旧支線船ニ相用候汽船ヲ以テ従前ノ通リ其郵便物逓送致シ不苦旨通達致シ又右汽船ノ船長等ヘハ此郵便物ヲ受取逓送可致様指令致シ置候此段及御通知候也

訳文
同年同月同日駅逓頭ヨリ上海米国郵便出張局ヘ通達

以後及御通知候迄太平洋郵便汽船会社上海ト横浜間ノ旧支線船ノ船長共ヘ貴局ニ発着スル郵便物ヲ今迄ノ通リ交付領収可致様指令致シ置候間為念此段御通達申置候也 — 「第三横浜上海間郵船往復ノ儀ニ付在上海米国郵便局及米国駅逓院ヘ通信ノ事」、『駅逓局類聚摘要録』(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

また、同月29日には次のように在上海日本総領事品川忠道に対し将来上海において同地駐在総領事が郵便局総括の任を兼務すべき旨が通達された[5]

八年十月廿九日

 領事品川忠道ヘ達
上海郵便局総括兼務被仰付候此旨相達候事
 但不日駅逓頭出張ニ付委細可遂協議事(内務)
  外務省ヘ達
領事品川忠道上海郵便局総括兼務被仰付候条此旨為心得相達候事(内務)

内務省伺
是迄上海ヨリ長崎神戸横浜等ヘ差立候郵便ハ上海出張米国郵便局ニテ之ヲ掌リ太平洋郵便会社ノ船ヲ以之ヲ運漕候儀ニ有之候処今般右船々ハ三菱会社ヘ買入結約相成候ニ付テハ約定期限中ネバダ号ヲ除キ右郵便局ハ其郵便ヲ運漕スヘキ当然ノ船々無之ニ至リ又吾政府ニ於テハ其当然ノ船ヲ互地ニ定期運航セシメ候上ハ互地往復ノ郵便ヲ統括致シ候儀ハ至当ノ道理ニ有之候間上海ニ於テ吾郵便局ヲ御設立右定期運航船ヲ以運送スル所ノ郵便ヲ管掌為致度
尤右郵便局御設立迄ノ間ハ本月廿三日御届申上候通無余儀事情ニ依テ従前ノ通米国出張郵便局ヘ其郵便ノ運送差許候ヘトモ已ニ吾郵便局ノ設立相成候上ハ米国政府ヘ同国在留全権公使ヲ以郵便交換御条約ノ件中改正ノ儀協議可及ト存候
 但其期ニ方リ委細可相伺候
右郵便局御設立ノ議ハ別ニ一宇ノ家屋ヲ設クルニ不及同地ニ於ケル領事館内ニ一局ヲ設置候迄ニテ可然又其取扱人ニ於テハ駅逓寮ヨリ専務担任ノ者一名若クハ二名ヲ可差出候ヘトモ其統括ハ同所領事ヘ兼任被仰付度候
 但実境ノ模様事務ノ都合ニ寄リテハ外国人一名御雇ノ儀可伺哉モ難計候
右郵便局ノ設置私書函等ノ備ヘ方并ニ事務取開キ方ノ順序等ハ逓送頭ヲ同地ヘ出張セシメ同所領事ヘ打合ノ上諸般為相整可申候
右設置ニ属スル一切ノ費用ハ駅逓寮本年定額諸費目中ヨリ融通致シ別段御出方不相伺儀ニ有之候
右御詮議ノ上何分ノ御指令被下度此段相伺候也(十月廿四日 内務)

伺ノ趣聞届け別紙ノ通品川領事ヘ相達候事(十月廿九日) — 『太政類典』八年十月廿九日、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第一巻』、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館)

清国上海における郵便事情

在清国英国郵便局についてはEN:British post offices in China、在清国ドイツ郵便局についてはEN:German post offices in China、在清国フランス郵便局についてはEN:French post offices in China、在清国ロシア郵便局についてはEN:Russian post offices in Chinaを参照のこと

1842年8月29日(道光22年7月24日・天保13年7月24日)、英清間に南京条約が締結され、上海は同条約により開港地に指定せられ、翌1843年(道光23年・天保14年)に英国領事館附医師であったヘール(Dr. Hale)が、臨時郵便代弁所(Temporary Postal Agent)を開設し、彼がその所長を兼任した[50]。これが清国における外国郵便局の濫觴であり、爾来列強諸国は通商上の勢力を拡張し、自国通信圏を清国内に延長すべく、各自の政治経済との関係が深い地方において各々その郵便官署を設置するようになった[50]1860年10月(咸豊10年9月・万延元年9月)の北京条約以降は、フランスが郵便物の取扱を開始し、米国及びドイツ国もこれに続いて、各国共に上海に郵便官署を開設している[50]。このような外国政府によって設置された郵便官署を客郵と称し、清国商人の運営に係る民信局と併存していたのが、当時の清国における状況であった[51]

この種の在清外国郵便局は、特にその設置権を条約等によって認められたものではなく、単に南京条約第2条等の規定によって清国政府が黙認していたに過ぎなかった[52]1874年(明治7年)10月9日(同治13年8月29日)には万国郵便条約により万国郵便連合が発足し、条約批准国間における国際郵便交換の体制が確立されたが、清国は同条約に加盟せず、また郵便制度の整備も遅れており、以降も近代的郵便制度の整備されていない国において列強諸国が設置した郵便官署は引き続き運用された[53][50]。各国郵便局は同地において母国の郵便切手を使用するばかりか、同地において独自の郵便切手を発行するものもあった[54]

日本は上海に郵便局を設置するにあたり、1875年(明治8年)11月7日に前島密を同地に派遣し、その郵便事情につき視察を行ったが、前島は同年12月2日に帰国して次のように報告している[55]

本年十月廿九日伺済ヲ以テ支那上海ヘ郵便局為開設前島駅逓頭同地ヘ罷越本月二日帰朝左ノ趣具陳仕候
上海ニ郵便局御開設ノ儀ハ従来同地ニ工部信局ト称スルモノ有之西洋式ニ従ヒ日々信書等ノ集配有之且支那内地各所ヘノ通信ヲモ可取扱規則備リ居リ其信局ハ支那政府ノ工部ニ属シ候哉ノ趣ニ付自ラ之ニ干渉スヘキ件モ有之ヘク若シ同政府ニ於テモ其疆内ニ他邦ノ郵便局ヲ建設セシムルハ其国権ヲ妨害スルノ理ヲ暁覚シアラハ或ハ新ニ開設スヘキ吾郵便局ニ何等ノ意義ヲ可生歟モ難計ト憶想致シ候ニ付此線路ノ郵便線吾所有ニ相帰シ候機ニ乗シ咄嗟ニ御開設ノ方可然且米国政府ヘ郵便交換御条約中改正ノ件申入候節万一上海ヘ吾郵便局設置ノ儀ハ支那政府ヘ協議相済候哉ナド尋問候儀モ有之候テハ甚タ不都合ノ場合ヲ可生ト過慮候ニ付旁速ニ御開設ノ上右改正ノ儀申入候方可然ト存候処同地ニ至リ其実況ヲ取調候ヘハ右工部信局ト称スルモノハ全ク同所居留地内ニ限リタル工部局ニ属スル信局ニテ支那政府ヘハ関係無之趣故ニ其通信ノ規則方法モ唯居留地及支那開港地ニ限リ上海中ト雖モ土人ノ区内ニハ一切不及モノニ有之又内地通信ノ実況ヲモ探討致シ候ニ僅ニ各地其近傍ニ達シ得ヘキ飛脚屋躰ノ者有之而已ノ様子ニ有之政府ヨリハ毫モ是ニ著意不致総テ投棄ニ附シ置候様相見候ニ付右御開設ハ何時ニテモ差支無之甚タ容易ニシテ且米政府ヨリ尋問ノ節不都合ノ節モ聊無之次第ト被存候 — 『太政類典』八年十二月八日、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第一巻』、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館)

このように清国側は郵政について関心がなく、外国郵便局による自国主権侵害の情況も特に問題視していなかったので、日本は1876年(明治9年)2月1日に上海へ日本郵便局を設置する方針を固めた[47]

日米郵便交換条約の改正

1875年(明治8年)11月14日、米国は万国郵便条約に基づき米国 - 上海間及び日本 - 上海間の郵便料金を15セントから5セントに値下げした。一方で日本の郵便局から上海に郵便を送る場合は6銭、米国宛の郵便物は21銭を要しており、この日米間における郵便料金の価格差が上海へ日本郵便局を設置するにあたって問題となった[56]。この価格差の問題が生じたため、日本は上海における郵便局設置を延期し、米国との間に上海日本郵便局設置の可否を含め日米郵便交換条約の改正について1876年(明治9年)1月17日より協議を進め、同年2月8日に駐米日本全権公使吉田清成と合衆国郵便長官マーシャル・ジュウェルワシントンにおいて日米郵便交換条約改定追加条項に調印した[56][57][2][58]。その内容は次の通りであった[57]

一千八百七十三年八月六日帝国日本ト亜墨利加合衆国トノ間ニ取結タル郵便交換条約ノ箇条及ヒ一千八百七十五年四月二十六日両国間ニ約スル条約ノ条款ヲ改定スル追加条約

下ニ戴名スル両員ハ各其政府ノ命ヲ奉シ西暦一千八百七十三年八月六日即明治六年八月六日結約スル日本ト合衆国ト郵便交換条約ノ箇条及ヒ一千八百七十五年四月二十六日華盛頓府ニ於テ調印セル両国間条約ノ箇条ヲ左ノ如ク改定スルヿヲ締約ス

第一条 右交換条約中第三条ノ第二節ヲ改定シ信書一通ノ郵便税其重量十五グラム(即チ半オンス)或ハ其以下ノモノハ合衆国ニ於テハ五セント日本ニ於テハ五銭ニ減シ右重量ニ超ユルモノハ十五グラム(即チ半オンス)若クハ其分数毎ニ五セント或ハ五銭ノ比例ヲ以テ郵便税ヲ加フヘシ
又合衆国ト日本ト両国間ニ郵便ヲ以テ交換スル新聞紙及諸般ノ刷印モノ其他商品ノ見本雛形ノ郵便税ニ関シ一千八百七十五年四月二十六日華盛頓府ニ於テ両国間ニ取結ヘル条約ヲ改定シ発出国ノ郵便局ニ於テ取立収入スヘキ郵便税各新聞紙ノ重量四オンスニ過キサルモノハ合衆国ニ於テハ二セント日本ニ於テハ二銭ニ減シ諸般ノ刷印モノ其他商品ノ見本雛形其重量二オンス若クハ二オンスノ分数毎ニ二セント或ハ二銭タルヘシ
第二条 日本政府ニ於テ清国上海ニ郵便支局ヲ設立ス可キニ依リ右日本郵便支局ヨリ発出シ横浜交換局ヲ経テ合衆国若クハ合衆国ヲ経過シ外国ヘ郵送スル各種郵便物ノ税額及交換ノ順序ハ帝国日本ヨリ右国々ヘ逓送スルモノト同一タルヘシ
第三条 横浜兵庫長崎ノ三港ニ在ル日本郵便局ハ合衆国或ハ日本ノ郵便船ヲ以テ在上海日本郵便支局ト郵便物ヲ交換スルヿヲ得ヘシ
又在上海米国郵便支局ニ於テ取立収入スヘキ日本行信書一通ノ郵便税或ハ両国間ニ取結ヘル郵便交換条約第五条ニ約定スル六セントヲ廃シ五セントトス且上海行信書同港米国郵便支局ニ当テ運送スル時ハ同シク五銭ノ郵便税ヲ日本ニ於テ取立収入ス可シ
第四条 一千八百七十三年八月六日締約ノ郵便交換条約第五条ノヶ条ハ茲ニ改定スル通リ今一千八百七十六年十二月三十一日即チ兵庫長崎ノ両港ヲ経テ横浜ト上海トノ間郵便事務ノ為メ合衆国ト太平洋郵便汽船会社ノ間ニ存スル約定満期ノ日迄存在スヘシ而シテ来一千八百七十七年一月一日後若シ合衆国駅逓院ト締約シテ日本横浜港ト支那上海トノ間ニ定期ノ航海ヲナス郵便船ヲ以テ在横浜日本郵便局ト在上海合衆国郵便支局トノ間ニ交換スル郵便物アルトキハ右ヶ条ヲ之ニ充ツヘシ
此条約ハ西暦一千八百七十六年四月一日即明治九年四月一日ヨリ実際施行スヘシ
西暦一千八百七十六年二月八日即明治九年二月八日華盛頓府ニ於テ此条約本書二通ニ記シ以テ確定スル者也

        合衆国駐箚
        帝国日本特命全権公使
         吉田 清成

        合衆国駅逓総長
         マルシヤル・ヂエウエル

朕此条約ヲ定證セン為茲ニ大日本国ノ印章ヲ鈐ス

  明治九年三月三十一日
   御名 国璽

           奉勅 外務卿寺島宗則

余此条約ヲ了承シ爰ニ合衆国ノ印章ヲ鈐シ之ヲ證スル者也
        ユー、エス、クラント
        外国事務執政
          ハミルトン フ井ン

  華盛頓府千八百七十六年二月八日 — 明治9年太政官布告第46号、(所収:『明治九年 法令全書』、1890年(明治23年)3月、内閣官報局)

本条約の定めるところにより日米間の郵便料金は統一され、同年4月1日からは日米間の信書は5銭、米国経由の万国郵便連合加盟諸国との間においては10銭と改められ、いわゆるネギ五銭の新切手の発行が開始された[2][59]

上海郵便局の開設

1888年(明治21年)当時の郵便線路図。長崎港から上海までの郵便線路が確認できる。

米国は前述の日米郵便交換条約改正交渉中の1876年(明治9年)2月2日に日本の上海郵便局設置を承認し[60]、同年4月1日の日米郵便交換条約改定追加条項(明治9年太政官布告第46号)施行後の同月11日にはサミュエル・ブライアンと在上海合衆国郵便局長ジョージ・シワルド(EN:George Seward)が上海における郵便業務の管掌範囲に関する約定に調印し、日米間の郵便取扱範囲の分限について協定した[58][61]。その内容は次の通りであった[61]

一千八百七十三年八月六日及ヒ一千八百七十五年四月二十六日日本国ト合衆国ノ間ニ取結ヒタル郵便交換条約ヲ改定スルニ付一千八百七十六年二月八日華盛頓府ニ於テ調印セシ右両国間ノ条約中ノ取扱方ノ箇条ヲ変更セン為メ日本ノ外国郵便課長ト在上海合衆国郵便代理役トノ間互ニ相決締セル約定ノ覚書

右一千八百七十六年二月八日ノ条約ハ其款条緊密ニ過キ之ヲ実施スル或ハ難事ヲ来スノ恐アルヲ以テ未タ確実ノ指令ヲ奉セスト雖モ余輩爰ニ懇議スルコト左ノ如シ
総テ日本ニ逓送スヘキ郵便物ハ独リ在上海日本郵便支局ニ限リ之ヲ公告シ又何等ノ折ヲ撰ハス総テ合衆国ニ逓送シ且ハ合衆国ヲ経テ該国外ノ諸国ニ逓送スヘキ郵便物ヲモ公告スヘシ但シ現今是等ノ郵便物ハ太平洋郵便船会社及ヒオクシデンタル、エント、オリインタル汽船会社ノ郵船ヲ以テ逓送ス又上海ニ宛テ日本又ハ合衆国ノ郵便船ニテ在上海日本郵便支局ヘ送致スル郵便物ハ総テ之ヲ受収配達スヘシ
在上海合衆国郵便支局ニ於テハ日本ノ郵便物ヲ公告シ又之ヲ受収セスト雖トモ合衆国ニ宛テ又合衆国ヲ経テ該国外ノ諸国ニ宛テタル郵便物ハ総テ日本ノ郵便支局ト同様ノ方法同様ノ時間ニ之ヲ公告スヘシ又在上海合衆国郵便支局ヘ宛テ上海ニ到着セシ郵便物ヲモ総テ之ヲ受収配達スヘシ
此約定ハ日本合衆国両政府ノ利益ノ為メ決締セルモノニシテ一千八百七十六年十二月三十一日ヲ以テ廃止スヘシ或ハ若シ両政府ノ内一方ニテ此約定ヲ允許セサルヿアレハ右日限内ト雖モ之ヲ廃止スヘシ但シ此約定ハ一千八百七十六年四月十五日ヨリ之ヲ実際ニ施行スヘシ此約定ハ本書二通ニ認メ一千八百七十六年上海ニ於テ調印スルモノナリ

          日本国外国郵便課長
           サミユエル、エム、ブライアン

          在上海合衆国郵便支局

           ヂヨーヂ、エス、シワルト — 「第廿四本寮傭米人ブライアント在上海合衆国郵便局長シワルド氏ト郵便物逓送取扱約定ノ事」、『駅逓局類聚摘要録』(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

本約定により日本は上海において日本宛郵便物を英国管掌の郵便物を除き独占し、米国または米国経由による諸国宛の郵便物は日米両国の郵便局において取扱うこととなった[58]

こうして日本は在上海領事館内に1876年(明治9年)4月15日に上海郵便局を開業し、郵便物の取扱を開始した[2][3][58]。領事品川忠道は名目上郵便局総括の任を負ったが、実務は同年3月10日付で同局勤務を命ぜられた米国人W.H.カーと駅逓寮から同局勤務を命ぜられた加藤木甕が担任した[62][58][63]。カーは1841年11月2日(天保12年9月19日)にミズーリ州セントルイスに生れ、1874年(明治7年)11月7日に来日し、神戸郵便局において外国課長を務めた人物であった[58][64]。また清国人の鍾芝庭と董鶴田の2名も雇い入れられた[58][63]。日本郵便局の開局は当地において好評を博し、領事品川忠道は外務卿寺島宗則へ次のように報告している[65]

本日十五日当館内ニ御国郵便局開設ノ処諸事都合好ク上下ノ衆評モ別紙新聞切抜ノ如クニシテ同十八日三菱社船広島丸ニ郵便物ヲ寄シ候節同日印紙売出候高洋銀三百三拾余元ニ下ラス之ニ依テ見レハ開局以来此地ヘ致送候御国各港ヨリノ郵便物ハ我カ開港地居住ノ洋人支那人共ニ従前米国印紙雑用スルト違ヒ御国ノ印紙而已ヲ相用候ニ付両地ノ入益ヲ算考候得者駅逓寮年入ノ金額ヲ進候一端ト被存候右御届仕候也

  明治九年四月廿八日
                 品川総領事(印)
 寺島外務卿殿

(附属書)

To-day we paid a visit to the Japanese Postal Agency and found it very interesting. It is constructed on American principles and is a very great improvement on the other Post-Offices in Shanghai. It has two hundred boxes opening on to the verandah into which the letters and papers are placed from the inside as they are assorted. Each of these boxes in numbered in English and Chinese, and it will not be therefore necessary to have all the letters assored before giving the mail out. A coolie can take away the letters fifteen minutes after the mail is landed and can call two hours afterwards for the papers. The key and brass front of the box is composed of one piece and is manufactured by the Yale lock Company. All the keys are different so that it will not be possible to open any other person`s box. — 「上海ニ開局セル日本郵便局ノ好評ナル景況報告ノ件」、(所収:外務省調査部編、『大日本外交文書 第九巻 自明治九年一月 至明治九年十二月』、1940年(昭和15年)9月、日本国際協会)

『駅逓局年報』は上海郵便局開設についてその感慨を次のように記している[66]

支那上海ニ於テ吾郵便局ヲ開設セシハ本年四月ナリ是レヨリ以来ハ同国他ノ数開港場ヘ送達スヘキ郵便物モ稍其便ヲ得ルニ至レリ又其数開港場ニ於テ我郵便理務官ヲ命スヘキノ方法モ遠カラスシテ整頓スヘシ愈之レヲ命スルノ日ハ幾層自由ノ往復ヲ開カン茲ニ前日ヲ回思スレハ本邦官民ノ信書ヲ以テ外国管掌ノ逓送ニ落チシメ暗然自ラ覚ラザリシモ今此明治ノ昭代ニ至リ已ニ日支ノ航路ニ於テハ堅全完備ノ郵便船ヲ泛ヘ毎週国旗ヲ飜シ此往復ノ郵便ヲ運送シ尚且支局ヲ彼ノ地ニ置キ合セテ彼レカ信書スラ吾カ管掌ニ落チシムルハ何ソ光栄ノ盛ナルヤ実ニ国家ノ幸祉ナリ — 『駅逓局年報 自明治五年 至明治十九年』、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第九巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

前島密は上海郵便局の開設につき、後年次のように回想している[67]

明治八年の十月、私は清国に渡航した。其用向は上海に我郵便局を設置して、併せて北京及び彼の各開港場にも我通信の道を開かうと思つたからである。それは此年三菱会社が太平洋郵便汽船会社の上海支線に属する船や、其他一切の物を買入れ、又政府からはそれに年額二十五万円の助成金を給与して、其名称を郵便汽船三菱会社と改め、横浜上海間に定期郵便線路を開かせた為に必要を生じたので、尤も此二十五万円は横浜上海間のみではなく、内地各港の間の航海に於ける助成の分も含んで居るのです。もし清国に郵便の設があれば、今郵便線路を開いたとて、我郵便局を彼地に設立する必要もなく、又設置する権利もないのであるが、清国政府は少しも通信の事には注意しない有様であるから、此必要を生じたのです。

清国は唯通信の事に無頓着なばかりでなく、通信上国権に関する事すら無感覚であるから、日本で郵便局を上海に設けたり、開港地に郵便取扱所を置いたりするにも、北京政府は勿論、地方庁にすら一応の照会もしないで、随意に開設する訳であつたが、私は清国為政家の無感覚を悲むと同時に、日本の昔を顧みて、あの様であつたことを歎き、さうして又今清国の国権を侵害するの止むを得ざるを悲み、且又我通信上の権利の、未だ全く恢復出来ないことを悲んだ。
(中略)
清国にも飛脚屋のやうな営業があつて、内国の通信を送達して居たけれども、其奇妙な事といふ者は、信書の賃銭を前払にすると、届かないのが多くて、先払賃にすれば、比較上届くといふのである。其訳は既に賃銭を受取つて仕舞へば、配達の面倒なのは皆棄てゝ仕舞ふが、先払の者は届けねば配達人が賃銭を取れないから配達するので、支那人の呑気な事に驚かれる。
其後清国総税務司ハート氏が関税郵便を開設したので、それに向つて日本と通信条約を結んではどうかと相談をして見ると、ハート氏の答に、是は只関税限りの者で、清国政府の設けた者でないから、其意に応じ難いとの事だ。聞く所では、ハート氏は度々清国政府に郵便の必要を説いて、設置を建議したけれども採用されなかつたさうだ。清国政府の呑気にも驚く。

そこで明治九年一月から上海郵便局が開かれたが、同地には米国の郵便局があつて、我郵便局に対して競争の企をして、種々の手段を試みた。併し私は元来此等の小利を目的として開局したのでないから、此競争には応じなかつたが、時勢は遂に日本に勝利を与へた。即ち明治十二年の頃、我経済界の変態に因つて、銀貨紙幣の大差を生じた為め、上海の商人たちが、長崎其外から日本の郵便切手を買入れて、之を其通信物に貼り付けた処から、終に多くは我郵便局を経て発信すると言ふ習慣を生じました。 — 前島密、(所収:逓信協会編、『郵便の父 前島密遺稿集 郵便創業談』、1936年(昭和11年)12月、逓信協会)

上海領事館新築予算問題

1924年(大正13年)頃の在上海日本総領事館。ただし写真の館舎は1879年(明治12年)築のものではなく、1911年(明治44年)竣工のもの。

当時の在上海日本領事館は米国人経営下の商館(ロスセル社)を間借りして設置されており、前島密は先の上海出張時に郵便局開業を急ぐため、領事品川忠道へその新築費用として一万円の用意を示唆していた[6]。このため、1876年(明治9年)6月19日に外務省太政官に対し次の通り駅逓寮からの一万円をあてにして上海領事館の新築を行いたい旨を通知した[68]

清国上海ノ儀ハ我長崎ト隔海相望国民モ追々移住開業ノ不少殊ニ東洋第一ノ馬頭欧米各国商人輻輳ノ地ニテ我商業モ近日盛大ニ可及既ニ三菱汽船ノ往復モ有之同所駐在ノ領事ハ駅逓裁判ノ両権ヲ付シ将来変易スヘカラサル物ニ候処是迄米国ロスセル社所持ノ家屋賃借仮ニ領事館相立居候得共其為一ヶ年三千三百円ノ家租ヲ払ヒ殊ニ旧屋修繕ノ用途ヲ加ヘ彼是四千円ノ高ニ及ヒ永久ノ費不少候然ルニ頼ヒ三菱会社所有地ノ内別紙絵図第三号明地ノ場所ハ河岸ニ臨ミ領事館取扱事務ニ取リ適宜ノ地所ニ付該地ヘ日本領事館トシテ一棟ノ家屋ヲ建築候方可然旨在留総領事品川忠道ヨリ及具状熟考候処右ノ如ク永久無尽ノ家租ヲ払ハンヨリ寧ロ新築ノ方一時御出方有之候共却テ御益筋ニ可有之ト被存候ニ付築造費等概畧取調候処凡ソ三万円余ハ支消可相成見込右築造ノ儀ハ領事館ノミニ無之駅逓事務取扱所モ該館中ヘ取設候間費用ノ儀駅逓寮ヘモ打合候処金壱万円ハ同僚ヨリ出費可致旨申聞尤領事館建築相成候上ハ前顕家租全ク相減候ニ付現場金弐万円余ハ一時繰越御渡相成候様致度依テハ右築造費用内訳等巨細ノ儀ハ追テ可相伺候得共先ツ差向キ築造ノ儀及現場金額御渡方ノ儀共早々御沙汰有之度此段上申候也 — 「第九在上海領事館ニ於テ駅逓事務取扱ニ付該館新築費ノ内本寮ヨリ出金ノ事」、『駅逓局類聚摘要録』(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

しかし、前島の口約束を本気にされるとは考えていなかった駅逓寮側は対応に苦慮し、同年8月2日に太政官から回答を急かされた後、同年9月2日に約束をした会計年度と異なり、且つ年度初めなので本年分から支出するのも難しいから、節約して本年分から五千円、来年分から五千円を支出したい旨を次の通り回答した[6][69]

清国上海領事館建築費支出ノ義ニ付外務省伺書相副御下問ノ趣承了仕候右領事館建設ニ付テハ該館中駅逓事務取扱所ヲモ取設候ニ付築造費三万余円ノ内金壱万円ハ当省駅逓寮ヨリ出費可致云々ノ義ハ先般外務省於テ右建築目論見ノ節駅逓頭ヨリ談話ノ趣モ有之候ニ付其頃同寮明治八年分予算定額中節減ヲ加候得ハ粗一万円程ハ建築費ヘ出勤可相成歟ノ旨相答置候趣ノ処爾来遷延最早今日ニ過リ候テ会計年度モ相異リ右金額支出ノ義難出来去リ迚本年分定額予算中ヲ以テ支出ノ義ハ何分年度初頃ノ義ニモ有之即今ノ処右等余裕ノ見込モ無之候得共尚自今一層ノ節略ヲ加ヘ同寮本年定額中ヨリ金五千円明治十年分定額中ヨリ金五千円合金壱万円ヲ両度ニ支出為致候様可取計存候依之此段上答仕候也 — 「第十清国上海領事館新築費支出方ノ事」、『駅逓局類聚摘要録』(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

それでも外務省としては一旦約束された一万円支出を要求し続けており、次の通り駅逓寮は1877年(明治10年)2月8日に太政官へ大阪郵便局建造費を上海領事館新築費に充当したい旨を伺い、同年6月12日にこれが許可され、明治9年度予算内として大蔵省から外務省へ一万円が廻された[6][70]

明治十年二月八日太政官ヘ伺

客歳八月中清国上海領事館建築費支出ノ儀ニ付外務省伺書相添御下問ノ趣モ有之候ニ付駅逓寮定額中ヨリ金壱万円ヲ両年度ニ割合支出為致候様可取計旨上答仕置候処十年度同局定額モ減省相成候就テハ前書建築費ノ義モ右定額中ヨリ支出ノ目的難相立去迚右金額支出不相成候テハ到底外務省於テモ差支可申ニ付大阪郵便局建築費トシテ伺済相成居候同局九年度額外費ノ内ヨリ差繰一時ニ金壱万円支出候様可取計ト存候依之此段相伺候也

指令 伺ノ趣聞届候条金額大蔵省ヨリ可受取事(明治十年六月十二日) — 「第十三在上海領事館新築費支出方ノ事」、『駅逓局類聚摘要録』(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

ただし新領事館建築の上は修繕等にかかる維持費はすべて外務省において負担することが1877年(明治10年)8月10日に決定され本問題は決着をみた[71]。領事館の建設は1878年(明治11年)9月に着手し、1879年(明治12年)9月に竣成している[72]

清国内における郵便受取所の開設とその廃止

本項については郵便受取所の項も参照のこと

1876年(明治9年)10月6日、清国芝罘鎮江、漢江、寧波牛荘福州九江及び天津に郵便受取所が開設された[73]。いずれの郵便受取所も他国の貿易商社等に委託されて日本宛の郵便物を引受け、そののち上海郵便局へ輸送する仕組を採っていたが[74]1881年(明治14年)9月28日に諸般の事由によって廃止されることが決定し[75]、翌1883年(明治16年)4月1日に廃止された[76]。各郵便受取所の廃止に伴い、「日本帝国郵便局及清国税関郵政局間郵便物交換規則」によって上海郵便局は清国のいわゆる海関郵政と郵便物交換を行うこととなった[77][78]。駅逓局は次のように公告し、清国が万国郵便連合非加盟国であるため、上海以遠の同国内に逓送する郵便物には追加の郵便料金を要する旨を示した[79]

◯公告

清国芝罘鎮江福州漢江牛荘寧波九江及ひ天津にある本邦郵便受取所の儀本月三十一日限り閉鎖候条爾後該地への郵便物は従来の通上海出張郵便局を経て差立るを得べしと雖も郵便税は上海迄其効を有し該地より届先へは清国内地の郵便に托し之を逓送するに付更に該国内地の郵便税を受取人へ課すべし(但英国郵便局出張所ある地への郵便物は単に聯合税額を以て香港を経て差立るを得べし)
右公告候事

 明治十六年三月

        駅逓局 — 中外郵便週報「駅逓局録事」、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料編 第十巻』、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館)

また、1883年(明治16年)5月22日には梓万16第72号によって、上海並びに英仏郵便官署のない清国内に宛てる郵便物は、郵便料金不足等の場合にその金額を徴収することが難しいので、必ず上海までの郵便料金前払いのものに限るように次のごとく通達した[80]。なお梓万16第72号の旨は同年5月駅逓局公告により一般にも示されている[81]

◯梓万十六第七十二号

在清国郵便受取所閉鎖候に付ては我出張局ある上海及ひ英仏郵便受取所ある場所を除くの外清国内地宛の郵便物先払或は不足税の分は其税額徴収方差支候条自今同所宛の郵便物は必らす上海まて郵便税前払のものに限るへく且つ書留手数も上海以外は無効のものと心得へし此旨相達候事

 明治十六年五月廿二日

               駅逓総官 野村 靖 — 中外郵便週報「駅逓局録事」、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料編 第十巻』、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館)

在日本英国郵便局の閉鎖と上海郵便局

在横浜英国郵便局使用の日付印

日本は1875年(明治8年)施行の日米郵便交換条約によって米国宛て及び米国経由の郵便については、その自主権を恢復していたが、いまだ国内に英仏両国の郵便局が残り、上海以遠の地に対する郵便は英仏郵便局の中継を受けていた[82]。このため日本の郵便切手は米国及び上海以遠においては通用せず、長崎郵便局においては同地駐在の英国領事館を通じて英領香港の郵便切手を買い求めていたが品切れ等の不便があり、上海郵便局へその購入を依頼している[82]

1876年(明治9年)9月27日、ドイツ駐在公使青木周蔵は万国郵便連合加盟をスイス政府に申請し、爾来その加盟について準備が進められていたが、翌1877年(明治10年)3月3日にこれが正式に承認され、同年6月19日に万国郵便連合条約(ベルン条約)を布告(明治10年太政官布告第45号)、同月20日に加盟した[83][2][84][85]。また、1878年(明治11年)5月2日開催のパリにおける第2回万国郵便会議(EN: Postal Union Congress)には日本政府代表として鮫島尚信及びサミュエル・ブライアンが参加し、同会議において同年6月1日に万国郵便連合条約改正条約に調印、翌1879年(明治12年)3月27日にこれを布告した(明治12年太政官布告第11号)[86][87][88][85]

このように日本の郵便制度は国際的にも確立するに至ったので、英仏両国の郵便局閉鎖にむけて交渉が進められ、1879年(明治12年)10月10日、日本及び英国政府は在日本英国郵便局閉鎖に関する約定(明治12年外務省達第21号)に調印、同年12月31日にこれを施行して、日本における英国郵便局は閉鎖されることとなった[89][87][90][85][91]

◯在日本英国郵便局閉鎖に関する約定

 明治十二年(千八百七十九年)十月十日東京ニ於テ調印本書ハ英文ナリ
下名の両名各其政府の命を奉し在日本英国郵便局を閉鎖し及該郵便事務を日本政府へ引渡すか為めに約定取結ふ条々左の如し
第一条 英国政府は其公信に関して独立主国の常に享有する一切の特許を保有すへし
第二条 在日本英国公使館或は該館届の諸公信は(其公信たる事外面に標記あるか若くは別に認め易きものあるに於ては其形状の包嚢又は函たるを論せす)右公信に齎来せる船舶到着の上英公使より予て其為めに命し置く所の官吏に直に交付すへし且又在日本英国領事館届の公信に於ても英国政府より之を稟請するときは何時たりとも右同様の約定を為すへし
此約定に戴する条々は英国政府にて其諸公信を日本へ或は日本より或は日本国内に逓送する為め交際上の慣例に據りて相当と認むる所の特別なる処分を為し得は該政府の権利を聊減殺するとなし且税関或は其他の日本官吏に於て右様の公信を引留め或は遅滞せしむ可らす
第三条 郵便事務に関する特許は英国にも同様付与せさるものは決て他外国に許与す可らす
第四条 日本政府は在日本英国郵便局閉鎖の日より従来同局にて取扱たる地方郵便為換方法と称するもの及ひ地方小包郵便事務を引継き取扱ふ事に付ては在香港英国駅逓局長と協議し取極ることを其海外往復郵便課長に委任すへし但右取極は在東京日本駅逓局長の准允を経へきものとす
第五条 公信の事に関し日本政府より在日本英国公使館並其領事館に許す一切の権利特典は英国政府に於ても其国に在る日本公使館及領事館に同様之を許すへし
第六条 此約定は千八百七十九年十二月三十一日より実行すへし依て其当日より横浜神戸及長崎にある英国郵便局は之を閉鎖し其郵便事務は右各港にある日本郵便官吏の管理に帰すへし
 右の證として下名の者茲に千八百七十九年十月十日即ち明治十二年十月十日東京(江戸)に於て手記調印する者也

      外務卿 井上馨 印
    在日本英国特命全権公使

      ハルリー、エス、パークス 印 — 明治12年外務省達第21号、(所収:『明治十二年 法令全書』、1890年(明治23年)9月、内閣官報局)

本約定の締結に伴い、それまで英国郵便局が中継していた上海から日本に宛てる郵便物も全部日本の上海郵便局が取扱うこととなった[92]。また、1880年(明治13年)2月5日には日本ト香港トノ諸郵便局ノ間ニ小包郵便実施スヘキ条約書(明治13年太政官布告第3号)が布告され、英領香港、在清英国郵便局及びシンガポールマラッカ等のいわゆる英領海峡植民地との間における郵便小包の交換を開始している[93][94]。日本からの香港宛て及び香港経由の郵便は、1881年(明治14年)2月から日本の上海郵便局から英国上海郵便局へ閉囊便で交付されることとなった[95]

局内人事の整理

お雇い外国人の解傭

上述の通り上海郵便局においてはその開設以来、米国人W.H.カー並びに清国人鍾芝庭及び董鶴田を雇傭し、また1877年(明治10年)1月からは清国人応保南を加えて雇傭していた[63][96]。清国人の3名は同局において主として雑役を担任していた[63]。1881年(明治14年)6月30日限りを以てW.H.カーは解傭され、残る清国人の3名についても同年9月30日限りを以て同じく解傭された[63][96]。ただし、水原明窓は明治15年度から上海郵便局の経費の内、雑給の金額がそれまでの500円から2300円程まで増額されていることに注意し、清国人の雇傭は「形式をかえて、続いていたと見るべき」であると指摘している[97]

領事の郵便局長兼任の解除

上海郵便局は開設以来、同地駐在の総領事が郵便局長を兼任していたが、1886年(明治19年)12月25日に定められた在外国郵便局規程(明治19年逓信省公達第129号)によって以降は逓信省官吏がその任に当たるものと改められた[98][99]。これにより上海駐箚領事は同所において郵便局を兼務する旨を定めた1876年(明治9年)12月28日付の太政官達(無号)の効力は消滅した[100]。また、1887年(明治20年)4月30日には新たに在外国郵便電信局規程(明治20年逓信省公達第97号)を制定し、ここにおいても在外郵便局における局長並びに局員は逓信省官吏が当たるべき旨を定めている[101]

郵便為替及び郵便貯金の取扱開始

郵便為替

1881年(明治14年)9月20日、駅逓局は次のように上海郵便局で郵便為替の取扱を開始したい旨の伺を太政官に立て、同年11月5日許可された[102]

現今本邦人民ノ清国上海ニ居留スル者大ニ増殖致シ候処未タ同地ニ郵便為替法ノ設ケ之レナキ為メ何分少許ノ金銭逓送方不便ヲ極メ候趣往々申立ノ者之レアリ就テハ上海郵便局ヘ郵便為替法取開キ同地在住ノ本邦人民ヨリ内地ヘ差送ルヘキ分ニ限リ正貨三拾円ニ超過セサル為替ヲ取扱ハセ其為替量ハ金拾円以下拾銭拾円以上弐拾円迄弐拾銭弐拾円以上三拾円三拾銭ノ割合ヲ以テ相収メ然シテ該為替金ハ内地郵便局ニ於テ時価ニ基キ通貨ヲ以テ払渡シ候事ニ取極メ此他ハ都テ現行郵便為替規則ニ照據シ実際取扱方ノ儀御允裁有之度此段相伺候也 — 「第十八在清国郵便局ニ於テ郵便為替開設ノ事」、『駅逓局類聚摘要録』(所収:郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館)

これにより1882年(明治15年)1月2日、上海郵便局において郵便為替の取扱が開始された[7]。ただし、洋銀との相場の相違等を勘案して内地における制度とは若干異なる取扱を行っていた[103]。梓替第224号上海局特別為替方法には次のようにある[7]

◯梓替第二百二十四号

                各郵便為替取扱役
来る十五年一月二日より清国上海我か郵便局に於て同地居留の皇国人より正貨三十円に超過せざる為替を日本内地へ差出すべき分に限り取扱候条該為替報知書は横浜若くは神戸若くは長崎郵便局に於て時の相場に随ひ紙幣にて払ふべき金高を左の雛形の通り記載し送付可致に付各局に於ては朱書の金高に随かひ紙幣を以て相払ひ渡すべく此旨相達候事
 但本文為替払渡手続帳簿記載方其他届書差出の義等都て内地郵便局為替取扱と同様心得へき事

  明治十四年十二月六日
               駅逓総官 野村 靖
 (雛形) 郵便為替報知書
     金参拾円也 内拾五円 金貨
           拾五円 銀貨
     譬は

  (朱書) 此紙幣金四拾八円也 — 中外郵便週報「駅逓局録事」、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料編 第十巻』、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館)

1886年(明治19年)4月1日より梓替第224号は廃止され、甲第50号により内地同様の通常為替及び小為替の受払を開始した[104]

◯甲第五拾号

清国上海郵便局ニ於テ本年四月一日ヨリ内地郵便局同様通常為替及小為替共其受払事務ヲ執行ス尤モ為替金ハ上海ニ於テハ本邦通貨若クハ洋銀ヲ以テシ内地ニ於テハ便宜有合ノ通貨ヲ以テ受払スヘシ
 但梓替第二百二十四号達上海局特別為替方法ハ本達施行ノ日ヨリ廃止ス
右相達候事

  明治十九年三月四日

              駅逓総官 野村 靖 — 『駅逓局報』第119号(1886年(明治19年)3月4日)、(所収:郵政省編、『郵政百年史資料編 第十一巻』、1968年(昭和43年)12月、吉川弘文館)

郵便貯金

一方、郵便貯金は1885年(明治18年)6月1日に銀貨による取扱が開始された[8]。発貯18第118号には次のようにある[8]

来六月一日ヨリ其局ヘ貯金預所開設候条別紙手続書ニ據リ銀貨ノ預リ払事務取扱フヘシ此旨相達候事

但本文取扱ニ要スル諸帳簿用紙共回附候事

上海郵便局銀貨預払手続
一 預リ金ハ一円銀貨ニ限ルモノトス
一 預リ金アルトキハ其真贋ヲ鑑定シ受入方ヲナスヘシ
一 預リ金ヲナシタルトキハ通帳金高ノ部ヘ銀貨何円ト記載スヘシ
 但預リ簿預リ届書トモ同様タルヘシ
一 預リ金ハ毎月三回(十日二十日月末日)ニ区切リ銀貨為替トナシ貯金課ヘ宛テ回送スヘシ
一 払戻金アルトキハ振替為替ニ取組ミ払戻報知書ヲ添ヘ回付スヘキニ依リ之ヲ受取リタルトキハ現貨ト交換シ払渡方ヲナスヘシ
一 前条ノ外ハ渾テ貯金事務順序ニ依リ取扱フヘシ
 前四項附箋 三井物産会社支店ニテ銀貨為替ニ取組

 前五項附箋 郵便為替資金ノ内ヲ以テ払渡シ為替課ト差継勘定相立候事 — 発貯18第118号「上海郵便局銀貨預払手続ヲ定ム」、(所収:内閣記録局編、『法規分類大全 第六十三 運輸門七』、1891年(明治24年)4月、内閣記録局)

あわせて同年7月1日からは下記の通り外国人のための貯金取扱を開始した[105]

東京駅逓貯金預所 江戸橋駅逓貯金預所 横浜郵便局

大阪郵便局 神戸郵便局 長崎郵便局 上海郵便局
右駅逓貯金預所ニ於テ来ル七月一日ヨリ特ニ外国人ノ為メ貯金ノ預リ方ヲナスヘシ
  規則概要
一 外国人ノ貯金取扱時間ハ局前ニ掲示スヘシ
一 外国人ノ貯金ヲ預クル者ニハ特ニ調製シタル通帳式紙ヲ与フヘシ
一 外国人ノ貯金ハ必ス壱円銀貨又ハ洋銀ニ限ルモノトス
一 貯金ノ預ケ高ハ一人一日ノ預金額五拾円迄トス
一 一度ニ五拾円以上ノ金額ヲ預ケントスル者ハ貯金預所ヨリ願書用紙ヲ受取リ之レニ金高等ヲ記載ノ上駅逓総官ノ認可ヲ請フヘシ
一 貯金ノ利子ハ駅逓総官ノ其時々定ムル所ノ割合ヲ以テ之ヲ付スヘシ
一 貯金ヨリ生シタル利子ハ毎年六月十二月ノ両度ニ区切リ元金ニ加フヘシ
一 貯金ノ払戻ヲナサントスル者ハ貯金預所ヨリ願書用紙ヲ受取リ金額其他ヲ記載シ記名ノ上通帳ヲ添ヘ貯金預所ヲ経テ差出スヘシ
一 貯金通帳ヲ失ヒタルトキハ速ニ駅逓局ニ届出再度通帳ヲ請求スヘシ
前各条ノ外詳細ノ事ハ貯金規則ニ就テ了知スヘシ
右広告ス
 明治十八年六月廿三日

             駅逓局 — 駅逓局広告、(所収:『官報』、1885年(明治18年)6月24日)

同年9月1日からは次の通り発貯18第374号により金貨の取扱が開始された[106]

其局兼摂郵便局(上海ヘハ兼摂郵便局ノ字ヲ除ク)貯金預所ニ於テ来ル九月一日ヨリ金貨ノ貯金預リ方相開候条銀貨預払手続ニ據リ取扱フヘシ
 但別紙広告文相廻候条其地新聞紙ノ一種ヘ一週間広告可致事 — 発貯18第374号「金貨貯金預リ方ヲ開ク」、(所収:内閣記録局編、『法規分類大全 第六十三 運輸門七』、1891年(明治24年)4月、内閣記録局)

郵便為替及び郵便貯金業務の変遷

現金輸送の様子(写真は1933年(昭和8年)撮影で上海電信局時代のもの)

1885年(明治18年)5月23日、日本は日本帝国駅逓局ト北米合衆国駅逓院トノ間ニ取結ヒタル郵便為替定約(通称:日米郵便為替条約)に調印し、同条約は同年9月16日に布告され、同年10月1日より実施されることとなった(明治18年太政官布告第30号)[107][108][109]。これにより上海郵便局においては日米郵便為替事務の取扱を1886年(明治19年)1月1日から実施した[110]

1887年(明治20年)2月9日、上海郵便局における内国郵便為替及び郵便貯金の受払金で金1円以上の取扱はすべて洋銀に限定され、内地においてこれを払戻す時のみ日本の貨幣が使用されることになった[111]。同年12月20日には内地においての払戻時に洋銀を用いる規程が削除され[112]、1885年(明治18年)6月1日以来運用されていた銀貨預払手続(発貯18第118号)が廃止された[113]。合わせて大阪為替貯金局出張所と共に郵便貯金原簿業務を分掌していた赤間関為替貯金局出張所[114]が、上海郵便局を含む各在外郵便局の貯金業務に係る申告書を除く各種書類の総括を行う旨が定められた[115]

1894年(明治27年)5月8日、内国及び外国郵便為替及び郵便貯金の受払はすべて日本貨幣によって行うと改められた[116]。ただし、洋銀を以て為替の振出及び貯金の預入を日本貨幣と同一価格を以て申し出る場合は、適宜これに応ずるものとされた[116]。洋銀については1897年(明治30年)10月1日に郵便為替及び郵便貯金の受払にこれを用いる場合は、日本貨幣額に換算して受授すべき旨が定められた[117]

『逓信省年報』によれば、一連の郵便貯金及び郵便為替における洋銀の取扱に係る変遷は、洋銀と日本貨幣の相場の変動と日本の貨幣制度の改正によるものであるとして次のように報告している[118]

九月十八日告示第二百六十四号ヲ以テ三十年十月一日ヨリ在清国上海本邦郵便局ニ於テ取扱フ郵便為替及ヒ郵便貯金ノ受払金ニ洋銀ヲ用ユルトキハ之ヲ本邦貨幣額ニ換算シテ授受スヘキ旨ヲ公示セリ在上海本邦郵便局ニ於テ取扱フ為替貯金ハ最初本邦貨幣ヲ以テ其授受ニ充ツヘキ規程ナリシカ同地ニ於ケル本邦貨幣ハ洋銀ニ対シ割引ヲ要スル不利アリシ為メ二十年中一円以上ノ額ハ渾テ洋銀ヲ以テ授受スルコトニ改正セシモ其後二十七年ニ至リ洋銀騰貴ヲ極メ本邦貨幣ト権衡ヲ失ヒ其差著シキニ至リ内地上海間ニ於テハ射利ヲ謀ルノ徒アリ故ニ本邦貨幣ヲ以テ本旨トシ改メシモ実際同地ニ於テハ一円以上ノ本邦貨幣流通ナキヲ以テ依然洋銀ヲ以テ本邦貨幣同一価額トシテ授受セシカ本邦貨幣制度改正ノ結果本邦貨幣騰貴シ洋銀下落シ其差又著シキニ因リ斯ク換算方ヲ公示セリ — 逓信大臣官房文書課編、『逓信省第十二年報』、1899年(明治32年)5月、逓信大臣官房

1899年(明治32年)1月1日、万国郵便連合の郵便為替事務約定並びにその施行細則が実施された[119][120]。これに伴い逓信省は外国郵便為替取扱規程(明治31年逓信省公達第650号)を定め、同規程第10条により上海郵便局を特定局に指定し、第11条によりフランス為替の受払、ドイツ為替、ベルギー為替、カナダ為替、英国及びその媒介為替、イタリア及びその媒介為替並びに香港及びその媒介為替の払渡を除く外国郵便為替の取扱を行うものとした[121]。その後、同年1月25日に英国及びその媒介による為替の振出業務[122]、同年2月6日にイタリア及びその媒介による為替の振出業務[123]、同年3月11日にフランス及びその媒介による為替の振出業務の取扱を開始した[124]1900年(明治33年)9月20日には上海郵便局は外国郵便局に対し直接万国郵便連合為替ならびに香港及びその媒介による為替の振出及び払渡の取扱をする局であることが定められ、清国内に設置した芝罘、沙市杭州蘇州及び漢口の各日本郵便局は上海郵便局を経由してその取扱を行うものと規定した[125]。同年7月1日にはフランス為替の振出の取扱を廃し[126]、1901年(明治34年)11月16日にはベルギー為替の払渡の取扱を開始している[127]

1911年(明治44年)1月1日、電信為替の取扱を開始した[128]。逓信省郵便貯金局は上海郵便局における電信為替の取扱開始は、南支において在留邦人が増加し、商取引上の密接な関係を有するにもかかわらず、急速な送金方法が彼我の間に確立されていなかったことに対応するためと次のように報告している[129]

清国ニ設置シタル帝国郵便局所中電信為替事務ヲ取扱フ局所ハ独リ在北清各局所ニ限レルモ近時清国ト帝国トノ交通益々頻繁トナリ殊ニ南清ニ於ケル本邦移住者亦漸ク加ハリ商取引上密接ノ関係ヲ有スルニ至リタルニ拘ハラス急需ニ応スヘキ電信為替事務ヲ取扱ハサル為メ彼此不便ヲ感スルコト尠カラス殊ニ多額ノ商取引ニ在リテハ銀行、電信為替ノ方法ニ依リ送金ヲ為セルモ其ノ地ニ在リテハ急速ナル送金方法ナク該地在住者ノ常ニ不便ヲ訴フル所ナリ依テ先ツ上海及附近数局ニ電信為替事務ヲ開キ為替通報ハ長崎局ト当該局間郵便ニ依リ接続スルコトトシ目下成案提出中ニ属セリ — 郵便貯金局編、『明治四十三年 郵便貯金局 事業功程概要報告』、1911年(明治44年)2月、郵便貯金局
横浜正金銀行上海支店

1912年(明治45年)3月16日、省令により貨幣相場変動等の事由があった場合には、郵便貯金の預入や郵便為替の振出に外国貨幣を用いる者に対し、金額の制限やその受入の拒絶等を行う旨を定めた[130]。元上海郵便局局長日下亥太郎は、貨幣相場によって利得することを目的とした郵便貯金や郵便為替の利用が横行していたことを次のように回顧している[131]

 公園橋を渡れば一円の日当となる

と云ふ諺が上海に残て居る。公園橋とは郵便局と正金銀行の間にある橋である。郵便局では金銀換算率に正金の前日の相場を用ゐて居た時、先日と今日の相場の開きを考査して彼我預金を転移して差金を利得する。則ち郵便局と正金の間を往復して利差をせしむるの意味である。或る時の如きは此関係で郵便局は貯金の洪水を満喫した事がある。

 弗相場は毎日九時半頃わかる。郵便局の為替貯金は夫より早く開始せねばならぬ。一日の内計算を打切り二つの相場を用ゆる事は不可能であり旁々前日の相場を不得已用ゐて居つたから如上の珍現象を呈したのである。欧州戦争中金銀相場の変動が激甚となり、正金銀行の損失を醸す事も愈〻滋く、大正八年頃局の取扱時間を延伸し、其日の相場を貰ひ此弊を除去し得た。 — 日下亥太郎、「支那に於ける帝国郵便の偉績」、『逓信協会雑誌』第230号(68から77頁)、1927年(昭和2年)10月、逓信協会

郵便業務の変遷

配達の開始

上海郵便局の窓口(1912年(明治45年・大正元年))

1892年(明治25年)8月12日、上海郵便局到着郵便物取扱手続(明治25年郵第4161号)を定めた[9]。その内容は次の通りであった[9]

◯郵第四一六一号 明治廿五年八月十二日

                  上海郵便局
其局到着郵便物取扱手続左ノ通リ相定ム
  到着郵便物取扱手続
第一条 在留本邦人又ハ清国人ニ宛テタル郵便物ニシテ配達請求方アルモノハ予メ其住所氏名ヲ申出テシメ之ヲ配達スヘシ
第二条 前条ノ郵便物ニシテ配達請求方ナキ郵便物ハ其局ニ留置キ受取人其局ニ受取方ヲ申出タルトキ書面又ハ口頭ヲ以テ受取人タルヿヲ證明セシメ之ヲ交付スヘシ
第三条 清国人以外ノ外国人ニ宛タル郵便物ハ工部書信局ニ配達スヘシ
但予メ留置方ヲ申出テタルモノニ宛テタル郵便物ハ第二条ノ例ニ準シテ受取人ニ交付スヘシ
第四条 書留郵便物ハ渾テ配達ヲ為サス其郵便物ハ郵便物ニ留置之ヲ留置キタル旨ヲ受取人ニ通知シ受取方申出セシムヘシ
受取人其受取方ヲ申出タルトキハ曩ニ通知シタル通知書ヲ出サシメ其證書々式ニ従ヒ記名調印セシメ之ト引替ニ郵便物ヲ交付スヘシ
第五条 私書函借受人ニ宛テタル郵便物ハ一般ノ規則ニ従ヒ其私書函ニ投入スヘシ
但臨時郵船ニ依リ到着シタル郵便物ハ此限ニアラス
第六条 配達スヘキ郵便物ニシテ定期郵船ニ依リ到着シタルモノハ到着後二時間ヲ経テ四時間以内ニ又臨時郵便ニ依リ到着シタルモノハ到着後直ニ配達スヘシ
但受取人遠隔ノ地ニ在ルモノハ可成速ニ配達シ又工部書信局ヘ配達スルモノハ同局ノ配達規則ニ據ルヘシ
第七条 日出前日没後ハ郵便物ノ配達ヲ為スニ及ハス
第八条 第一条ニ依リ配達スヘキ郵便物事故アリ配達シ能ハサルトキハ其局ニ留置キ第二条ノ手続ヲナスヘシ

(引用者註:上記引用文中、片仮名でトキと表記している箇所は原文では合略仮名のとき (仮名)を用いる) — 上海郵便局到着郵便物取扱手続(郵第4161号)、(所収:逓信省編、『明治廿九年八月現行 逓信法規類纂 郵便編』、1897年(明治30年)3月、逓信省)

これにより上海郵便局においては従前郵便物は窓口及び私書箱による交付のみを行っていたが、郵便集配人を配置し、配達を行うこととなった[10]

なお1898年(明治31年)9月1日には在清国本邦郵便局郵便物取扱順序(明治31年逓信省公達第395号)が施行され、天津及芝罘郵便局郵便取扱順序(明治26年郵第1046号)は廃止されたが、上掲の上海郵便局到着郵便物取扱手続(明治25年郵第4161号)は廃止されずそのまま運用された[132]

配達証明郵便の取扱開始

内地においては1892年(明治25年)5月16日より配達証明郵便規則(明治25年逓信省令第8号)を施行し、配達証明郵便の取扱を開始していたが、同令第8条によって外国郵便には適用されていなかった[133]。この配達証明郵便規則第8条は、1898年(明治31年)10月20日に改正され、「帝国郵便局ノ設置アル清韓各地」を例外として、各在外郵便局が配達証明郵便の取扱を開始した[134][135]

小包郵便の取扱開始

上海郵便局の窓口から室内を撮影した写真(1912年(明治45年・大正元年))
上海郵便局において小包郵便物を取扱う様子

1898年(明治31年)12月1日、上海郵便局は小包郵便の取扱を開始した[136]。これに伴い小包郵便法施行細則(明治25年逓信省令第13号)に清韓小包の章を設け、清韓両国における小包の配達及び別配達はその郵便局の配達地域に限ること、小包にかかる関税については輸出税は差出人、輸入税は受取人において負担すべき旨などを定めた[137]。合わせて清韓小包郵便取扱手続(明治31年逓信省公達第583号)を定め、清韓小包は内国小包郵便と見做す旨などを定めた[138]

1900年(明治33年)10月1日、清韓小包郵便に関する規程として別に清韓小包郵便規則(明治33年逓信省令第56号)を施行し[139]、合わせて清韓小包郵便取扱規程(明治33年逓信省公達第462号)を定め、清韓小包郵便取扱手続(明治31年逓信省公達第583号)を廃止した[140]。これにより以降在清国日本郵便局における小包郵便の取扱は、清韓小包郵便取扱規程第27条から第31条によって行うものとされた[140]。ただしこの時代における清韓小包というのは、清韓両国側の郵便官署において取扱うものではなく、両国に設置されていた日本郵便局が取扱うものであって、日清及び日韓間のみならず、清韓間における小包の逓送も日本郵便局がこれを管掌した[141]

1901年(明治34年)11月26日、上海郵便局は清国及び大韓帝国に設置された日本郵便局のうち、香港及びその媒介による小包郵便物、ドイツの小包郵便物、フランス及びその媒介による小包郵便物の交換局に指定された[142]1904年(明治37年)6月3日、外国小包郵便取扱規程(明治35年逓信省公達第675号)を改正し、同規程第3条にいう外国小包の交換局に上海郵便局を追加した[143]。同規定にいう外国小包の交換局とは直接外国へ小包を差立て、あるいは直接外国より小包を受取る局のことで、上海郵便局は門司郵便局と共に日本ト香港トノ諸郵便局ノ間ニ小包郵便実施スヘキ条約書(明治13年太政官布告第3号)による香港との間の小包を所掌するものとされた[144]

元上海郵便局局長日下亥太郎は、上海郵便局における小包郵便物につき次のように回想している[131]

蚤取粉が小包王

支那奥地にありて尤も不自由を感ずるのは、疑もなく日本雑貨である。小包郵便が在留人に歓迎せられ食料品迄此方法により輸送せらるゝ。殊に代金引換が小商人に利用され蚤取粉や売薬類を初め西陣で化工された支那絹織物が之でやつて来る。小商人は局を無料倉庫と心得、代引が局に滞積した。又或る時代には三越や白木の小包が山積して在留婦人の御用を務めたことがある。併し一面より見れば蚤取粉や売薬が支那内地に販路を拡張したことは、小包郵便の賜物と云ふても差支ないと信ずる。
尚一つ面倒なるは税関関係であつた。到着小包の増加に従ひ支那税関に於ては、従来踏襲し来りし簡単なる報告課税式にては満足せず、吏員を派出し実物検査を行ふことゝなつた。郵便局への派出官吏は皆欧米人である故之に対し羊羹や甘納豆の小包に至る迄、之が用法価格を説明せねばならず、滑稽でもあり又皮肉でもあつた。多くの小包の内には支那の禁制品である銃器、阿片等を密送するものがあつた。日本局の仕事は一時猜疑心を以て見られ、当務者は一層迷惑した事もあつた。
満洲より上海へ到着する価格標記の墨銀も取扱困難であつた。逓送途中包装破れ散逸の恐れあり掛員は泣かされた。

要之、此時代は支那に於ける邦人の発展時代にして、邦人の為に郵便局は必要不可欠機関として善用せられ、又日本及米国と交渉ある支那人欧米人の為に盛に利用された。 — 日下亥太郎、「支那に於ける帝国郵便の偉績」、『逓信協会雑誌』第230号所収、1927年(昭和2年)10月、逓信協会

各地宛郵便物の内国郵便物化

上掲の通り、1883年(明治16年)4月1日より在清国各地郵便受取所の廃止によって上海郵便局以遠の清国各地と日本との間に交換される郵便物は、在清国英国郵便局のある所を除いて万国郵便連合に定める郵便料金に加え追加料金を要することとなったが[79]、1899年(明治32年)1月1日、台湾を含む日本及び在大韓帝国日本郵便局及び電信局と在清国日本郵便局との間ならびに在清国日本郵便局相互間に発着する郵便物は万国郵便条約を適用せず、内国郵便物として取扱い、内国郵便料金を適用することとなった[145][146]。これにより以降日清韓両国の日本郵便局相互間における郵便物はすべて内国郵便料金によった[147]。ただし、引受、逓送、配達及び交付等の手続きは従前の例によるものとされた[148]。また、1900年(明治33年)10月1日より施行された郵便規則(明治33年逓信省令第42号)は、各在外郵便局においてもこれを準用するものと定められた[149]

在清国日本郵便局における郵便切手及び収入印紙の特殊取扱

清国並びに中華民国において発行された郵便葉書にはこのように支那の文字が印刷された。

1899年(明治32年)12月20日、在清国日本郵便局が売下す収入印紙には清国の文字を加刷し、翌1900年(明治33年)1月1日には郵便切手にも支那の文字を印刷し、いずれも日本国内においては使用不可とした[150][151]。当時、清国における在留日本人の日常的取引には洋銀を用いており、切手や印紙の購入のために一々これを邦貨に換算する煩を避けるため、邦貨との間に差を設けず、等価によってこれを売下していたが、通貨相場は邦貨が優位にあったため、在外局各所で購入したものを内地の郵便局において払戻して差額を利得する転売行為が横行していた[152]。このため、在外郵便局発行の郵便切手や収入印紙を内地に通用させないようにこのような措置がとられた[152]。なお、上海郵便局においては1900年(明治33年)5月1日より収入印紙の売下を開始した[153]

1908年(明治41年)3月1日、郵便切手に支那の文字を加刷するとした明治32年逓信省令第48号を廃止し、新たに明治41年逓信省令第8号によって関東都督府管内を除く在清国郵便局が売下す郵便切手には支那の文字を印刷する旨を定めた[154]。更に1910年(明治43年)1月1日には明治41年逓信省令第8号を廃止し、明治42年逓信省令第61号によって郵便切手のみならず、往復葉書の返信部を除く郵便葉書にも支那の文字を加刷し、日本内地において通用し得ないように定めた[155]

軍事郵便物の取扱開始

海外派遣ノ軍隊軍艦軍衛其他軍人軍属ニ関スル郵便物ノ件(明治27年勅令第67号)によって定められた軍事郵便取扱細則(明治27年逓信省公達第241号)第5条においては、野戦郵便局が設置されていない場所において軍事郵便物の取扱を必要とする場合には、普通の郵便局を指定してその取扱を行うことができると規定されていた[156]。これにより上海郵便局は1900年(明治33年)6月30日に軍事郵便物の取扱局に指定された[157]。また、1912年(明治45年)5月3日には南支に派遣される海軍艦隊の参謀長等は、上海郵便局長より軍事郵便証票を受取るべき旨が定められた[158]

価格表記郵便物、代金引換郵便物及び現金取立郵便物の取扱開始

1902年(明治35年)6月20日、在清国及び大韓帝国各在外郵便局所において特殊取扱郵便物のうち、価格表記通常郵便物、代金引換通常郵便物及び現金取立郵便物の取扱を開始した[159]。基本的な取扱は郵便取扱規程(明治33年逓信省公達第432号)の規程を適用したが、本邦ト在外局相互間ニ発着セル価格表記代金引換及現金取立郵便物取扱方ノ件(明治35年逓信省公達第308号)により、価格表記郵便物は配達を行う局であるか否かにかかわらず、あらかじめ配達証を受取人に送付し、その出頭を待って配達証との引換によりこれを交付するものと定められた[160]。また、価格表記通常郵便物、代金引換通常郵便物及び現金取立郵便物の逓送は臨時船に託することを禁じられていた[160]

価格表記信書及び箱物の取扱開始

1902年(明治35年)12月1日、日本は万国郵便連合の価格表記信書及箱物交換約定に加盟し[161]、合わせて外国郵便規則(明治33年逓信省令第55号)を改正し、価格表記信書及箱物交換約定施行細則(明治35年逓信省告示第541号)を定めた[162]。ただし、外国郵便規則第1条により在清国及び大韓帝国日本郵便局においては、その取扱を当分行わない旨を告示していた[163]。その後、1905年(明治38年)9月1日よりその取扱を開始することとなった[164]

日清戦争と上海郵便局

1894年(明治27年)8月1日、清国ニ対スル宣戦ノ詔勅が渙発され[165]、日清両国は戦争状態に入り、上海郵便局は同年8月16日に一時閉鎖された[11][99]。上海郵便局に勤務していた局員も一時本国へ引揚げ、同年8月25日に長崎港へ到着している[166]。なお、上海郵便局閉鎖にあたって郵便貯金や同局振出の為替に関する照会は、長崎郵便電信局が取扱うものとされた[167][168]。他の在清国郵便局も同じく閉鎖されたが、日清両国間における郵便交換は停止されたわけではなく、明治27年逓信省告示第193号に北京や芝罘等の清国各地に宛てる郵便料金を改正しているように、両国間における郵便交換は行われていた[169][170]。上海においては日本郵便局の引揚げにより、在留邦人に宛てた郵便物は同地在留の英米仏独等の各国郵便局が窓口においてこれを交付していたが、配達が行われず、また出頭人が宛名の人物であるか否かを判別することが難しかったので、協議の上、日本郵船会社支店において各国郵便局より郵便物を受け、各自に配布する形を採るようになった[99]

やがて日清戦争が終結し、同地における在留邦人が増加するにつれ、郵船会社においてこれを取扱うことが難しくなり、郵便料金も外国郵便局を経由するために高額になっていたので、上海総領事伯爵珍田捨巳は上海郵便局の再開を政府に稟請した[99]。政府としても再開にむけて準備を進めていたところであり、1895年(明治28年)7月20日にその再開を予告[171]、同年8月17日にこれを実現した[12]

官制の改革

等級制と上海郵便局

通信官署標札標燈及掲示規程(明治43年逓信省公達第194号)による在外郵便局の標札

清国においては1892年(明治25年)10月1日に天津及び芝罘に日本郵便局が開設され[172][173]朝鮮国においても1876年(明治9年)11月10日の釜山郵便局をはじめとして各所に日本郵便局が開設されており[174]、両国における日本の郵政官署が増加するに及んで、内地における郵政官署と性質の異なるこれら在外郵便官署には監督上の不便を生じていた[175]。また、1889年(明治22年)7月16日に公布された郵便及電信局官制(明治22年勅令第96号)第6条においては二等郵便電信局及び郵便局長は判任とするとの規程があり[176]、在外郵便官署の長は該地駐箚の領事が兼任する場合が多かったにもかかわらず、1890年(明治23年)7月8日に上海郵便局を含む各在外郵便局を二等郵便局に列した[177]ためにこれを判任する必要に迫られるなど、在外郵便官署にのみ適用すべき特別の官制を制定する必要が主張されるようになった[178][175]。なお上海郵便局を含む各在外郵便官署の等級は、1892年(明治25年)1月20日に一等に列せられ、また1893年(明治26年)11月10日に再び二等に改められるといった数次の変遷を経た[179][180]

そこで1896年(明治29年)10月3日に在外郵便電信局、郵便局官制(明治29年勅令第320号)が公布され、日本国外における郵便官署は本勅令によって運用されることとなった[175][181]。これに伴い上海郵便局を含む各在外郵便官署は再び二等から無等の郵便電信局及び郵便局へ改められた[175]。この在外郵便電信局、郵便局官制(明治29年勅令第320号)は、1897年(明治30年)8月18日に在外郵便電信局、郵便局官制(明治30年勅令第270号)に全部改正され、郵便電信書記及び郵便電信書記補の官職名を通信書記及び通信書記補と改めた[182][183]

1903年(明治36年)4月1日、通信官署官制(明治36年勅令第40号)の施行に伴い、郵便官署の現業機関の組織名称等の統一が図られ、在外郵便官署に係る官制もこれに包含されることとなった[175][184]。これに伴い在外郵便電信局、郵便局官制による在外郵便局は、通信官署官制による在外郵便局となった[185]。在外郵便局の長は一等郵便局長でも二等郵便長でもない在外郵便局長と定められ、以降しばらく在外郵便局に等級を付することはなくなった[184][175]

漢口郵便局
天津郵便局

1910年(明治43年)4月1日に通信官署官制(明治36年勅令第40号)は廃止され[186]、代って通信官署官制(明治43年勅令第91号)が施行された[187]。これと同時に上海郵便局は清国内の天津郵便局、北京郵便局、牛荘郵便局及び漢口郵便局と共に再び一等郵便局に列せられた[188]。なお明治43年逓信省告示第442号により一等郵便局とならなかった在外郵便局については、二等郵便局に列せられることとなった[189]

郵便局経費渡切制度と上海郵便局

1903年(明治36年)3月20日、郵便局経費渡切規則(明治36年勅令第44号)を定め、郵便局における渡切費の制度が創設された[190][191]。本勅令は明治36年度予算から施行するものとされたが、翌1904年(明治37年)4月6日に郵便局経費渡切規則施行細則(明治37年逓信省令第30号)が公布され[192]、また明治37年逓信省告示第254号により郵便局経費渡切規則及び郵便局経費渡切規則施行細則に基づき渡切費を交付する郵便局とその種類等が示された[193][194]。上海郵便局は各在清国日本郵便局と共に明治37年逓信省告示第254号別表第1号にその局名が掲出され、明治37年度より郵便局経費渡切規則施行細則第1条各号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購入費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、賄費及び諸雑費の交附を行うものと定められた[193]

1905年(明治38年)3月22日、新たに通信官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)が公布され、明治38年度予算からこれを施行することとなった[195]。逓信省は同年4月4日、通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を定め[196]、また明治38年逓信省告示第174号により通信官署経費渡切規則及び通信官署経費渡切規則施行細則に基づき渡切費を交付する郵便局とその種類等を示した[197]。上海郵便局は各在清国日本郵便局と共に明治38年逓信省告示第174号別表第1号にその局名が掲出され、通信官署経費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第7号及び第11号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、薪炭費、点燈費、通信運搬費、傭人費、船舶車輛費、賄費及び諸雑費の交附を行うものと定められた[197]

1907年(明治40年)4月1日、通信官署経費渡切規則施行細則(明治38年逓信省令第30号)を全部改正し、通信官署経費渡切規則施行細則(明治40年逓信省令第14号)を公布したが、傭人費を傭人料と改めたほかは上海郵便局に交附する経費の種別に変更はなかった[198][199]1913年(大正2年)6月13日に通信官署経費渡切規則は郵便、電信及電話官署経費渡切規則、通信官署経費渡切規則施行細則は郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則と改称されたが[200][201]、ここにおいても上海郵便局は各在支日本郵便局と共に明治40年逓信省告示第223号別表第1号に属した[202]

しかし、1916年(大正5年)2月1日施行の改正により、上海郵便局は明治40年逓信省告示第223号において別表第1号に属する各在支日本郵便局とは異なる別表第2号に属することとなった[203]。これにより上海郵便局は郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第3号、第6号、第7号及び第12号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、通信運搬費、傭人料、賄費及び諸雑費の交附を受ける局となった[202][203]。以降、上海郵便局は廃止の日までこの区分を保った[204][205]

日清郵便仮約定と日清郵便約定

日清郵便仮約定

テオフィル・ピリー肖像

日清戦争と北清事変を経て清国における日本郵便官署は増設され、1901年(明治34年)には10局に達したが、いまだ清国との間に郵便物交換に係る公的な条約は締結されていなかった[13]。一方、当時の清国における郵政機関を管掌していたのが、仏国人たるテオフィル・ピリー(FR:A. Théophile Piry)であった関係上、フランスは各国に先駆けて1900年(明治33年)2月3日に清国と郵便交換協定(Arrangement setting forth the relations established between the Postal Administration of France and the Postal Administration of China)を締結していた[13]。そこで日本もこれに倣って清国と郵便に関する協定を締結するために折衝を行い、1903年(明治36年)5月18日に北京において郵便仮約定(Mail Service Provisional Arrangement)及び小包郵便仮約定(Parcel Post Provisional Arrangement)を両国間に締結した(正文は英文)[13]。その内容は次の通りであった[206]

郵便仮約定(訳文)

第一条
一 清帝国郵便局ハ在清国日本帝国郵便局相互間ノ総テノ閉嚢郵便局ヲ聯合ノ料金ヲ以テ逓送スヘシ又日本帝国郵便局ハ清帝国郵便局ノ閉嚢郵便物ヲ同様ノ料金ヲ以テ逓送スヘシ
二 前項ニ規程スル郵便物ノ逓送料ハ千九百〇三年十一月ヲ初メトシ毎年五月及十一月交互ニ最初ノ二十八日間ニ於テ調査スヘキ統計ニ基キ毎年日清両国郵便庁ノ間ニ精算スルモノトス
三 清国ノ郵便ニ従事スル汽船ニ依リ逓送スヘキ日本帝国郵便局ノ閉嚢郵便物ハ清帝国郵便局ヲ経テ搭載スヘシ又日本ノ郵便ニ従事スル汽船ニ依リ逓送スヘキ清帝国郵便局ノ閉嚢郵便物ハ日本帝国郵便局ヲ経テ搭載スヘシ但シ其ノ方法ハ各港ニ於テ協定スルモノトス
四 日本ノ郵便ニ従事スルト否トニ拘ラス日本ノ汽船ニシテ日本帝国郵便局ノ媒介ヲ経ス直接ニ清国ノ郵便物ヲ搭載スル場合ニ於テハ同様ノ業務ヲ為ス他国籍ノ汽船ト同様ノ特権、便宜及免除ノ特典ヲ享有スヘシ
第二条
一 清帝国郵便局ハ清国以外ノ地ニ於テ差出シ日本郵便切手ヲ以テ附録第一号表ニ掲記セル日本ノ郵便料ヲ前納セル郵便物ヲ日本帝国郵便局ヨリ閉嚢ニテ交附セラルルトキハ無料ニテ現ニ清帝国郵便局ノ設置アル若ハ今後設置セラルヘキ清国各地迄逓送配達スヘシ
二 日本帝国郵便局ハ清国ノ郵便切手ヲ以テ承認セラレタル郵便料ヲ前納セル郵便物ヲ清帝国郵便局ヨリ閉嚢ニテ交附セラレタルトキハ逓送及配達ヲ取扱フヘシ但シ該郵便物ハ日本若ハ在韓国日本帝国郵便局所所在地宛ノモノニ限リ無料トシ聯合諸国宛郵便物ニ付テハ第一条第一項及第二項ノ規程ニ従ヒ逓送料ヲ徴収スルモノトス
三 該郵便物カ清帝国郵便局ノ開設ナキ清国内地ニ宛テタルモノニシテ民局経由逓送ヲ要スル場合ニ於テハ従前ノ通リ追加料ヲ名宛人ヨリ徴収スルモノトス又信書及郵便端書ヲ除キ容積若ハ重量過大ノ郵便物(新聞紙、書籍、小包等)ニシテ鉄道若ハ汽船ノ聯絡セサル内地ニ宛テタルモノニ付テハ内国郵便料ヲ徴収スルモノトス
四 日本若ハ在韓国日本帝国郵便局所所在地宛郵便物ニ対スル郵便料ハ附録第一号表ニ照シ日本帝国郵便局ニ於テ徴収スル料金ヨリ低下ナルヲ得ス其ノ他ノ郵便聯合諸国宛郵便物ニ対スル郵便料ハ附録第二号表ニ據ル
第三条
前掲各条ニ規程セルモノノ外日清両国間郵便上ノ関係ニ付テハ華盛頓締結万国郵便諸条約ノ規程ヲ適用スルモノトス
第四条
本約定ハ六箇月前ノ通知ニ依リテ解除スルコトヲ得且本約定ハ本日後二箇月ヨリ施行セラルルモノトス

千九百〇三年五月十八日北京ニ於テ本約定書二通ヲ作成シ各之ニ署名ス

 日本郵政庁ニ代リ
  在北京日本公使館一等書記官 松井慶四郎

 清国郵政庁ニ代リ
  郵政書記官長 テイ、ピリー

右承認ス

 在北京
 日本皇帝陛下ノ特命全権公使 内田康哉

 清国総税務司兼郵政総監 ロバート、ハート

(引用者註:附録第一号表及び第二号表は引用を省略する) — 郵便仮約定(訳文)、(所収:外務省条約局編、『日支間並支那ニ関スル日本及他国間ノ条約』、1923年(大正12年)3月、外務省条約局)

本仮約定はその内容を概ね万国郵便条約の趣旨に沿うものの、第二条第一項の定めるところにより清国の郵便局は附録第一号表の清国各地宛郵便物ニ対スル日本郵便料金表の郵便料金を前納した郵便物を逓送する義務を負っており、この料金表に定められている郵便料金は、日本内地における内国郵便料金と全く同一のものであった[207]。すなわち従前においては、在清国日本郵便局との間においてのみ適用されていた内国郵便料金が、清国側の郵便局のみが設置されている清国内地においても適用されることとなった[207]。これに伴い、逓信省は本仮約定第4条の定める実施日である1903年(明治36年)7月18日に諸外国宛通常郵便物料金表の改正を施行した[208][13]

また清国としては同国内より日本郵便局を撤廃したい意嚮であったが、本仮約定は清国における日本郵便局の存在を前提とするものであり、これを実質的に承認するものであった[14]。これまで清国側から何らの承認を得られていなかった同国内における日本郵便局は、本仮約定の締結によって初めて承認され、且つ両国間における正式な郵便交換が開始されるに至った[209]

日清郵便約定

日清郵便仮約定の締結後、清国は1906年(明治39年)9月に英国人ロバート・ハートやテオフィル・ピリー等の外国人を首班として郵伝部を設置し、その下に船政、路政、電政、郵政及び庶務の五司を置き、郵政司は郵便をつかさどる機関となった[13][210]。先の郵便仮約定は全4条の簡易な取決めであり、種々の問題を孕んでいたので日清両国は再び正式な郵便協定を締結するため協議し、1910年(明治43年)2月9日、正文を英文として「日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ニ設定セル関係ヲ規定スル約定」(Agreement setting forth the relations established between The Imperial Postal Administration of Japan and The Imperial Postal Administration of China)及び「日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ノ小包郵便物ノ交換ヲ規定スル約定」(Agreement regulating the exchange of postal parcels between The Imperial Postal Administration of Japan and The Imperial Postal Administration of China)を締結し、北京において調印式を行った[13][210]

本約定は1910年(明治43年)4月1日より実施され、逓信省は同日より清韓郵便規則(明治43年逓信省令第11号)を施行した[211]。本令によって日本、大韓帝国、在清国日本郵便官署区内及び関東都督府管内の相互間並びに在清国日本郵便官署区内及びその相互間に発着する郵便物は、清韓郵便物と称せられ、特段の定めを設けるものを除いて内国郵便物に関する規程を準用するものと定められた[211]。これに伴い、清韓小包郵便規則(明治33年逓信省令第56号)と在外郵便局において郵便規則を準用する旨を定めていた明治33年逓信省令第43号は廃止され、以降は本例によって郵便物の取扱を行うこととなった[211]

清韓郵便規則は韓国併合に伴い、1911年(明治44年)1月1日に日清郵便規則と改称され、清韓郵便物は日清郵便物と改称された[212][213]。1912年(大正元年)8月1日には第三種郵便物の料金を改正し、第一種から第三種までの郵便料金がすべて内国料金と同一になった[214][213]。また、辛亥革命による清国の滅亡と中華民国の発足に伴い、1913年(大正2年)12月27日に日清郵便規則は日支郵便規則と改称され、日清郵便物も日支郵便物に改められた[215][213]

電信取扱の開始

大北電信会社との交渉

上海の大北電信会社

1870年9月20日(明治3年8月25日)、日本とデンマーク政府の協定により、大北支那及び日本拡張電信会社(The Great Northern Extention China and Japan Telegraph Company)に対し、長崎及び横浜に海底電信線を陸揚することなどが免許され、同社はこれにより長崎 - 上海間及び長崎 - 浦塩間の海底線を接続して海外通信の取扱を開始し、また1873年(明治6年)4月26日の東京 - 長崎間の政府陸上線の開通により、各地からの電報は長崎の同社電信局においてその授受を取扱うこととなった[216]。その後、1882年(明治15年)12月28日には同社に対し、長崎 - 上海間及び長崎 - 浦塩間の海底電信線を2条に増設する権利が認められたが、同時に同社へは向こう30年間にわたる海外通信独占権が付与されていた[216][217]。これにより、日本は大陸方面に海底電信線を自ら敷設することができずにいた[217][216]

日本政府はこの大北電信会社による独占権が、1912年(大正元年)12月27日に消滅することを機として、自ら長崎 - 上海間に海底電信線を敷設する計画を立て、また清国政府よりその諒承を得て、1912年(明治45年)7月に同社に対しこれを示した[216][217][218]。交渉の結果、日本と大北電信会社は1913年(大正2年)8月23日に日支間電信問題ニ関スル日本、大北会社間約定(Agreement with The Great Northern Telegraph Company regarding the telegraphic questions between Japan and China)を締結した(正文は英文)[16]。本約定により日華間の通信から生ずる日本と大北電信会社の収入を1930年(大正19年・昭和5年)12月31日まで合併計算し、その分配率を過去3年間の実績によって同社の利益を保障すること、日本が敷設する海底電信線は上海との間において和文電報及び日支欧文電報のみを取扱うこと、日本政府は大北電信会社の海底電信線陸揚権に期限を設定しないことを条件として、同社は日本政府の海底電信線敷設計画を承認したのである[216][217][218]

海底電線陸揚権約定の締結

上述の通り大北電信会社から同意を取りつけた日本政府は、中華民国政府と交渉を進め、1913年(大正2年)10月4日に海底電線陸揚権約定(Landing Rights Agreement)を両国間に締結した(正文は英文)[216][217][17][218]。その内容は次の通りであった[17]

支那政府ハ日本帝国政府カ長崎ヨリノ海底電信線一条ヲ上海附近ノ地ニ陸揚スルコト(該海底線ノ敷設ニ付テハ大北電信会社ニ於テ同意ス)及該海底線ヲ陸揚シタル地点ト上海外国居留地ニ於ケル日本運用局トノ間ニ必要ナル接続陸上線ヲ建設、運用及維持スルコトニ同意シタルヲ以テ茲ニ支那政府及日本帝国政府間ニ左ノ通協定ス

第一条 前期接続線ハ墨銀五十弗ト定メタル名義上ノ代価ニテ直ニ之ヲ支那政府ニ譲渡スヘシ
第二条 該海底線及接続陸上線ハ日本電信系ト上海トノ間ニ発着スル左ノ通信即日本文字ノ電報及日支両国官報ニ対シテノミ之ヲ使用スルモノトス又右発着信ニ限リ在上海日本局ニ於テ之ヲ取扱フモノトス
第三条 支那政府ノ同意ナク日本帝国政府ハ上海附近ニ陸揚シタル海底線以外ニ支那領土ニ其ノ海底電信系ヲ拡張セサルヘク又如何ナル他ノ方法ニ依ルモ支那ノ電信利益ト競争ヲ為ササルヘシ但シ支那政府カ会社ニ対シ一層有利ナル条件ヲ許ストキハ同様ノ条件ヲ日本帝国政府ニモ許スヘキモノト知ルヘシ
第四条 日本帝国政府ハ該海底線上上海ト日本電信系トノ間ニ発着スル支那官報ヲ通常電報料ノ半額ヲ以テ伝送スヘシ
第五条 日本帝国政府ハ上海ヘノ前期接続陸上線ヲ通過スル総テノ通信ニ対シ上海ト日本電信系トノ間ニ発着スル支那官報ヲ除クノ外一語ニ付五仙ノ首尾料ヲ支那政府ニ支払フヘシ右支那官報ニ対シテハ日本帝国政府ハ一語ニ付二仙半ノ首尾料ヲ支那政府ニ対シ支払フヘシ但シ此等ノ首尾料ハ支那沿岸ニ陸揚シタル海底線ヲ有スル諸海底電信会社カ同様ノ通信ニ対シ支那政府ニ支払フ最低料金ヲ超過セサルモノトス
第六条 支那政府電信吏員ハ本約定ノ適用上必要ナル限リ件名表及料金ノ計算ヲ対照スル為在上海日本電信局ニ自由ニ出入スルコトヲ得ヘシ

本約定ハ千九百三十年十二月三十一日迄其ノ効力ヲ有ス
右証據トシテ下ノ署名者ハ夫々其ノ政府ヨリ相当ノ委任ヲ受ケ本約定ニ署名ス
千九百十三年十月四日東京ニ於テ英文二通ヲ作成ス

 支那政府ヲ代表シ
  薩福楙
 日本帝国政府ヲ代表シ
  田中次郎

  — 海底電線陸揚権協定(訳文)、(所収:外務省条約局編、『日支間並支那ニ関スル日本及他国間ノ条約、1923年(大正12年)3月、外務省条約局)

本約定の締結により、陸上において上海郵便局と海底電線線との間の電信線を墨銀50ドルの代価で名目上中華民国政府へ譲渡し、また電報の送受にあたっては一語につき首尾料を支払うことなどを条件として、中華民国政府は日本の海底電信線敷設を承認した[216][217][17][218]

海底電信線工事の概況

日露戦争時の沖縄丸

1914年(大正3年)7月29日、逓信省電纜敷設船沖縄丸に長崎 - 上海間海底電信線敷設工事が発令され、同船は同年8月3日に長崎へ入港し、その準備を行っていた[219]。ところが同年8月9日、海軍省の要請により現用の佐世保 - 大連線を海軍望樓を置いていた朝鮮半島沖の牛耳島、蔚島及び白翎島にこれを引込む工事を急遽行うこととなり、同年8月10日からこれに着手した[219]。これは欧州において第一次世界大戦が勃発して情勢が緊迫する中、日英同盟を締結する日本が山東半島のドイツ勢力圏たる膠州湾租借地を警戒し、各望樓より得た情報を相互に伝達する機能を備えさせるためのものであった[219]。この引込工事は同年9月4日に竣成し、沖縄丸は再び長崎港へ帰投して長崎 - 上海間の海底電信線敷設工事の準備を行った[219]

同年9月5日、沖縄丸は長崎 - 上海間の海底電信線敷設工事を開始した[220]。この工事はまず揚子江河口の崇明島東方の沙尾山に向けて4区画に分割して進められ、同年10月11日に完成した[220]。同年11月15日に沙尾山からは日独両軍が戦闘中の青島へ小笠原丸により海底電信線が敷設されており、これが青島の陥落のために廃止されたので(青島の戦い)、沙尾山から上海へはその電纜を活用して工事を行うこととなった[15]。上海への陸揚工事は同年11月12日より開始され、宝山からは呉淞 - 上海間の鉄道(淞滬鉄道)に沿って地下線を敷設し、同年12月29日に最終接続を完了した[15]。なお、宝山陸揚地点から上海までの陸上線については、先の日支間における海底電線陸揚権約定に基づき、墨銀50ドルの代価により中華民国政府の所有ということになっている[15]

『国際電気通信発達史 日本編』は「本線の開通は、大北会社に対し合併計算などの多大な犠牲を払わされはしたが、これによって得られた効果は大きかった。すなわち、大北会社線不通時の代替線の役も果たし、日中間総通信量の約半数を疎通した。また両国の外交・通商に関する重要な通信が第三者の手を経ることなく直接日本局の間で交換できるようになったので、それまで屡々あったといわれる秘密漏れの懸念も解消した」と評価している[221]

この間、非公式ながら1914年(大正3年)9月11日より上海郵便局は和文電報の取扱を開始している[221]。前述の日支間電信問題ニ関スル日本、大北会社間約定に附随する大北会社海底線借受ニ関スル覚書において大北電信会社所有の長崎上海間海底電信線のうち一条を夜間においては政府の無料使用に供するという条文があり、これを用いて通信が行われていた[222][221]

電信取扱の開始と上海郵便局の新築移転

このように上海郵便局には長崎からの電信線が接続されたので、1915年(大正4年)1月1日から正式に電信事務の取扱が開始された[18][218]。取扱う電報の種別は上述の日支間電信問題ニ関スル日本、大北会社間約定及び海底電線陸揚権約定に基づき日本電信系に発着する和文電報並びに日本及び中華民国政府の欧文官報と定められ、共同租界及びフランス租界内と上海城内を直配達地域とした[18]。また、料金受信人払外国新聞電報の取扱も開始された[223]。外国電報規則(明治42年逓信省令第26号)及び外国無線電報規則(明治41年逓信省令第29号)も上海郵便局における事項を追加して改正され、後者においては日本海岸局及び日本船舶局の媒介により日本船舶局との間に発着する外国無線電報も和文によって記載し得るよう定められた[224][225][226]

『日本無線史 第5巻』によれば、「大陸経済の中枢たる上海、日本居留民が多数いる上海に和文電報が通ずることになったことは非常な喜びであった。上海と日本との関係はこれによって益々接近し、日華の政治的、経済的関係の発展に多大の貢献をした」という[227]。また、元上海郵便局長日下亥太郎は、次のように同局における電信事務取扱開始を回想している[228]

郵便局の仕事も倍増した。大正四年長崎上海間の海底線工事完成し日支間和文電報の取扱が開始せられ、外国に在りて我郵便電信の業務を行ふことゝなつた。郵便に於て英、仏、米、露、支那の各外国郵便局と交渉を持つ外、電信関係に於ては大北、大東、商太の各外国電信会社と接触を保たねばならず、局員も増加して百五十名に達し、一車を買切り遠足などに出掛け、新公園には局のテニス場二ヶ処を占むるに至つた — 日下亥太郎、「支那に於ける帝国郵便の偉績」、『逓信協会雑誌』第230号、1927年(昭和2年)10月、逓信協会
上海郵便局局舎新築及び海底電信線開通祝賀式

電信事務の取扱を開始した1915年(大正4年)1月当時、上海郵便局は局舎新築の工事中であった[229]。この局舎新築工事は1914年(大正3年)10月1日に起工式を挙げたもので、武富英一の設計により1915年(大正4年)9月に竣成した[20][229]。もとは日本総領事館と同じく上海黄浦路42号にあったが、新局舎は天潼路と熙華徳路の交叉する地点(天潼路1号)に建設された[19][20]。同年9月29日には長崎上海間海底電線開通祝典及び上海郵便局局舎新築落成式が挙行され、『上海日日新聞』はその式典の様子につき次のように報道した[229][230]

 上海日本郵便局の新築落成式は既報の如く、昨二十八日の午前十一時半より其構内に於て挙行された。之れより先き車を飛ばし馬車を駆つて、式場に集つた紳士連は、一先階上の休憩室にて休憩、壁上に掲げられた趣味ある『統計図及郵便物発送法』の見本などを参観し、尚電信機械室を縦覧するうち、軈て合図の音楽が局内の内外に鳴り響いた。式場は紅白の幔幕で張廻された中庭の広場である。正面の演壇に有吉総領事、渡部逓信書記官、石井行政委員長等の顔がズラツと並んだ頃、傍の幕外では君ヶ代の奏楽が始まつた。終つて杉本上海郵便局長は立つて式辞を朗読し、続いて武富逓信技師の工事報告あり、次いで渡部逓信書記官は逓信大臣の祝辞を代読した。
 続いて有吉総領事の祝辞朗読、大北電信会社総支配人ハンソン氏祝辞、周交通部技師の祝辞及石井行政委員会議長の祝辞あり。之れにて式を終る。それより来賓は大広間に於て立食の餐を受け紅白の幕と縁の木の葉、眼覚むるばかりの装飾に快よくフオークを執つた。宴央ばにして渡部逓信書記官の発声にて一同三鞭の杯を挙げ、天皇陛下の万歳を三唱し、次いで来賓の万歳を唱へた。之れに対して有吉総領事は来賓を代表し郵便局の業務発展を祝つて万歳を三唱し、三々伍々帰途に就いた。此日会する者内外朝野の紳士約三百名、近来に無き盛会であつた。 — 上海日日新聞、(所収:『逓信協会雑誌』第92号(55頁)、1916年(大正5年)2月、逓信協会)

第一次世界大戦と上海郵便局

在華郵便局から茶葉の小包が殺到する長崎郵便局
在華郵便局から茶葉の小包が殺到する神戸郵便局

ロシア帝国においてはアルコール中毒の問題が顕在化しつつあり、人々の間には禁酒運動が広まっていた[231]。皇帝ニコライ2世も1914年(大正3年)1月30日に勅語を下し、禁酒を奨励している[232]。これによりを以てに代わる有益なる飲料とする思潮が高まっていき、ロシア革命前における同国の茶葉輸入量は英国に次ぐ世界第2位となっていた[231]。中華民国漢口等に進出したロシアの商人は同国の軍隊に積極的に茶を供給し、茶はロシア人にとって国民的飲料となりつつあった[231]。その輸入についてはもっぱら船便を用いダーダネルス海峡経由によって黒海方面へ送られていたのであるが、1914年(大正3年)末より同海峡は第一次世界大戦の影響によって機雷により封鎖せられ(ガリポリの戦い)、従来の方途は全く杜絶されるに至った[233][234]

ところで当時の在華日本郵便局においては、従来から事業拡大を図るべく製茶業者を含む各国在華商館へ小包郵便の案内書を送ってその利用を慫慂しており、山縣純輔はこれについて次のように述べている[235]

支那茶包有小包を、上海に於ける我郵便局を通じて輸出を開始せるは明治四十三年にして、当時或る外国人より相当纏りたる数の引受方交渉を受けたるも、中央亜細亜方面には従来小包の引受少かりしを以て、地図を取出し宛地其他に付き相当研究を重ね引受を開始したる事を記憶せり。其後年々茶小包の引受は増加したるも、当時は上海局のみに限り、其他の局に於ては未だ之が引受を見るには至らざりしなり。
 然るに大正二年、余は漢口に転任するに至り、先づ局務の膨張を計る為め、小包引受の増加を図り、茶及絹織物輸出外国商館に対し詳細なる小包郵便案内書を送り、必要に応じ何時にても当方より出掛け小包の荷造り、通関、其他差出上の注意に付き説明の労を採るべしと言へるに、俄然各方面より申込ありたり。蓋し支那茶は、緑茶、紅茶及紅緑茶の三種に分れ、緑茶は甘粛、貴州、江蘇、浙江、雲南に、紅茶は江西、広東に、紅緑茶は安徽、湖北、湖南、四川、福建の各省に産し、且つ漢口及び九江には当時露国皇室の投資せる一大製茶会社を始め、大小幾多の製茶会社あり、実に漢口は茶小包の引受には最も有望なる地なるを以てなり。且つ通関事務に付ては、税関に了解を得て大荷物同様重量税を課せしむる事とし、差出人に代はり通関事務全部を代弁せし為め、本邦局は最も便利なるものとせられ、爾来年々引受は増加し、当初の計画は果して的中せり。 — 山縣純輔、「在支十七年」、『逓信協会雑誌』第226号所収(113から115頁)、1927年(昭和2年)6月、逓信協会

上海郵便局をはじめとする在華日本郵便局は、上記の第一次世界大戦勃発によるダーダネルス海峡封鎖に伴う海路の遮断により、小包郵便物を用いた茶葉の輸送を大量に引受けることとなった[233][234]。逓信省通信局近藤保業は次のように述べている[234]

 従来南支那に産出する磚茶及紅緑茶は支那より露西亜への輸出品で其の量も甚だ多いとの由であつたが、是が輸出方は主として汽船便に依り船荷として蘇西―「ダーダネルス」海峡経由送達し小包郵便に依るものは単に輸出額の一小部分に過ぎなかつた、従て茶包有小包の引受箇数も僅少であつたのである。然るに客秋の茶輸出期に在りては前記汽船便に依る送達の途が殆んど杜絶の姿に陥つた為茶商人は比較的料金の安き而かも速達すると云ふ小包郵便に依るに若く方法なしとして輸出方法を改め全部小包郵便物として差出す様になつた。

 殊に露国政府の酒類引用禁止令発布は同国に於ける茶の需要を著しく増加せしめた訳か我上海、漢口及天津局に差出す茶包有小包郵便物数は頓に劇増し莫大の箇数に達した。然れ共右三局に於て引受及逓送し得る小包の箇数には自ら限りあるを以て茶商人は是のみにて到底満足することが出来なく自費を投じて大連、長崎又は遠く浦塩斯徳迄輸送の上郵便局に差出すの大盛況を見るに至つた、実に在外局開設以来の大繁昌で我外国小包郵便界にとりても如何に此等の小包を吸収し逓送すべきかは慥に一大事業である。
 (中略)

殊に上海局は漢口局発小包行嚢の保管、継越の任に当るなければならんので一双苦心し局員疲労困憊の極に達し実戦以上の苦闘を行つたとのことである。 — 近藤保業、「戦乱と外国小包郵便業務」、『逓信協会雑誌』第85号所収、1915年(大正4年)7月、逓信協会

元上海郵便局長日下亥太郎は次のように述べている[233]

 大正三年末「ダーダネルス」海峡封鎖と共に海路黒海方面より露国へ輸入せらるゝ支那産茶の送途は全然杜絶せられたれば、在上海漢口の茶商は競ふて我小包業務を利用して陸路西比利亜を経由し亜細亜露西亜に茶の輸出を試み、郵便料等(価格六弗の茶に対し一弗六十銭を要す)の煩労を厭はず小包を依頼し来るもの陸続として不絶、大正三年九月より大正五年三月に至る間実に五十九万二千八百六十五個を主として、我上海局に於て引受けたり此価格三百五拾余万弗郵便料実に九十二万九千六百八十四円に上れり。此多数なる小包は到底普通の経路たる大連長春線の能く収納し能はざりし処なるを以て約半数則ち三十万三千八百五十八個は上海より海路長崎及び神戸に到り、更に浦塩を経て差立を了せり。 — 日下亥太郎、「時局と外国郵便(二)」、『逓信協会雑誌』第99号所収、1916年(大正5年)9月、逓信協会

在華外国郵便局の撤廃決定

中華民国の万国郵便連合加盟

1920年(大正9年)11月1日、スペイン王国首府マドリッドにおける第7回万国郵便会議開会式

1914年(大正3年)3月1日、中華民国政府は万国郵便連合に加盟することとなり、同年9月1日より実施された[236]。これにより日本との間における日本郵便局の設置されていない同国宛の郵便物には、万国郵便連合の郵便料金を適用することとなった[237]。また、同日より同国は小包郵便物交換条約にも加入している[238][239]。以降、同国は機会ある毎に、同国内に郵政官署を設置している各国に対し、その撤廃を要求するようになった[240]。逓信省監察官牧野宝一は当時の状況を次のように述べている[241]

併し乍ら支那にして万国郵便諸条約に加入せざる限り、たとへ交通の頻繁な二三の国と或種の交換条約を結んだにしても、万国に対して自由に外国郵便を交換するには困難がある。そこで今迄無関心でやつて来た支那も、千九百十四年を期して郵便条約を初め、聯合条約に加入することになつた。
其後支那は外国郵便局の撤廃を主張する機会を伺つて居つた。偶々マドリツトの郵便会議に、或議事の進行中、突然支那委員劉符誠氏は立つて此問題を議せんことを提議したのであるが、大体、問題の性質が郵便会議のものでないので、有耶無耶にされて仕舞つた。殊にマドリツト会議後支那が注目した点は、土耳古等に於ける郵便局が条約面から段々其影を薄めて来たので、それまでは兎に角相当の態面を持つて居る土耳古の様な国にも、外国郵便局が有つて、支那にとつても道伴れがあつたのだが、さうなつて来ると支那も之れに倣はなければ、大国たる態面に関すると云ふ感じは、当然の事として起こるのである。で其主張の方法として一種の詭弁ではあるが、法理論で目的を貫徹しようと試みた。それは「支那が聯合に這入らぬ内は聯合国に取つても、聯合領域の敷衍又は拡張として、聯合外の支那に郵便局を置く必要もあらうし、理論にも叶ふが、既に立派に支那が聯合の一国となり、其全土に聯合条約が行はれる以上、他の聯合国が支那内に郵便局を置いて、聯合領域の重複を図る必要はない、否それ自体矛盾である」と云ふのである。 — 牧野宝一、「外郵三年」、『逓信協会雑誌』第226号所収、1927年(昭和2年)6月、逓信協会

上記引用文中に言及されている第7回万国郵便大会議(EN: Postal Union Congress)は、スペイン王国首府マドリッドにおいて1920年(大正9年)11月1日に開会した[216]。中華民国政府代表者は同会議において同国内における外国郵便局撤廃について主張したが、特に諸国より反応を得られることなく、同年11月30日に万国郵便条約等が新たに定められた[242][243][216]。逓信省は同条約に対応するため、外国郵便規則(明治40年逓信省令第42号)を廃し、新たに外国郵便規則(大正10年逓信省令第56号)を定め、1922年(大正11年)1月1日より施行した[244]。同令第1条及び第2条においては、中華民国についても原則として万国郵便条約が適用されるとしていたが、同時に日本の郵便官署区内と万国郵便連合に加盟する他国の郵便局のみが設置されている地域においては、これを除くものとしており従来の日支郵便物の原則を踏襲した[243][244]

ワシントン会議

ワシントン会議に臨む日本全権加藤友三郎及び徳川家達と米国全権ヒューズ及びエドウィン・デンビ

1921年(大正10年)11月12日に開会したワシントン会議においては、軍縮問題等種々の国際問題について各国が論議したが、東亜における事件については特に太平洋及極東問題総委員会を設けてこれを討議した[243][245][246]。劈頭、米国全権国務長官ヒューズは、本委員会における討議事項が中華民国の利害に重大なる関係を有することを指摘し、同国が辛亥革命以来の難局を克服して中央政府の確立に至ることを希望する旨を陳述し、また中華民国全権施肇基は同国の領土保全や門戸開放を原則として諸国が同国内外に有する権益等を明確化し明文化し且つこれを公表することを提案した[245]。このような米華両国の思惑の下に支那ニ関スル九国条約(大正14年条約第8号)が締結され、門戸開放機会均等を基調とする新たな国際秩序を東亜にもたらそうとする試みが行われた[245]

こうした性格を有するワシントン会議の太平洋及極東問題総委員会において、1921年(大正10年)11月25日に中華民国全権施肇基は同国内における外国郵便局の撤廃案を提出した[247]。既に第一次世界大戦の勃発以来ドイツ国の在華郵便局は閉鎖されており、ロシア帝国の在華郵便局についても同国の政変によって1920年(大正9年)9月に撤廃されていたため、当時中華民国内に郵便局を置いているのは日本、英国、米国及びフランス[248]の4ヶ国であった[247][249]。翌26日、さらに本案の審議を行った結果、各国は原則として在華郵便局の撤廃につき同意し、1923年(大正12年)1月1日よりこれを実施することが申し合わせられた[247][249]。日本も南満洲鉄道附属地及び関東州を除く地からの日本郵便局の撤廃に同意しており、1922年(大正11年)2月1日の第5回本会議において本案は採択された[247][249]。その決議文は次の通りであった[22]

決議第五

支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議

甲 支那国ニ於ケル外国郵便局(租借地内ニ在ルモノ又ハ条約ニ依リ特ニ規定セラレタルモノヲ除ク)ノ廃止ヲ期スル為支那国政府ノ表示シタル希望ノ正当ナルコトヲ認ムルニ因リ左ノ如ク決議ス
(一)前記郵便局ヲ有スル四国ハ左記条件ノ下ニ之ヲ廃止スルコトニ同意ス
(イ)有効ナル支那郵便業務ノ維持セラルルコト
(ロ)支那国政府ハ外国人総弁ノ地位ニ関スル限リ現在ノ郵政ニ変更ヲ加フルノ意ナシトノ保証ヲ与フルコト
(二)支那国及関係諸国ヲシテ必要ノ処置ヲ為スコトヲ得シムル為本取極ハ千九百二十三年一月一日迄ニ之ヲ実施スヘシ
乙 外国郵便局ノ撤廃完了ニ至ル迄ハ関係四国ハ右郵便局ヲ経由スル一切ノ郵便物(外部ヨリノ検査ニ依リ明ニ書状ノミヲ包有スルモノト認メラルヘキ普通信書ハ書留タルト否トヲ問ハス之ヲ除ク)中有税品、禁制品又ハ其ノ他支那国関税法規ニ抵触スル物品ヲ包有スルモノナキヤ否ヲ確ムル為支那国税関官憲カ当該郵便局内ニ於テ検査ヲ為スニ対シ充分ノ便宜ヲ与フヘキコトヲ各別ニ約ス

千九百二十二年二月一日軍備制限会議第五回総会ニ於テ之ヲ採用ス — 支那国ニ於ケル外国郵便局ニ関スル決議、(所収:外務省条約局編、『条約集 第一輯第一号 華府会議諸条約及諸決議』、1922年(大正11年)8月、外務省)

こうして英国は新界及び威海衛租借地、フランスは広州湾租借地、日本は関東州及び南満洲鉄道附属地を除く中華民国内の外国郵便局を1922年(大正11年)12月31日までに撤廃することが決定された[249]

上海郵便局の廃止と上海電信局の設立

1917年(大正6年)頃の上海における日本の官公庁。上海郵便局の写真も掲載されている。

ワシントン会議における在華郵便局撤廃の決議を受け、1922年(大正11年)12月8日に日本と中華民国の両政府代表は日本帝国及支那共和国間郵便物交換ニ関スル約定、日本帝国及支那共和国間価格表記書状及箱物交換ニ関スル約定及び日本帝国及支那共和国間ニ於ケル小包郵便物交換ニ関スル約定並びに日本帝国及支那共和国間郵便為替交換ニ関スル約定に調印し、前述の1910年(明治43年)2月9日調印の日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ニ設定セル関係ヲ規定スル約定及び日本帝国郵政庁及清帝国郵政庁間ノ小包郵便物ノ交換ヲ規定スル約定は、1923年(大正12年)1月1日の新約定実施日に廃止されることとなった[250]

1923年(大正12年)1月1日、上海郵便局は廃止され、その郵便事務は長崎郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局が承継した[21]。同時に上海電信局が一等電信局として開設され、上海郵便局の会計事務と電信事務を承継し、日本電信系に発着する和文電報並びに日本及び中華民国政府の欧文官報を取扱うこととなった[21][23][25][26]。先のワシントン会議においては、在華外国郵便局のみならず、在華外国無線電信局についても支那国ニ於ケル無線電信局ニ関スル決議及附属声明により条約や特許によらずして設置されているものについては、これを撤廃すべき旨が決議されていたが[251]、日華間における海底電線陸揚権約定が1930年(大正19年・昭和5年)12月31日までその効力を有するため、郵便局より独立して電信局が開設され、郵便局時代において取扱っていた電信事務を元の通りに取扱った[31]。また、上海郵便局時代と同じく上海電信局は郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則第1条第1号ないし第3号、第6号、第7号及び第12号ないし第13号に掲げる経費、すなわち器具器械費、式紙帳簿雑品費、図書購買費、通信運搬費、傭人料、賄費及び諸雑費の交附を受ける局と定められた[252]

上海電信局初代局長葭村外雄は、当時について次のように回想している[253]

華府会議の結果、大正十一年(一九二二年)に、在外郵便局が撤廃され、上海郵便局は大正十二年一月一日から上海電信局となり、私は初代局長として赴任した。

私が驚いたことは、十七年の永い間に電信が少しも進歩していなかったことで、相変わらず吸取紙のような厚い着送紙に、ボトボトの炭酸紙を用いて筆写していた。おまけに内地の大繁忙時代の惰性で、鑽孔したテープを籠にため込んでやっていた。それで私はまず、直ちに籠を廃棄し、パンチ台と送信機を並べさせ、鑽孔するに従って送信するようにした。

当時上海局にも仮名タイプが配布されていたが、誰もそれを使おうとする者がなく、倉庫に埃をかぶっていたので、私は書店から米国のタイプライターの指導書を買って来て、タッチシステムを研究し、これによって職員を訓練した。ところが三月たっても実用に適するまでにならない。練習だけでは、何時になっても見込みがないと見極わめをつけた。そこで、日を定めて、一せいに、タイプ受信に切替えた。 — 葭村外雄、「上海の日本電信局」、(所収:『逓信史話 上』、1961年(昭和36年)12月、電気通信協会)

海底電線陸揚権約定延長に関する日華交渉

上海電信局運用の法的根據たる海底電線陸揚権約定が1930年(昭和5年)末を以て期限を迎えるため、日本政府は重光葵や逓信省の吉野圭三を代表として中華民国政府の荘智煥や呉如南と同国南京市において1930年(昭和5年)9月17日よりその交渉を開始した[254][29]。折から同国政府は1928年(昭和3年)8月に大北電信会社等の外国通信会社に与えている通信特許権を破棄して通信権の独立を目指す旨を決議し、爾来各社との交渉を進めており、上海電信局における受配事務等の公衆に接する業務についてもぜひとも同国において回収すべく強硬的態度をとった[30][29]。そのため日本政府は同国政府の主張に譲歩し、上海電信局における人員を日華両国の国民によって構成し、受配事務等は中華民国側に引渡すことなどを条件として同局を維持することとし、1930年(昭和5年)12月31日には両国間に協定案の仕上げを見た[29]。しかし、正式な調印に至るまでには国内的手続を必要とするため、とりあえず新協定が正式に調印されるまでは暫定的に現状を維持することとなり、同日午後10時頃にその旨の公文を交換した[29]

しかし、その後中華民国側の代表者であった荘智煥は、1931年(昭和6年)3月に各外国通信会社との交渉により国内からの批難を受けて弾劾され、同国交通部の混乱により日華交渉は断絶されるに至った[29]。呉如南も多忙を理由として日本側との会談を避けており、吉野圭三は同年7月に日本へ帰国したため、この交渉は同月末を以て打切られた[255][29]。このため新協定は正式な調印に至らず、とりあえず現状を維持することとした先の暫定的協定の状況がそのまま継続し、やがて満洲事変や第一次上海事変の勃発により両国関係は悪化し、この後も本問題に係る交渉が日華間に開かれることはなくなった[30][29]中村常三は一連の経過を次のように報告している[256]

 周知の如く国民革命発生以来、支那は不平等条約撤廃に向つて邁進し、革命の波濤の高潮に乗じて、一挙に漢口・九江のイギリス租界を奪還した。その後国民政府の安定と共に益々対外方針を積極化し、威海衛接収の勢ひに乗じ、当時の外交部長王正延は所謂「革命外交」によつて、各国と治外法権撤廃の談判を開始したのであつた。ソ聯とドイツは既に領事裁判権や租界を撤廃してゐるので、交渉の重点は当然日・英・米三国に置かれ、先づ英・米との交渉が開始されたが、漢口・九江の租界を奪取されたイギリスは、当時の情勢から名を捨てゝ実をとる方針に転じ、上海・広東等の海口都市を除き、奥地の治外法権を撤廃せんとする肚を極め、支那側に対しても既にその領解を与へてゐたのである。
 またアメリカも支那の主権尊重の建前から、イギリスの例に倣はんとする態度を示したので、支那側は益々勢ひを得、最大の難関とされてゐた日本に対して法権交渉の開始を通告し、その第一として電信問題の解決を急いだのである。その結果、王正延と重光代理公使との間に海底電信及び上海日本電信局の支那側への委譲が取極められ、協定文は枢密院の諮詢を経るまでになつてゐたが、支那側交通部の支障で正式調印が延び〳〵となつてゐるうち、突如満洲事変が勃発したので、法権交渉も電信協定も立消えとなつてしまつたのである。 — 中村常三、「支那を繞る新外交戦」、『外交時報』第82巻第4号通巻第779号所収(90から100頁)、1937年(昭和12年)5月15日、外交時報社

第一次上海事変と上海電信局

本項については第一次上海事変の項も参照のこと。

上海電信局附近における戦闘

1932年(昭和7年)1月28日夜、第一次上海事変の勃発により日華両軍は上海共同租界附近において戦闘状態に入り、北四川路等に居住する日本人30名の要請によって上海電信局局舎にこれを保護した[257][258][259]。租界内には大量の避難民が殺到すると同時に、多数の便衣兵がこれに紛れ込み、上海電信局は日本人学校、在上海日本総領事館及び日本人倶楽部等と共にその襲撃の主たる目標となっていた[257][258][259]。同月28日と29日の間は上海共同租界工部局警務処の活動により安寧を保っていたが、30日払暁に邦人密集地域の乍浦路の西本願寺方面が砲撃されるなど情勢は緊迫し、同日夕刻に到り上海電信局には軽巡龍田より陸戦隊一個中隊が派遣されその警衛に当ることとなった[257][258][259]。同日夜、同局は拳銃等によって武装した便衣兵による襲撃を受けたため、前記の一個中隊によりこれを撃退し、以降は砲火を避けるため消燈を励行し、また翌31日からは出入する人々への身体検査を開始した[257][258][259]。同日午前10時、警衛の兵士は同局正門前のヘンリー洋服店屋上から手榴弾を投擲しようとする便衣兵を認めたため、機関銃を用いて応射し、また家宅捜索を行って便衣兵十数名を捕縛した[257][258][259]。同時刻には同局舎裏手の住宅屋上及び物干し台からも機関銃2門を用いた便衣兵による銃撃を受けており、陸戦隊本部へ連絡して応援を要請し、軽巡夕張から一個中隊の派遣を受け包囲の上、数十名を逮捕した[257][258][259]

このように危険な状況であるにもかかわらず、陸戦隊は各所において応戦中のため警衛の人員が不足していたので、上海電信局の局員は自ら陸戦隊の兵器により武装し、また消火ホースを用意して放火の事態に備えた[257][258][259]。2月1日には天潼路に面する窓に防弾措置を施し、また送受信機の面する窓を遮蔽し、正門を閉鎖して通用門より公衆の出入を行わせることになった[257][259]。また、日華連絡船長崎丸により邦人婦女子を内地へ避難させた[259]。同日午後3時より再び便衣兵による銃撃を受け、夜に至るまで激しい戦闘を展開したが、同日午後8時に横須賀海兵団250名の兵士が応援に入り、ようやくこれを撃退した[257][258][259]

事変下における上海電信局の活動

日華関係が緊張状態にあった1932年(昭和7年)1月22日頃から上海電信局の電報取扱数は増加の一途をたどり、官報、新聞電報及び至急電報においていずれも長文のものが激増していた[257][258][259]。事変勃発の同月29日と30日には発着3100通に達している[257][258][259]。陸戦隊と協議の結果、夜間電報配達の際には配達に用いる自転車の燈火を廃し、配達員は懐中電燈携行の上、兵士から電報配達員であることを判別可能にし、戦闘中であっても極力集配を継続した[257][258][259]。現地雇傭の労務者についてはそのほとんどが事変下においては欠勤したが[259]、海底電信線の陸揚地にあった宝山陸揚室の番人を務めた王法利は事変中もその警衛を継続した[260]

しかるに同年2月4日午後1時半、肝腎の長崎 - 上海間海底電信線が不通となった[257][258][259]。これがため上海電信局職員は自動車及びモーターボートを使用して連絡し、匯山碼頭という地点にあった日本郵船の観測所の専用電話線を用い、また手旗信号や発火信号を使って連絡を取り合った[257][258][260]。罹障地点は陸揚地点から上海電信局に至る陸上線で、この附近は未だ国民革命軍の勢力圏であり且つ戦闘中であったため、直ちに修復を行うことは困難であり、応急連絡措置を講ずることとなった[257][258][260]。同年2月29日に逓信省電纜敷設船南洋丸が上海に到着し、3月1日から海軍の護衛を受けつつ作業を開始した[257][258][260]。作業は呉淞鎮の河岸から国民革命軍による銃撃を受けながら進められたが、3月2日には完了し、この応急線を用いて廟行鎮攻略の捷報が内地に伝達された[257][258][260]。しかし、同月7日と同月16日に再び応急線に罹障をきたし、その度に決死的な復旧措置が講ぜられた[257][258][260]

3月3日の呉淞砲台の占領により、地下線を敷設している呉淞 - 上海間の鉄道(淞滬鉄道)沿線から国民革命軍が退却したので、上海電信局長嬉野八郎等はその被害状況調査に着手した[257][258][260]。江湾駅附近等において砲撃による激しい損傷があったが、修復作業の結果、3月23日に全部復旧し、事変前の二重通信をようやく取り戻した[257][258][260]

また、こうした海底電信線の不通といった事態に備えるため、1932年(昭和7年)1月中に上海電信局には鹿児島との間に無線連絡設備が設けられ、以降の海底電信線の不通時にはこの無線連絡設備が用いられるようになった[31][261]

第二次上海事変と上海電信局

本項については第二次上海事変の項も参照のこと。

第一回海底電信線修復工事と沖縄丸の被害

沖縄丸船長室外壁の弾痕
沖縄丸乗組逓信技手山口三郎の葬儀(長崎市長照寺)

1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を端緒とする北支事変の勃発によって日華関係が緊迫し、上海と内地との間における通信の重要性が高まるなか、同月2日に呉淞沖において海底電信線に罹障をきたし、単信によるほかない状況であったため、逓信省電纜敷設船沖縄丸にその復旧が同月16日に命令された[262][263]。しかし、颱風の影響により到着は遅れ、同年8月3日についに上海線は全く不通となった[262][263]。沖縄丸は同月7日に呉淞沖に到着し、8日から作業を開始した[262][263]。作業は国民革命軍の偵察機が数度飛来する中、駆逐艦蓮の護衛を受けつつ進められ、同月11日に完了した[262][263]。沖縄丸は食糧の補給や残余の工事継続のため上海に入港した[262][263]。この頃、上海共同租界は避難民の殺到により混雑を来し、日華両軍は一触即発の情勢であり、沖縄丸の松岡船長は軍艦出雲の兵士に護衛されて上海電信局に赴き、本省との連絡を行っている[262][263]。翌13日にも工事を行う予定であったが、出雲の艦長より中止方の慫慂を受け、安全の確保から沖縄丸は上海において繋留されたままとなった[262][263]。果然、同日午後から日華両軍の戦闘が開始され、翌14日に沖縄丸は国民革命軍の爆撃機による襲撃を受けた[262][263]。これにより同船においては逓信技手山口三郎が殉職し、水夫齋藤吉晴をはじめ6名の負傷者を出した[262][263]。このため、沖縄丸は作業を一時中断し、同月17日に長崎へ逃れた[262][263]

上海電信局における対応

上海電信局においては情勢の悪化に鑑み、1937年(昭和12年)8月12日に局員とその家族を局舎内に収容し、同月18日には家族全員の引揚げを完了した[264]。事変中の業務については8月15日より和文電報の受付を遅延承知とし、9月7日には局員に防毒面が配布されるなど、非常の事態を惹起したが、局舎に対する大規模な被害は免れた[264][265]。逓信省官吏佐々木元勝はその理由につき、「日本電信局は敵砲撃の好箇の目標であるが、案外被害が無いのは背後に褐色の大断崖を形成してゐるブロードウエーマンシヨンと云ふ素晴しく高い建物があるからで、此の二十五階もある高層建築物が外国権益であるので支那軍もこれに砲撃が命中するので手控へてゐる為である」と述べている[265]。ただし官舎等には相当の被害があったため、逓信協会は上海電信局の罹災者23名に対して460円の見舞金を贈与している[266]。また、同年9月18日には空襲によって通信が一時中断され、同年10月16日には局舎に砲弾が落下している。

1937年(昭和12年)10月14日には上海電信局電報配達員の藤田藤二郎が呉淞路方面において業務中に被弾し重傷を負っている[267][268]。藤田は重傷を負いながらも自転車により電報配達を完遂し、当時その姿は「逓信道の精華」と讃えられた[267]

第二回海底電信線修復工事

長崎 - 上海間海底電信線は、1937年(昭和12年)9月18日と20日に再び宝山附近の海底線と宝山陸揚地点と上海電信局との間の地下線において罹障したため、南洋丸が復旧作業を行うこととなり、同年9月4日に揚子江口に到着した[262]。同月8日に軍の許可を得て作業を開始し、同夜とりあえず応急的に単信で復旧した[262]。この応急線は2ヶ月持ちこたえたが、11月19日に罹障し、沖縄丸によって同月26日に復旧作業を行った[262]。日本の上海占領に伴い襲撃の虞がなくなったため、二重通信に復旧させる工事が計画され、南洋丸にその作業が命ぜられた[262]。同船は1938年(昭和13年)1月24日より該作業に着手し、予備線を増設の上、同年3月18日に作業を終えて同月20日に長崎へ帰還した[262]。地下線の並行する淞滬鉄道は国民革命軍の防衛線として用いられたため、砲火が集中したので損壊が激しく、附近には多数の地雷が埋設されていたが、その修復は1937年(昭和12年)11月28日から着手し、同年12月30日に作業を完了している[262]

無線設備等の施設強化

上海電信局室内の光景

1938年(昭和13年)2月16日、長崎 - 上海間の海底電信線が不通となったため、かねて設備されていた大阪無線電信局との間における無線連絡設備を臨時に使用開始し[269]、同年4月1日から正式にその使用を開始した[270][271][272]。当時はこれを大阪上海(日本局)無線と称したが、大阪 - 上海間の無線回路は、上海電信局、上海電台及び上海国際電台の間においてそれぞれ設備されていったため、区別のために1940年(昭和15年)8月21日に大阪無線電信局と上海電信局との回路については、大阪上海第一無線と改称された[270]。海底電信線についても揚子江内における船錨や漁撈による障害が多発していたため、同月新たに馬鞍列島の花島山島へ陸揚室を設け、宝山陸揚室までの予備線を敷設している[261]。同年5月18日、上海電信局の無線設備を用いた日本放送協会による内地向けの放送が許可され、同月20日よりその放送を開始した[273]。これについて逓信省工務局松前重義は次のように述べている[274]

それで支那事変が起りました時に、放送に依る方法に対する政策と云ふものを決定しなくてはいかぬと言ふことを盛んに主張致しました。幸いに真茹無電台に百キロを置いて、其処から支那の後方の民衆に対して呼掛けると云ふことをやりました。それから上海でも、後方撹乱と云ふやうな意味で放送が行はれたのでありまして、まあ非常に効果的に働いて、其の後政府のいろ〳〵な宣伝を打ち壊す有力な機関になつて居ります。(中略)さう云ふ風に東洋政策を確立する話は支那に対する或は南洋地方に対する政策を確立しようとするならば、もう少し私共は言論に於て統制された言論指導助長、或は其の決定された政策の運用と云ふやうな機関が必要ではないかと言ふやうなことを不断から考へて居りましたが、殊に支那事変が勃発して向ふに行つて見ますと放送の効用と云ふものは非常に重大なものでありまして、上海電信局の逓信省海底線が切れた時に、補助として短波の電話施設を作りました、所が実は今はそれは通信なんかには使はれて居りませぬで、一方貸してくれと云ひますので今提供しましたが、後方に向けて短波で放送して居ります。 — 松前重義、(所収:「対支政策座談会(第二回)」、『技術日本』第187号所収、1938年(昭和13年)7月、日本技術協会)
真茹送信所の警戒にあたる日本陸軍兵士

この上海電信局設備を用いた中継放送はしばらく継続されたが、日本と維新政府の協同事業であった華中電気通信により真茹送信所が復旧され、1939年(昭和14年)4月21日に同所にその業務を承継した[275][276]

日華電報規則(昭和13年逓信省令第87号)の制定

芝罘電信局

1939年(昭和14年)1月1日、日華電報規則(昭和13年逓信省令第87号)が施行され、これと同時に上海電信局の取扱事項を定めていた大正12年逓信省告示第15号は廃止された[277][278]。日華電報とは日本政府の電信系のみを経由するか、あるいは日本政府の電信系及び満洲電信電話若しくは中華民国の電信系により内地、朝鮮、台湾及び樺太並びに南洋群島と中華民国との間に発着する電報をいい、これは従来日満電報に準じて取扱われていた北支及び蒙疆間の電報と外国電報に準じて取扱ってきた中支との間の電報を整理したものであって、その取扱については特段の定めあるものを除き、内国電報に準ずるものとされた[277][279]。日華電報規則第3条により上海電信局等の在中華民国日本電信官署の取扱事項に関する特例は、自今当該官署前にこれを掲示するものと定められた[277][279]。なお本規則の制定に準じて日華電報における特殊取扱上の制限と慶弔電報に関する制限が告示されているが、日本の電信局があった上海と芝罘についてはこれを適用しない旨が定められている[280]

上記日華電報規則の制定に伴い、上海電信局の取扱事項については次のように公達によって新たに達示され業務範囲を拡大した[281]

上海電信局ノ電報取扱事項ニ関スル件

     昭和十三年十二月二十七日
     公達第千七百三十五号

上海電信局ノ電報取扱事項左ノ通定ム
本公達ハ昭和十四年一月一日ヨリ之ヲ施行ス

一、取扱種別
帝国、満洲国又ハ中華民国ニ発著スル和欧文電報及帝国、満洲国又ハ中華民国以外ノ諸国ニ発著スル外国電報

二、配達地域
直配達区域 共同租界及び其ノ附近(西部区附近極司非而公園地方、北部区附近靶子路、狄思威路以北新公園及施高塔路地方並ニ之ニ近接スル閘北ノ一部)、仏蘭西租界、上海城内、上海特別市滬南区(陸家濱以遠ヲ除ク)

直配達区域外 上海港内、上海特別市中直配達地域ニ属セザル地域 — 昭和13年逓信省公達第1735号、(所収:逓信青年社編、『加除訂正式 逓信法令集 電信篇』、1940年(昭和15年)10月、逓信青年社)

日華電報規則は1939年(昭和14年)12月1日の改正施行に伴い、第16条を追加して上海に発着する欧文電報の特例を別に告示する旨を定めた[282]。その特例とは欧文電報に発信人の住所氏名を署名として本文の次に記載し得ること、時間外電報にも時間外指定略号(SS)を記載しなくてもよいこと、クリスマス新年を祝う文のみを記載する私報は頼信紙に略号(XLT)を記せば特殊送達紙を使用して配達を行うことであった[283]。同時に日華電報の取扱制限事項を定めた昭和13年逓信省告示第4043号を廃止し、新たに昭和14年逓信省告示第3485号によりこれを定めることとした[284]。本告示においては華中電気通信各局と上海電信局を含む中支においては、特殊取扱のうち時間外配達(上海を除く)、翌朝配達、別使配達料受信人払及び艀船配達料受信人払を行わず、日本政府上海電信線を経由し上海に発着するものを除き、慶弔電報の配達時刻指定を取扱わない旨を規定している[284]

大北電信会社陸揚権の撤廃合意

1940年(昭和15年)5月4日、逓信大臣官邸における大北電信会社特許状調印式
大北電信会社長崎支局

日華電報規則の制定により内国電報の取扱に準ずるものとされた日華間の電報であったが、長崎 - 上海間になおも存置されていた大北電信会社の電信線を経由する電報は、第三国経由の発着信であり外国電報として取扱われていた[285]。また、長崎にはいまだ同社の電信局が存置されており、日本政府の管下にあらざる外国通信機関が国内に存在することが防諜上大いに懸念されたため、ついにこれを撤廃する方針が決定され、1940年(昭和15年)3月18日に逓信省電務局長田村謙治郎と同社極東支配人エッチ・エス・ポールセン(H.S.Poulsen)は、日満支における電信線陸揚権と運用権について協議を開始した[286][287]。日本政府は大北電信会社に対し強硬的態度で臨み、且つ大北電信会社の本国たるデンマークの本土は同年4月にドイツ国の占領下に入ったため(ヴェーザー演習作戦)、同国政府による干渉も行われず、同年6月1日に従来の免許状に代わり、新たに特許状を付与してその期限を限定した[286][287]。『逓信事業史 第三巻』によれば、その大要の第五項までは次のようなものであった[287]

第一 会社海底線の長崎に於ける陸揚権は無期限なりしを一九四三年(昭和十八年)四月三十日迄に限定すること。

第二 会社海底線の運用権は会社に属し無期限なりしを本年六月一日より之を逓信省に回収すること。
第三 運用権の逓信省回収に伴ひ会社に属し日本領域内に存する一切の地下線、建物、機械設備等は之を無償にて逓信省の用に供すること。
第四 長崎要塞近傍の一定区域(北緯三十三度二十分以南東経百二十八度十分以東)に於ける会社海底線は逓信省に於て維持すること。

第五 日満支相互間に発着する電報は専ら日満支事業者の施設に依り之を取扱ふこととする為会社海底線に依る取扱は一九四〇年(昭和十五年)十二月末日限り之を廃止すること。
— 逓信省編、『逓信事業史 第三巻』(556から558頁)、1940年(昭和15年)12月、逓信協会

上記の要項において1943年(昭和18年)4月30日までに限定された長崎 - 上海間の大北電信会社海底電信線は、今次大戦の勃発により1941年(昭和16年)12月8日に運用を休止し、1942年(昭和17年)春に小笠原丸が揚子江沖においてこれを切断、以降これを長崎 - 香港間及び長崎 - 台湾間の軍用通信線に転用している[288]。実質的に機能を喪失した同社の陸揚権は、予定通り1943年(昭和18年)5月1日に消滅し、名実ともに日本と上海の間の電信線は、日本がこれを独占することとなった[286][288][289]

東亜電信電話規則(昭和16年逓信省令第26号)の制定

1941年(昭和16年)4月1日、東亜電信電話規則(昭和16年逓信省令第26号)が施行され、日華電報規則は廃止された[290]。東亜電信電話規則にいう東亜電報は、帝国と関東州、満洲国または中華民国の間に発着する電報であり、従来の日満電報や日華電報等を包含して一元化したものであった[290][291]。その取扱は日華電報と同じく特段の定めあるものを除き、内国電報に準ずるものとしたが、第11条により夜間配達、翌朝配達、別使配達料受信人払及び艀船配達料受信人払は取扱わず、第31条において取扱に制限を加えることがある旨を規定し、また第32条において上海電信局等の在中華民国日本電信官署の取扱事項に関する特例は、自今当該官署前にこれを掲示すると規定している[290][291]。従来、日華電報の取扱制限事項を定めていた昭和14年逓信省告示第3485号はここに廃止され、昭和16年逓信省告示第713号により華中電気通信各局と上海電信局を含む中支においては、列車内にいる者に宛てる電報、別使配達及び慶弔電報の配達時刻指定を行わない旨が定められた[292]。また上海に発着する欧文電報の特例を定めた昭和14年逓信省告示第3486号も廃止されたが、これは時間外電報の全面的中止と署名制度の採用によるものであった[293][291]

官制の改革

等級制の廃止

上海電信局は一等電信局として設置されていたが[25]、1941年(昭和16年)2月1日の通信官署官制改正によって通信官署における等級制は廃止された[294]。郵便局については普通郵便局、指定郵便局及び特定郵便局の別を内部的に設けていたが、電信局については一等電信局及び二等電信局ともに単に電信局と称することとなった[295]

郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則の廃止

1941年(昭和16年)7月1日、郵便、電信及電話官署經費渡切規則施行細則[296]及び明治40年逓信省告示第223号は廃止され[297][298]、普通郵便局、電信局及電話局渡切経費施行規程(昭和16年逓信省公達第487号)及び特定郵便局等渡切経費施行規程(昭和16年逓信省公達第488号)により渡切経費を規定することとなった[299]。在外電信局については普通郵便局、電信局及電話局渡切経費施行規程別表第1号においてその渡切経費を規定した[299]

大戦末期の上海電信局とその終焉

青天白日旗を振って上海共同租界還付を祝う人々(1943年(昭和18年))

長らく上海電信局は上海共同租界内に設置されていたが、大東亜共栄圏建設の大義名分の下、日本政府は中華民国政府の自彊を図るべく、1943年(昭和18年)1月9日に租界還付及治外法権撤廃等ニ関スル日本国中華民国間協定(昭和18年条約第2号)に調印した[300][301]。同条約第4条に基づく租界還付及治外法権撤廃等ニ関スル日本国中華民国間協定ニ基ク上海共同租界回収ニ関スル取極(昭和18年外務省・大東亜省告示第2号)により、同年8月1日に上海共同租界は同国政府に還付された[300][302]。ただし、右取極第4条には「中華民国政府ハ上海共同租界土地章程及同補則等ニ基ク行政権回収実施後当該地域ノ施政ニ当リ在住日本国臣民ノ居住、営業及福祉等ニ関シ尠クモ従前ノ程度ヲ維持スルモノトス」と定め、上海電信局の存在に影響はなかった[302]

大戦末期に至り上海電信局が運用してきた長崎 - 上海間の海底電信線は不通となり、またその復旧も困難な情勢であり、物価の急激な高騰によって職員の生活も窮乏を加えていたため、従来の通りに業務を行うことは困難になっていた[31][32]。これによって上海電信局は1945年(昭和20年)6月に受付業務と大阪 - 上海間の無線連絡確保の業務を除いて、爾余の業務を華中電気通信に移管することとなり、それまで日本人54名に加え、中華民国国籍の労務者48名を合わせて102名いた職員は、局長含めて11名に縮減された[31][32]。まもなく終戦を迎え、中華民国政府は1945年(昭和20年)9月17日に上海電信局を接収した[33]。中支において通信業務に従事していた華中電気通信の日本人技術者は、しばらく国民政府によって留用されたが、1946年(昭和21年)5月にそのほとんどが内地へ帰還している[303]

なお、東亜電信電話規則は1946年(昭和21年)4月1日に廃止された[304]

組織

下記の記述において用いた各『職員録』による上海郵便局及び上海電信局の職員には判任官以上の官吏のみを掲載し配達員等の雇員を含まない。

上海郵便局

1882年(明治15年)1月31日時点にあっては上海郵便局には駅逓局官吏としては上野泰一郎及び稲山貫政の2名が勤務していた[305]。その後、総領事の局長兼任が解除された1888年(明治21年)12月10日時点にあっては局長吉田宗太郎と四本俊並の2名が勤務していた[306]。1902年(明治35年)当時の上海郵便局分掌規定によれば、上海郵便局内には郵便掛、会計掛及び庶務掛の3掛が置かれ、このうち郵便掛は更にその下に発着部、書留部、小包部及び為替貯金部の4部を置き、それぞれに主任を配置して職務を分掌していた[307]。同年5月1日時点において上海郵便局には局長桶野得三以下、通信書記6名が勤務していた[308]。1912年(明治45年)5月1日時点においては、局長杉本啓以下、通信書記8名(うち1名は臨時在勤)に加え、通信書記補6名に増員している[309]。電信取扱を開始した1915年(大正4年)の5月1日時点においては、局長杉本啓以下、通信書記12名(うち1名は臨時在勤)、通信技手1名、通信書記補9名が勤務していた[310]。廃止目前の1922年(大正11年)7月1日時点においては、局長中林賢吾以下、通信書記27名(うち4名は臨時在勤)、通信技手1名、通信書記補24名が勤務していた[311]

上海郵便局の歴代局長は次の通りであった(第3代局長河上謹一までは駐上海日本総領事の兼任)[312][313][314][315][308][316][317][318][319][320]

  • 初代 - 品川忠道
  • 2代 - 安藤太郎
  • 3代 - 河上謹一
  • 4代 - 吉田宗太郎
  • 5代 - 小田貴雄
  • 6代 - 桶野得三
  • 7代 - 藪内敬之助
  • 8代 - 桶野得三
  • 9代 - 杉本啓
  • 10代 - 日下亥太郎
  • 11代 - 中林賢吾

上海電信局

第一次上海事変後に海底電信線修復作業を行った土井技師と嬉野局長の一行

1924年(大正13年)7月1日時点において上海電信局には局長葭村外雄以下、通信書記14名、通信技手1名、通信書記補14名が勤務していた[321]。1926年(大正15年)9月時点の逓信省の記録によれば、上海電信局の定員は通信書記12名、通信技手1名、通信書記補14名と定められており、実際には局長葭村外雄以下、通信書記14名、通信技手1名、通信書記補14名が勤務していた[322]。第一次上海事変が発生した1932年(昭和7年)の8月1日時点においては、上海電信局の定員は通信書記13名、通信技手1名、通信書記補15名と定められており、実際には局長嬉野八郎以下、通信書記13名、通信技手1名、通信書記補12名が勤務していた[323]。第二次上海事変が発生した1937年(昭和12年)の5月1日時点においては、上海電信局の定員は通信書記13名、通信技手1名、通信書記補15名と定められており、実際には局長松永半五郎以下、通信書記15名、通信技手1名、通信書記補12名が勤務していた[324]。また、1940年(昭和15年)4月1日時点においては、局長森田操三以下、通信書記22名、通信書記兼逓信局書記1名、通信技手兼逓信技手1名、通信技手1名、通信技手兼逓信局技手1名、通信書記補17名が勤務していた[325]。以降の逓信省職員録には局長や主幹待遇の者のみが掲載され、1945年(昭和20年)2月1日時点の通信院職員録にも局長櫻井源四郎と主幹足立吉一のみが掲載されている[326]

上海電信局の歴代局長は次の通りであった[321][327][328][329][330][331][332]

  • 初代 - 葭村外雄
  • 2代 - 嬉野八郎
  • 3代 - 松永半五郎
  • 4代 - 森田操三
  • 5代 - 濱本長松
  • 6代 - 櫻井源四郎

上海郵便局所轄郵便受取所

本項については郵便受取所の項も参照のこと。

鎮江郵便受取所

鎮江郵便受取所は、上海郵便局を所轄局として1904年(明治37年)2月1日に開設された[333]。当初は所内において郵便物を交付する形を採ったが[333]、1907年(明治40年)9月1日より集配事務を開始した[334]。1923年(大正12年)1月1日廃止され、郵便事務は長崎郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局が継承した[21]

上海北四川路郵便受取所

北四川路の日本人小学校

上海北四川路郵便受取所は、上海郵便局を所轄局として1918年(大正7年)12月3日に開設された[335]。この郵便受取所は同地居留民増加に対応すべく設置されたが、その設置場所に際しては中華民国側の反発を避けるべく、厳密には上海共同租界外であるが、その延長上に属し租界の施政権の及ぶ北四川路が選定された[336]。横浜橋附近の日本小学校の近辺にあった[337]。1923年(大正12年)1月1日廃止され、郵便事務は長崎郵便局、郵便為替及び郵便貯金事務は門司郵便局が継承した[21]

庭球部

上海郵便局は上掲の元上海郵便局長日下亥太郎の証言にあるごとくテニス場を有し[228]、上海電信局となってからも同局の専用コートがあった[338]。1931年(昭和6年)9月に両者の親睦を深める目的を以て第一回が開催された大北電信会社とのケーブル・カップ庭球戦は、その後上海電信局の恒例行事となり、フランス租界内の三井社宅テニスコートや共同租界の競馬場内テニスコートを用いて催行された[339][340][341]。試合後はビールウイスキー握り飯寿司おでんなどが振る舞われ、両者交流の場を設けたという[339][340]

脚註

  1. ^ 東亜同文会編、『支那省別全誌 第十五巻 江蘇省』(52頁)、1920年(大正9年)8月、東亜同文会
  2. ^ a b c d e 郵政省編、『郵政百年史年表』(20頁)、1967年(昭和42年)2月、吉川弘文館
  3. ^ a b 明治9年太政官布告第52号(『明治九年 法令全書』(43頁)、1890年(明治23年)3月、内閣官報局)
  4. ^ 逓信省編、『逓信事業史 第一巻』(6頁)、1940年(昭和15年)10月、逓信協会
  5. ^ a b 郵政省編、『郵政百年史資料 第一巻』(345から346頁)、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館
  6. ^ a b c d 日本郵趣協会編、『日本郵趣協会四十年の歩み』(292頁)、1986年(昭和61年)12月、日本郵趣出版
  7. ^ a b c 郵政省編、『郵政百年史資料編 第十巻』(431頁)、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館
  8. ^ a b c 内閣記録局編、『法規分類大全 第六十三 運輸門七』(771から772頁)、1891年(明治24年)4月、内閣記録局
  9. ^ a b c 逓信省編、『明治廿九年八月現行 逓信法規類纂 郵便編』(728から729頁)、1897年(明治30年)3月、逓信省
  10. ^ a b 『逓信省第七年報』(178頁)、1894年(明治27年)3月、逓信大臣官房
  11. ^ a b 明治27年逓信省告示第161号(『官報』、1894年(明治27年)8月16日)
  12. ^ a b 明治28年逓信省告示第130号(『官報』、1895年(明治28年)8月20日)
  13. ^ a b c d e f g 山口修、「日清郵便約定の成立(上)」、『聖心女子大学論叢』第55号所収(5から51頁)、1980年(昭和55年)6月、聖心女子大学
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  21. ^ a b c d e f g 大正12年逓信省告示第1号(『官報』、1923年(大正12年)1月1日)
  22. ^ a b 外務省条約局編、『条約集 第一輯第一号 華府会議諸条約及諸決議』(88から89頁)、1922年(大正11年)8月、外務省
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  24. ^ 大正12年逓信省告示第14号(『官報』、1923年(大正12年)1月1日)
  25. ^ a b c 大正12年逓信省告示第14号(『官報』、1923年(大正12年)1月1日)
  26. ^ a b 大正12年逓信省告示第15号(『官報』、1923年(大正12年)1月1日)
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  105. ^ 駅逓局広告(『官報』(15から16頁)、1885年(明治18年)6月24日)
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  107. ^ 明治18年太政官布告第30号(『官報』、1885年(明治18年)9月16日)。なお別冊は『農商工公報』第8号(272から275頁、1885年(明治18年)10月15日、農商務省)に掲載。
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  110. ^ 駅逓局広告(『官報』(372頁)、1885年(明治18年)12月26日)
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  113. ^ 明治20年逓信省告示第236号(『官報』、1887年(明治20年)12月20日)
  114. ^ 郵政省貯金局編、『為替貯金事業百年史』(53頁)、1978年(昭和53年)3月、郵便貯金振興会
  115. ^ 明治20年逓信省告示第235号(『官報』、1887年(明治20年)12月20日)
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  118. ^ 逓信大臣官房文書課編、『逓信省第十二年報』(14から15頁)、1899年(明治32年)5月、逓信大臣官房
  119. ^ 明治31年勅令無号(『官報』、1898年(明治31年)12月20日)
  120. ^ 明治31年逓信省告示第335号(『官報』、1898年(明治31年)12月22日)
  121. ^ 明治31年逓信省公達第650号(逓信省通信局編、『明治三十四年一月現行 逓信法規類纂 為替貯金編』(555から654頁)、1901年(明治34年)3月、逓信省)
  122. ^ 明治32年逓信省告示第30号(『官報』、1899年(明治32年)1月25日)
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  249. ^ a b c d 馬場鍬太郎、『禹域学会叢書第一編 支那郵便制度』(206から207頁)、1923年(大正12年)5月、東亜同文書院内禹域学会
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  293. ^ 昭和16年逓信省告示第714号(『官報』、1941年(昭和16年)3月18日)
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  296. ^ 既に郵便、電信及電話官署経費渡切規則(明治38年勅令第62号)は、1922年(大正11年)4月1日の会計規則全部改正により廃止されていたが(大正11年勅令第1号)、郵便、電信及電話官署経費渡切規則施行細則は会計規則第61条第1項の2号に規定する逓信官署にそのまま準用されていた(大正11年逓信省令第29号)。
  297. ^ 昭和16年逓信省令第50号(『官報』、1941年(昭和16年)5月8日)
  298. ^ 昭和16年逓信省告示第1177号(『官報』、1941年(昭和16年)5月8日)
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参考文献

官報』及び『法令全書』は上記脚註各号に示す。

  • 『駅逓局職員録』、1882年(明治15年)2月、鴻盟社
  • 『農商工公報』第8号、1885年(明治18年)10月15日、農商務省)
  • 『明治二十一年(十二月十日現在) 職員録(甲)』、1888年(明治21年)、印刷局
  • 『明治二十年(十一月三十日現在) 職員録(甲)』、1888年(明治21年)2月、内閣官報局
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  • 逓信省編、『逓信省職員録』、1895年(明治28年)9月、逓信省
  • 逓信省編、『明治廿九年八月現行 逓信法規類纂 郵便編』、1897年(明治30年)3月、逓信省
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  • 『明治三十五年 職員録(甲)』、1902年(明治35年)、印刷局
  • 『逓信公報令達類編 第十五ノ下』、1902年(明治35年)4月、逓信省
  • 逓信省編、『逓信省職員録』、1902年(明治35年)12月、逓信省
  • 『逓信公報令達類編 第十六ノ下』、1903年(明治36年)4月、逓信省
  • 田山宗堯編、『現行通信法規 第二巻 外国郵便篇』、1903年(明治36年)5月、警眼社
  • 『逓信公報令達類篇 第十八ノ上』、1905年(明治38年)5月、逓信省
  • 『明治三十九年 職員録(甲)』、1906年(明治39年)、印刷局
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  • 『明治四十五年 職員録(甲)』、1912年(明治45年)、印刷局
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  • 『逓信協会雑誌』第80号、1915年(大正4年)2月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第85号、1915年(大正4年)7月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第92号、1916年(大正5年)2月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第99号、1916年(大正5年)9月、逓信協会
  • 『大正六年 職員録(甲)』、1917年(大正6年)、印刷局
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  • 『大正十年 職員録』、1921年(大正10年)12月、印刷局
  • 東方通信社調査部編、『華府会議大観』、1922年(大正11年)4月、東方通信社
  • 外務省条約局編、『条約集 第一輯第一号 華府会議諸条約及諸決議』、1922年(大正11年)8月、外務省
  • 『大正十年 職員録』、1922年(大正11年)11月、印刷局
  • 外務省条約局編、『日支間並支那ニ関スル日本及他国間ノ条約』、1923年(大正12年)3月、外務省条約局
  • 馬場鍬太郎、『禹域学会叢書第一編 支那郵便制度』、1923年(大正12年)5月、東亜同文書院内禹域学会
  • 『上海概覧』、1923年(大正12年)11月、上海日本商業会議所
  • 『大正十三年 職員録』、1924年(大正13年)10月、印刷局
  • 逓信大臣官房秘書課、『大正十五年九月現在 逓信省職員録』、1926年(大正15年)11月、逓信省経理局
  • 『逓信協会雑誌』第226号、1927年(昭和2年)6月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第230号、1927年(昭和2年)10月、逓信協会
  • 逓信大臣官房秘書課編、『昭和二年九月現在 逓信省職員録 甲』、1927年(昭和2年)11月、逓信省
  • 『逓信協会雑誌』第240号、1928年(昭和3年)8月、逓信協会
  • 上海日報社調査部編、『中国年鑑 民国20年』、1931年(昭和6年)6月、上海日報社出版部
  • 大阪市産業部東亜課編、『東洋貿易研究』第11巻第2号、1932年(昭和7年)2月、大阪市産業部
  • 『逓信協会雑誌』第285号、1932年(昭和7年)4月、逓信協会
  • 逓信大臣官房秘書課、『逓信省職員録』、1932年(昭和7年)9月、逓信省経理局
  • 日本郵船株式会社貨物課編、『我社各航路ノ沿革』、1932年(昭和7年)9月、日本郵船
  • 上海居留民団編、『昭和七年 上海事変誌』、1933年(昭和8年)5月、上海居留民団
  • 『逓信協会雑誌』第301号、1933年(昭和8年)9月、逓信協会
  • 中村順三、『星に映る鮮満支』、1935年(昭和10年)11月、中村自助
  • 逓信大臣官房秘書課編、『昭和十一年十一月二十日現在 職員録』、1936年(昭和11年)11月、逓信省経理局
  • 逓信協会編、『郵便の父 前島密遺稿集 郵便創業談』、1936年(昭和11年)12月、逓信協会
  • 逓信大臣官房秘書課、『逓信省職員録』、1937年(昭和12年)5月、逓信省経理局
  • 『外交時報』第82巻第4号通巻第779号、1937年(昭和12年)5月15日、外交時報社
  • 『逓信協会雑誌』第350号、1937年(昭和12年)10月、逓信協会
  • 逓信省電務局編、『電務研究資料』第16号、1937年(昭和12年)10月、逓信省電務局
  • 逓信省電務局編、『電務研究資料』第19号、1938年(昭和13年)5月、逓信省電務局
  • 逓信省電務局編、『電務研究資料』第20号、1938年(昭和13年)7月、逓信省電務局
  • 『技術日本』第187号、1938年(昭和13年)7月、日本技術協会
  • 『逓信協会雑誌』第359号、1938年(昭和13年)7月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第363号、1938年(昭和13年)11月、逓信協会
  • 菊池武徳編、『伯爵珍田捨己伝 明治・大正・昭和外交史料』、1938年(昭和13年)12月、共盟閣
  • 『逓信協会雑誌』第364号、1938年(昭和13年)12月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第366号、1939年(昭和14年)2月、逓信協会
  • 『写真週報』第72号、1939年(昭和14年)7月5日、内閣情報部
  • 『電務研究資料』第22号、1939年(昭和14年)8月、逓信省電務局
  • 百老滙生、「上海案内(一)」、『交通経済』第10巻第9号、1939年(昭和14年)9月、交通経済社
  • 『逓信協会雑誌』第376号、1939年(昭和14年)12月、逓信協会
  • 逓信大臣官房秘書課、『逓信省職員録』、1940年(昭和15年)6月、逓信省経理
  • 外務省調査部編、『大日本外交文書 第九巻 自明治九年一月 至明治九年十二月』、1940年(昭和15年)9月、日本国際協会
  • 逓信青年社編、『加除訂正式 逓信法令集 電信篇』、1940年(昭和15年)10月、逓信青年社
  • 逓信省編、『逓信事業史 第一巻』、1940年(昭和15年)10月、逓信協会
  • 逓信省編、『逓信事業史 第二巻』、1940年(昭和15年)12月、逓信協会
  • 逓信省編、『逓信事業史 第三巻』、1940年(昭和15年)12月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第388号、1940年(昭和15年)12月、逓信協会
  • 佐々木元勝、『野戦郵便旗』、1941年(昭和16年)2月、日本講演通信社
  • 『逓信協会雑誌』第391号、1941年(昭和16年)3月、逓信協会
  • 『逓信協会雑誌』第392号、1941年(昭和16年)4月、逓信協会
  • 逓信省電務局調査課編、『昭和十六年度版 電務年鑑』、1941年(昭和16年)12月、逓信省電務局調査課
  • 海軍大臣官房編、『海軍制度沿革 第五巻』、1942年(昭和17年)1月、海軍省
  • 逓信大臣官房秘書課編、『昭和十七年四月二十日現在 職員録』、1942年(昭和17年)5月、逓信大臣官房秘書課
  • 東亜研究所第一調査委員会編、『資料甲第十九号C 諸外国の対支投資 中巻』、1943年(昭和18年)3月、東亜研究所
  • 『外交時報』第107巻第2号通巻927号、1943年(昭和18年)7月15日、外交時報社
  • 『職員録 昭和十八年七月一日現在』、1943年(昭和18年)9月、内閣印刷局
  • 『昭和二十年二月一日現在 職員録』、1945年(昭和20年)、運輸通信省通信院
  • 電波監理委員会編、『日本無線史 第五巻』、1951年(昭和26年)2月、電波監理委員会
  • 電気通信協会外地及び海外電気通信史編纂委員会編、『外地海外電気通信史資料 11 華中・華南の部』、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
  • 電気通信協会外地及び海外電気通信史編纂委員会編、『外地海外電気通信史資料 13 共通の部』、1956年(昭和31年)3月、日本電信電話公社
  • 富岡定俊編、『ロシア大革命史』第5巻、1958年(昭和33年)5月、ロシア大革命史刊行会
  • 日本電信電話公社電信電話事業史編集委員会編、『電信電話事業史 第6巻』、1959年(昭和34年)12月、電気通信協会
  • 逓信外史刊行会編、『逓信史話 上』、1961年(昭和36年)12月、電気通信協会
  • 郵政省編、『続逓信事業史 第九巻』、1962年(昭和37年)10月、前島会
  • 郵政省編、『郵政百年史年表』、1967年(昭和42年)2月、吉川弘文館
  • 藤井光男、「わが国原蓄期における政商資本の抬頭とその活動の限界について(二)――三菱における海運資本の形成過程――」、『商学集志』第37巻第1号所収、1967年(昭和42年)7月、日本大学商学研究会
  • 郵政省編、『郵政百年史資料 第十四巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館
  • 郵政省編、『郵政百年史資料 第九巻』、1968年(昭和43年)3月、吉川弘文館
  • 花岡薫、『海底電線と太平洋の百年』、1968年(昭和43年)10月、日東出版社
  • 郵政省編、『郵政百年史資料 第十一巻』、1968年(昭和43年)12月、吉川弘文館
  • 郵政省編、『郵政百年史資料 第十巻』、1969年(昭和44年)3月、吉川弘文館
  • 高橋善七、『お雇い外国人 7 通信』、1969年(昭和44年)3月、鹿島研究所出版会
  • 郵政省編、『郵政百年史資料 第一巻』、1970年(昭和45年)3月、吉川弘文館
  • 郵政省編、『郵政百年史』、1971年(昭和46年)3月、逓信協会
  • 日本電信電話公社海底線施設事務所編、『海底線百年の歩み』、1971年(昭和46年)3月、電気通信協会
  • 高橋善七、『近代交通の成立過程 下巻 九州における通信を中心として』、1971年(昭和46年)3月、吉川弘文館
  • 北上健、『日本郵便百年の年表① 明治編その1』、1973年(昭和48年)3月、いずみ切手研究会
  • 日本郵趣協会編、『在中国日本郵便100年』、1976年(昭和51年)11月、日本郵趣出版
  • 浅見啓明、『たて書丸一印の分類』、1977年(昭和52年)7月、日本郵趣出版
  • 郵政省貯金局編、『為替貯金事業百年史』、1978年(昭和53年)3月、郵便貯金振興会
  • 今井修、『日本切手100年小史』、1978年(昭和53年)7月、日本郵趣出版
  • 森克己・沼田次郎編、『体系日本史叢書5 対外関係史』、1978年(昭和53年)8月、山川出版社
  • 山口修、『外国郵便の一世紀』、1979年(昭和54年)3月、国際通信文化協会
  • 山口修、「日清郵便約定の成立(上)」、『聖心女子大学論叢』第55号所収、1980年(昭和55年)6月、聖心女子大学
  • 篠原宏、『外国郵便事始め』、1982年(昭和57年)4月、日本郵趣出版
  • 村本脩三編、『国際電気通信発達史 日本編』、1984年(昭和59年)8月、国際電気通信学園
  • 日本郵趣協会編、『日本郵趣協会四十年の歩み』、1986年(昭和61年)12月、日本郵趣出版
  • 山口修編、『郵便百科年表』、1987年(昭和62年)4月、ぎょうせい
  • 日本経営史研究所編、『近代日本海運生成史料』、1988年(昭和63年)10月、日本郵船
  • 麦力開・色力木、「中国郵政事業の近代史と課題」、『現代社会研究科論集 京都女子大学大学院現代社会研究科博士後期課程研究紀要』第3号所収、2009年(平成21年)3月、京都女子大学
  • 森勝彦、「上海越界路空間の不管地性」、『国際文化学部論集』第15巻第3号所収、2014年(平成26年)12月、鹿児島国際大学
  • 薛軼群、「1930年海底線通信協定の改定をめぐる攻防――南京国民政府対大北電信会社の交渉を中心に――」、『アジア地域文化研究』第11巻所収、2015年(平成27年)3月、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会
  • 森永貫子、「ロシア帝政末期の茶と社会運動」、『立命館文學』第661号所収、2019年(平成31年)3月、立命館大学人文学会
  • 望月みわ、「明治期における在清日本郵便局の展開――対清通信利権をめぐる逓信省の積極化――」、『史学雑誌』第131巻第9号所収、2022年(令和4年)9月、史学会



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