ヴォロコラムスクでの展開
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「第1親衛戦車旅団」の記事における「ヴォロコラムスクでの展開」の解説
1941年10月17日の夜、第4戦車旅団はスターリンの個人的な命令によって、モスクワ近郊のヴォロコラムスク方面へ単独で移動し始めた。360キロに渡る道のりを進んだのち、第316狙撃師団(ロシア語版)(イヴァン・パンフィーロフ(ロシア語版)少将指揮)や騎兵集団(レフ・ドヴァートル(ロシア語版)少将指揮)とともにモイセエフカやチェンツィ(ロシア語版)、ボリショエ・ニコリスコエ(ロシア語版)、チェチェリノ(ロシア語版)、ドゥボセコヴォ(ロシア語版)などの村を抜け、ヴォロコラムスク=モスクワ間を結ぶ幹線道路の北側の防衛についた。 10月20日、セルプホフにいたドミトリー・ラヴリネンコが旅団に合流したが、これは第50軍(ロシア語版)の要請を受けての事であった。彼はセルプホフ付近にいたドイツの偵察部隊を撃破し、6門の迫撃砲や10台のサイドカーなどを降伏させた上で数人の捕虜を奪還し、軍用のバスを鹵獲した。鹵獲したバスの車内には書類と地図が残されていたため、カトゥコフは即座にモスクワの軍司令部へ送っている。 ヴォロコラムスクを占領したドイツ軍は、第316狙撃兵師団(ロシア語版)の右翼側から攻撃を行うため、ヴォロコラムスクの北東に位置するカリストヴォ(ロシア語版)村に部隊を集結させた。パンフィーロフはこの村への総攻撃を決定し、カトゥコフに対しては戦車部隊によってこれを支援するよう要請した。10月28日、ピョートル・ヴォロビョーフ(ロシア語版)中尉はラフトプーロ少佐の後を継いで第2戦車大隊指揮官に就任し、カトゥコフからカリストヴォ攻撃の支援を命じられた。初めにT-34から成る部隊が村へ侵入し、数両の戦車を撃破した。しかし、ヴォロビョーフも損害を負っており、無事に戻ったのは3両のみであった。また、彼の乗る戦車は撃破され村に取り残された。彼はなんとか村からの脱出を試みたが、沼にはまり込んだためT-34は横転してしまった。既に周囲をドイツ兵が取り囲んでいたが、ヴォロビョーフを除く搭乗員は戦車下部のハッチから脱出に成功している。唯一彼は上から脱出を図ったが、ドイツ兵のマシンガンの標的にされ戦死した。彼は6月に大祖国戦争が勃発してから10月に戦死するまでの僅か4か月で、14両の戦車や自走砲、3台の装甲車を撃破している。なお、大隊指揮官はアレクサンドル・ブルダに引き継がれた。 ウィキソースにソ連国防人民委員1941年11月11日付命令第337号「第4戦車旅団から第1親衛戦車旅団への改名に関して」の原文があります。 11月10日、カトゥコフは戦車軍少将に列せられ、レーニン勲章を受章した。翌11日、オリョールとムツェンスクでの勇敢な戦闘を称えられた第4戦車旅団は、ソ連国防人民委員1941年11月11日付命令第337号により親衛部隊(ロシア語版)の栄誉を受け、第1親衛戦車旅団と改称した。赤軍では初の親衛戦車部隊である。11月21日には第1親衛戦車旅団に親衛部隊旗が伝達された。 11月12日から15日にかけて、第1親衛戦車旅団は、スキルマノヴォ(ロシア語版)=コズロヴォ地区からドイツ軍の拠点の排除に取りかかった。はじめに、第18狙撃兵師団(ロシア語版)はスキルマノヴォ村を占領していたドイツの第10装甲師団(ロシア語版)の前哨陣地を突破しようと試みたが、失敗に終わった。この失敗を受け、コンスタンチン・ロコソフスキー率いる第16軍(ロシア語版)はスキルマノヴォ村の奪還を決断した。ロコソフスキーは第18狙撃兵師団と第50騎兵師団に加え、新たに編入された第1親衛軍、第27戦車旅団、第28戦車旅団と砲兵連隊や対戦車兵連隊、3個カチューシャ大隊を従えて、より強力な攻勢部隊を編成した。第1親衛戦車旅団は15両のT-34と2両のKV-1で敵陣営の正面から突破を図り、3両のT-34(ラヴリネンコ小隊)が敵の位置を明かすため先陣を切って砲撃した。ラヴリネンコ小隊に続いて、KV-1(ザスカリコ、ポリャンスキー各車長)が援護に当たっている。第27、第28戦車旅団は両側面から挟み込みに回った。 11月13日から14日にかけての猛攻により、スキルマノヴォの橋頭保を奪取した。ソ連側の記録によると、スキルマノヴォにおける一連の戦闘で、ドイツ側の戦車34両、火砲23門、迫撃砲26門、トラック8台、機関銃巣(ロシア語版)20ヵ所、木製トーチカ(ロシア語版)13ヵ所を破壊し、最大3個歩兵中隊を撃破したとされている。ドイツ側では、「激しい戦闘の後、橋頭堡はそれ以上の損害を避けるため降伏した。第10装甲師団は2両の52トン戦車と4両の大破状態にある戦車を含む、計15両の敵戦車を撃破した。」との記録がみられる。一方、ソ連側の資料では、11月16日までに、第1親衛戦車旅団は19両のKV戦車とT-34、20両の軽戦車が残存していたとされる。カトゥコフは、「短期間の歴史の中で初めて、旅団は大きな損害を被った」と一連の戦闘を評価している。 橋頭保の占領が成功した後、予期される攻勢をかわすためにヴォロコラムスクに位置するドイツ軍の後方へ進出する決断をした。11月16日の夜、第16軍は部隊の再編成を行い、同日10時から戦闘が始まった。その日の朝、第316狙撃兵師団と騎兵部隊はドヴァートル指揮下で既に戦火を交えている。第16軍は終日右翼での攻撃に徹し、左翼及び中央の防衛に努めた。特に、第1親衛戦車旅団が加わった第316狙撃兵師団と、第11戦車師団(ロシア語版)第1戦車大隊が配属されたドヴァートル指揮の騎兵部隊は、ドイツ国防軍第46自動車化軍団(ロシア語版)第5および第11装甲師団(ロシア語版)(ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ装甲兵大将指揮)及び第5軍団第2装甲および第35、第106歩兵師団(ロシア語版)(リヒャルト・ルオッフ歩兵大将指揮)と激しく戦火を交えた。 16日から30日にかけて、旅団はヴォロコラムスクで防衛戦に徹し、第16軍のイストラ貯水池(ロシア語版)への後退を援護した。ソ連側の記録によると、退却を支援した一連の戦闘で戦車106両、火砲16門、対戦車砲37門、航空機5機、迫撃砲16門、トラック8台、機関銃巣27ヵ所、自動車55台、バイク51台などを撃破した。一方で、旅団は7両の戦車を失っている。11月24日までに保有戦車は26両に、27日には17両(KV-1:2両、T-34:6両、T-60:9両)に減少した。 11月29日、レニングラード高速道路(ロシア語版)沿いに位置しているソルネチノゴルスク(ロシア語版)からクリュコヴォ(ロシア語版)にかけての地域でドイツ軍の突破口を塞ぐため、旅団はバランツェヴォ(ロシア語版)やブリョホヴォ(ロシア語版)、カメンカに築かれた新たな防衛線に移動した。モスクワまではわずか40キロの地点である。 12月5日、ラヴリネンコ親衛上級中尉に対してソ連邦英雄の叙勲が推薦された。推薦リストには「…10月4日から現在まで継続中の戦闘作戦に参戦し続けている。オリョールとヴォロコラムスク方面での戦闘中、ラヴリネンコと乗組員は37両の重戦車、中戦車、軽戦車を撃破した…」と記されている。 12月4日、モスクワ近郊でソ連軍の攻撃が行われたが、部隊を立て直して計39両となった第1親衛戦車旅団も加わった。第145(ロシア語版)、第1親衛、第146、第17(ロシア語版)の各戦車旅団は、第16軍の狙撃兵部隊とともにドイツの防衛線を破り、反撃を加えながら進軍した。12月4日から8日にかけて、ドイツの第5装甲師団と第35歩兵師団が防衛していた要点・クリュコヴォ村(現在のゼレノグラード市域)で激戦(ロシア語版)が勃発した。パンフィーロフ指揮下である第8親衛狙撃兵師団の一部と第1親衛戦車旅団がこれを夜間2度にわたって攻撃するなどした結果、8日までにクリュコヴォの解放に成功している。 12月8日からは第20軍(ロシア語版)麾下となり、イストラ(ロシア語版)に置かれているドイツ軍部隊撃破のためペトロフスコエ(ロシア語版)、ダヴィドフスコエ、ブニコヴォ(ロシア語版)、ヤベジノ、ゼニキノ(ロシア語版)、ミカニノ(ロシア語版)、ノヴォイエルサリムスカヤ(ロシア語版)、ヤドレニノ、ルミャンツェヴォ(ロシア語版)、ルブツォヴォ(ロシア語版)、クリュコヴォ(ロシア語版)、カミェンカの各地域で攻撃を加えた。 12月12日、第1親衛戦車旅団はイストラ=ヴォロコラムスク間を結ぶ幹線道路に沿って攻撃を始めた。12月15日までにイストラ貯水池西部のドイツ軍部隊は壊滅したが、フョードル・レミゾフ(ロシア語版)やカトゥコフの部隊が貯水池の北と南を迂回して、ドイツ軍の側面方向へ撤退したことが大きな役割を果たした。 12月18日にはシチョヴォ(ロシア語版)、ポクロフスコエ(ロシア語版)、グリャディ(ロシア語版)、チスメナ(ロシア語版)付近で戦闘が起こった。この日、ゴリュニ(ロシア語版)の村で起こった戦闘において、ソ連の戦車エースであったドミトリー・ラヴリネンコ親衛上級中尉が戦死している。彼はわずか2ヵ月で通算52両の戦車(自走砲を含めると58両)を撃破したエースであり、その撃破数は大戦終結まで一番であり続けた。 ヴォロコラムスクの街道付近で、遠く首都モスクワを望むT-34(1941年11月) 第1親衛戦車旅団のT-34(1941年12月) イストラにあるソ連の陣を攻撃するドイツ戦車部隊(1941年11月25日) 12月20日、ヴォロコラムスクを解放した後、第1親衛戦車旅団は第17戦車旅団(ロシア語版)とともにアルフェロヴォ、セデリニツァ、ザハリノ、ポグビノ、スパス=リュホフスコエを目指して西へ向かった。 12月26日、ミハイロフスコエ(ロシア語版)で戦闘が起こったが、この戦いで機械化歩兵旅団の中隊司令官だったテレンティー・リャボフ親衛中尉が戦死している。旅団はさらに進軍し、ラーマ川からルザ、ルジナ・ゴラ(ロシア語版)に沿って展開されていたドイツ軍の重厚な防衛線を突破した。チムコヴォ(ロシア語版)の要塞を巡る戦いでは、第1親衛戦車旅団の戦車兵であるピョートル・モルチャノフ親衛上級軍曹が戦死したが、彼は通算で11両の戦車を撃破していたエースであった。 12月28日、旅団はイヴァノフスコエで激しい戦闘を展開した。12月30日にはチムコヴォに陣取っていたドイツ軍を壊滅させている。 1942年1月から3月にかけて、旅団はルジェフ=ヴャジマ作戦(ロシア語版)に加わった。1月、ヴォロコラムスク付近のイヴァノフスコエ村にカトゥコフの指揮所が設置されたが、この地には、1981年12月20日に記念碑が建てられた。 1月10日、ドイツ軍の防衛線を突破した第20軍は、攻勢に打って出た。第1親衛戦車旅団の戦車はそれぞれ、ザハリノ、ボリショエ・ゴロペロヴォ、マロエ・ゴロペロヴォ、チモニノ、コリェーボ、さらにグジャーツク(ヴォロコラムスクから西に70キロ)などに展開され、歩兵の支援を行った。1月16日、シャホフスカヤ駅(ロシア語版)を奪還し、ラムスクのドイツ防衛線は一掃された。 1月23日にはスモレンスク地方のカルマノフスキー地区(ロシア語版)で戦闘状態となった。1月25日に旅団は第5複合軍(ロシア語版)へ移管された。 ウィキソースにソ連軍最高総司令部1942年1月22日付命令第57号「戦車部隊の戦闘と戦闘運用に関して」の原文があります。 1942年2月から3月にかけて、第1親衛戦車旅団は他の部隊とともにスモレンスク州のカルマノフスキー地区やグジャーツク地区(ロシア語版)で戦闘を行っている。この間、第1親衛戦車旅団の戦車は独立した戦闘行動はとらず、あくまで第1(ロシア語版)、第40親衛狙撃兵旅団(ロシア語版)や第64自動車化狙撃兵旅団(ロシア語版)、第20軍の支援に徹していた。2月22日、スモレンスク州アルジャニキ(ロシア語版)村付近の戦闘で、「私たちのエース」と称されたコンスタンチン・サモヒン親衛大尉が戦死した。彼は通算で30両以上(一説には79両)の戦車を撃破したエースである。2月18日から21日の3日間で、旅団はKV-1を3両、T-34を8両失った。
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