ヴォロコラムスクでの展開とは? わかりやすく解説

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ヴォロコラムスクでの展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 18:40 UTC 版)

第1親衛戦車旅団」の記事における「ヴォロコラムスクでの展開」の解説

1941年10月17日の夜、第4戦車旅団スターリン個人的な命令によって、モスクワ近郊ヴォロコラムスク方面単独移動し始めた360キロに渡る道のり進んだのち、第316狙撃師団ロシア語版)(イヴァン・パンフィーロフ(ロシア語版少将指揮)や騎兵集団(レフ・ドヴァートル(ロシア語版少将指揮とともにモイセエフカやチェンツィ(ロシア語版)、ボリショエ・ニコリスコエ(ロシア語版)、チェチェリノ(ロシア語版)、ドゥボセコヴォ(ロシア語版)などの抜けヴォロコラムスクモスクワ間を結ぶ幹線道路北側防衛についた10月20日セルプホフにいたドミトリー・ラヴリネンコ旅団合流したが、これは第50軍ロシア語版)の要請受けての事であった。彼はセルプホフ付近にいたドイツ偵察部隊撃破し、6門の迫撃砲10台のサイドカーなどを降伏させた上で数人捕虜奪還し軍用バス鹵獲した。鹵獲したバスの車内には書類地図残されていたため、カトゥコフは即座にモスクワ軍司令部送っている。 ヴォロコラムスク占領したドイツ軍は、第316狙撃兵師団ロシア語版)の右翼側から攻撃を行うため、ヴォロコラムスク北東位置するカリストヴォ(ロシア語版部隊集結させた。パンフィーロフはこのへの総攻撃決定し、カトゥコフに対して戦車部隊によってこれを支援するよう要請した10月28日、ピョートル・ヴォロビョーフ(ロシア語版中尉はラフトプーロ少佐の後を継いで第2戦車大隊指揮官就任し、カトゥコフからカリストヴォ攻撃支援命じられた。初めにT-34から成る部隊侵入し、数両の戦車撃破した。しかし、ヴォロビョーフも損害負っており、無事に戻ったのは3両のみであったまた、彼の乗る戦車撃破され取り残された。彼はなんとかからの脱出試みたが、沼にはまり込んだためT-34横転してしまった。既に周囲ドイツ兵が取り囲んでいたが、ヴォロビョーフを除く搭乗員戦車下部ハッチから脱出成功している。唯一彼は上から脱出図ったが、ドイツ兵のマシンガン標的にされ戦死した。彼は6月大祖国戦争勃発してから10月戦死するまでの僅か4か月で、14両の戦車自走砲、3台の装甲車撃破している。なお、大隊指揮官アレクサンドル・ブルダ引き継がれた。 ウィキソースソ連国防人民委員1941年11月11日命令337号「第4戦車旅団から第1親衛戦車旅団への改名に関して」の原文あります11月10日、カトゥコフは戦車少将に列せられ、レーニン勲章受章した。翌11日オリョールムツェンスクでの勇敢な戦闘称えられた第4戦車旅団は、ソ連国防人民委員1941年11月11日命令337号により親衛部隊ロシア語版)の栄誉を受け、第1親衛戦車旅団改称した赤軍では初の親衛戦車部隊である。11月21日には第1親衛戦車旅団親衛部隊旗が伝達された。 11月12日から15日にかけて、第1親衛戦車旅団は、スキルマノヴォ(ロシア語版)=コズロヴォ地区からドイツ軍拠点排除取りかかったはじめに、第18狙撃兵師団ロシア語版)はスキルマノヴォ占領していたドイツ第10装甲師団ロシア語版)の前哨陣地突破しよう試みたが、失敗終わった。この失敗を受け、コンスタンチン・ロコソフスキー率い第16軍ロシア語版)はスキルマノヴォ奪還決断したロコソフスキーは第18狙撃兵師団と第50騎兵師団加え新たに編入された第1親衛軍、第27戦車旅団、第28戦車旅団砲兵連隊対戦車兵連隊、3個カチューシャ大隊従えて、より強力な攻勢部隊編成した第1親衛戦車旅団15両のT-34と2両のKV-1敵陣営正面から突破図り、3両のT-34(ラヴリネンコ小隊)が敵の位置明かすため先陣切って砲撃した。ラヴリネンコ小隊続いてKV-1(ザスカリコ、ポリャンスキー車長)が援護当たっている。第27、第28戦車旅団両側面から挟み込み回った11月13日から14日にかけての猛攻により、スキルマノヴォの橋頭保奪取したソ連側記録によると、スキルマノヴォにおける一連の戦闘で、ドイツ側戦車34両、火砲23門、迫撃砲26門、トラック8台、機関銃巣(ロシア語版20ヵ所、木製トーチカロシア語版13所を破壊し最大3個歩兵中隊撃破したとされている。ドイツ側では、「激し戦闘の後橋頭堡それ以上損害避けるため降伏した第10装甲師団は2両の52トン戦車と4両の大破状態にある戦車を含む、計15両の敵戦車撃破した。」との記録みられる一方ソ連側資料では、11月16日までに、第1親衛戦車旅団19両のKV戦車T-3420両の軽戦車残存していたとされる。カトゥコフは、「短期間歴史の中で初めて、旅団大きな損害被った」と一連の戦闘評価している。 橋頭保占領成功した後、予期される攻勢をかわすためにヴォロコラムスク位置するドイツ軍後方進出する決断をした。11月16日の夜、第16軍部隊再編成行い同日10時から戦闘始まったその日の朝、第316狙撃兵師団騎兵部隊はドヴァートル指揮下で既に戦火交えている。第16軍終日右翼での攻撃徹し左翼及び中央の防衛努めた。特に、第1親衛戦車旅団加わった316狙撃兵師団と、第11戦車師団(ロシア語版第1戦車大隊配属されたドヴァートル指揮騎兵部隊は、ドイツ国防軍46自動車化軍団ロシア語版)第5および第11装甲師団ロシア語版)(ハインリヒ・フォン・フィーティングホフ装甲兵大将指揮)及び第5軍団第2装甲および第35、第106歩兵師団ロシア語版)(リヒャルト・ルオッフ歩兵大将指揮)と激しく戦火交えた16日から30日にかけて、旅団ヴォロコラムスク防衛戦徹し第16軍イストラ貯水池ロシア語版)への後退援護したソ連側記録によると、退却支援した一連の戦闘戦車106両、火砲16門、対戦車砲37門、航空機5機、迫撃砲16門、トラック8台、機関銃27ヵ所、自動車55台、バイク51台などを撃破した一方で旅団は7両の戦車失っている。11月24日までに保有戦車26両に、27日には17両(KV-1:2両、T-34:6両、T-60:9両)に減少した11月29日レニングラード高速道路ロシア語版)沿いに位置しているソルネチノゴルスク(ロシア語版)からクリュコヴォ(ロシア語版)にかけての地域ドイツ軍突破口を塞ぐため、旅団はバランツェヴォ(ロシア語版)やブリョホヴォ(ロシア語版)、カメンカに築かれ新たな防衛線に移動したモスクワまではわずか40キロ地点である。 12月5日、ラヴリネンコ親衛上級中尉に対してソ連邦英雄叙勲推薦された。推薦リストには「…10月4日から現在まで継続中戦闘作戦参戦し続けている。オリョールヴォロコラムスク方面での戦闘中、ラヴリネンコと乗組員37両の重戦車中戦車軽戦車撃破した…」と記されている。 12月4日モスクワ近郊ソ連軍攻撃が行われたが、部隊立て直して39となった第1親衛戦車旅団加わった。第145ロシア語版)、第1親衛、第146、第17ロシア語版)の各戦車旅団は、第16軍狙撃兵部隊とともにドイツ防衛線を破り反撃加えながら進軍した12月4日から8日にかけて、ドイツ第5装甲師団と第35歩兵師団防衛していた要点・クリュコヴォ現在のゼレノグラード市域)で激戦ロシア語版)が勃発した。パンフィーロフ指揮下である第8親衛狙撃兵師団一部第1親衛戦車旅団がこれを夜間2度わたって攻撃するなどした結果8日までにクリュコヴォの解放成功している。 12月8日からは第20軍ロシア語版麾下となり、イストラロシア語版)に置かれているドイツ軍部隊撃破のためペトロフスコエ(ロシア語版)、ダヴィドフスコエ、ブニコヴォ(ロシア語版)、ヤベジノ、ゼニキノ(ロシア語版)、ミカニノ(ロシア語版)、ノヴォイエルサリムスカヤ(ロシア語版)、ヤドレニノ、ルミャンツェヴォ(ロシア語版)、ルブツォヴォ(ロシア語版)、クリュコヴォ(ロシア語版)、カミェンカの各地域攻撃加えた12月12日第1親衛戦車旅団イストラヴォロコラムスク間を結ぶ幹線道路沿って攻撃始めた12月15日までにイストラ貯水池西部ドイツ軍部隊壊滅したが、フョードル・レミゾフ(ロシア語版)やカトゥコフの部隊貯水池の北と南を迂回してドイツ軍側面方向撤退したことが大きな役割果たした12月18日にはシチョヴォ(ロシア語版)、ポクロフスコエ(ロシア語版)、グリャディ(ロシア語版)、チスメナ(ロシア語版付近戦闘起こった。この日、ゴリュニ(ロシア語版)の起こった戦闘において、ソ連戦車エースであったドミトリー・ラヴリネンコ親衛上級中尉戦死している。彼はわずか2ヵ月通算52両の戦車自走砲含めると58両)を撃破したエースであり、その撃破数は大戦終結まで一番であり続けたヴォロコラムスク街道付近で、遠く首都モスクワを望むT-341941年11月第1親衛戦車旅団T-341941年12月イストラにあるソ連の陣を攻撃するドイツ戦車部隊1941年11月25日12月20日ヴォロコラムスク解放した後、第1親衛戦車旅団は第17戦車旅団ロシア語版とともにアルフェロヴォ、セデリニツァ、ザハリノ、ポグビノ、スパス=リュホフスコエを目指し西へ向かった12月26日、ミハイロフスコエ(ロシア語版)で戦闘起こったが、この戦いで機械化歩兵旅団中隊司令官だったテレンティー・リャボフ親衛中尉戦死している。旅団はさらに進軍しラーマ川からルザ、ルジナ・ゴラ(ロシア語版)に沿って展開されていたドイツ軍重厚な防衛線を突破した。チムコヴォ(ロシア語版)の要塞を巡る戦いでは、第1親衛戦車旅団戦車兵であるピョートル・モルチャノフ親衛上級軍曹戦死したが、彼は通算11両の戦車撃破していたエースであった12月28日旅団はイヴァノフスコエで激し戦闘展開した12月30日にはチムコヴォに陣取っていたドイツ軍壊滅させている。 1942年1月から3月にかけて、旅団ルジェフヴャジマ作戦ロシア語版)に加わった1月ヴォロコラムスク付近のイヴァノフスコエにカトゥコフの指揮所が設置されたが、この地には、1981年12月20日記念碑建てられた。 1月10日ドイツ軍防衛線を突破した第20軍は、攻勢打って出た第1親衛戦車旅団戦車それぞれ、ザハリノ、ボリショエ・ゴロペロヴォ、マロエ・ゴロペロヴォ、チモニノ、コリェーボ、さらにグジャーツクヴォロコラムスクから西に70キロ)などに展開され歩兵支援行った1月16日、シャホフスカヤ駅(ロシア語版)を奪還し、ラムスクのドイツ防衛線は一掃された。 1月23日にはスモレンスク地方のカルマノフスキー地区ロシア語版)で戦闘態となった。1月25日旅団は第5複合軍(ロシア語版)へ移管された。 ウィキソースソ連軍最高総司令部1942年1月22日命令57号「戦車部隊戦闘戦闘運用に関して」の原文あります1942年2月から3月にかけて、第1親衛戦車旅団は他の部隊とともにスモレンスク州のカルマノフスキー地区グジャーツク地区ロシア語版)で戦闘行っている。この間第1親衛戦車旅団戦車独立した戦闘行動はとらず、あくまで第1(ロシア語版)、第40親衛狙撃兵旅団ロシア語版)や第64自動車化狙撃兵旅団ロシア語版)、第20軍支援徹していた。2月22日スモレンスク州アルジャニキ(ロシア語版付近戦闘で、「私たちエース」と称されコンスタンチン・サモヒン親衛大尉戦死した。彼は通算30両以上(一説には79両)の戦車撃破したエースである。2月18日から21日3日間で、旅団KV-1を3両、T-34を8両失った

※この「ヴォロコラムスクでの展開」の解説は、「第1親衛戦車旅団」の解説の一部です。
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