ヴォロネジ戦線での防衛戦
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「第1親衛戦車旅団」の記事における「ヴォロネジ戦線での防衛戦」の解説
1942年3月下旬、モスクワ近郊で約6か月にわたり展開された戦闘が終わると、第1親衛戦車旅団はソコリニキ地区(ロシア語版)のソ連軍最高総司令部(ロシア語版)の予備軍に移った。1941年冬から1942年春にかけての戦闘で得られた経験から、旅団は敵の防衛線の深部で独立した行動をとる能力が欠如していることが示された。以下は1979年に記された軍事研究の一部抜粋である。「…前線と軍隊の構成に強大な戦車部隊が存在しないため、戦術的成功を作戦的成功へと昇華させる、攻勢の重要課題の遂行を不可能にしていたのである。このため、モスクワ近郊での反攻や1942年冬に行われたその後の攻勢作戦では、ソ連軍は敵の大集団を包囲してより攻撃を深化させることができず、局地的な攻撃に徹していた。したがって、高い機動力と大きな打撃力を備えた戦車部隊構築の必要性は、当時の戦車軍団設置における最も重要な課題の一つだった。」ソ連軍におけるこれら強大な戦車部隊復活の第一歩は、戦車軍団の創設だった。 1942年4月、第1親衛戦車旅団は新たに設置された第1戦車軍団(ロシア語版)の基幹部隊となった。旅団司令官も、昇進に伴う退任を決めたカトゥコフからニコライ・チューヒン(ロシア語版)親衛大佐へ代わっている。4月中にリペツクに到着した第1親衛戦車旅団は他の旅団と合流し、4月の終わりまでに第1戦車軍団の人員確保を終えて戦闘訓練へ移行した。 ソ連軍最高総司令部1942年4月20日付令第170284号により、第1、第3(ロシア語版)、第4戦車軍団(ロシア語版)はブリャンスク戦線に移管された。軍団はオリョール州リーヴヌィ北部の村に拠点を置いた。 6月28日の朝、ドイツ第2軍(マクシミリアン・フォン・ヴァイクス騎兵大将指揮)、第4装甲軍(ヘルマン・ホト上級大将指揮)、ハンガリー第2軍(英語版)(ヤーニ・グスターフ上級大将指揮)がブリャンスク戦線の左翼側から攻撃を仕掛けたことによって、ヴォロネジの戦い(ロシア語版)が勃発した。ブリャンスク戦線及び南西戦線の防衛を相次いで突破したドイツ軍は、ヴォロネジへと急いだ。 1942年6月30日、オリョールで旅団の最初の戦闘が行われた。ムラフスキー・シュリャフ(ロシア語版)村(リーヴヌィ付近)での戦闘では、ソ連邦英雄であるイヴァン・リュブシュキン(ロシア語版)親衛中尉が戦死した。鉄道駅付近ではアレクサンドル・ブルダ率いる大隊部隊が空爆に見舞われている。鉄道に沿って進軍していた大隊は、同時に側面からドイツの対戦車砲を浴びた。大隊は駅のプラットフォームから直接反撃を加え、ドイツを退かせて優位に立った。この戦闘に参加していたアナトリー・ラフトプーロ(ロシア語版)の回想では、以下のように言及されている。 この戦闘で最高の戦車乗りの1人である、ソ連邦英雄イヴァン・リュブシュキンが戦死した。彼がヒトラー主義者らの火砲の対処をしていたとき、「34」の砲塔に砲弾が直撃した。リュブシュキンと砲手のリトヴィネンコは即死し、砲手兼通信手のエゴロフは重傷を負い、操縦手のサフォノフのみ無傷だった。彼は炎上する戦車から飛び降りた。リュブシュキンの戦車は日没まで同志の前で燃え続けていたそうだが、その光景を見ながら彼らがどんな思いをしたのか、言葉ではとても言い表せない…。 リュブシュキンは合計で20両の戦車や自走砲を撃破した。 1942年7月1日から9月7日まで、第1親衛戦車旅団は第1戦車軍団の構成部隊として、ヴォロネジ付近のブリャンスク戦線で第13軍(ロシア語版)と第38軍(ロシア語版)の帯同で防衛戦を繰り広げた(ヴォロネジ=ヴォロシーロフグラード作戦(ロシア語版))。中でもオピトノエ・ポレ(ロシア語版)やユジノ、ヴェレンカ、ムラフスキー・シュリャフなどでは特に激しい戦闘となった。7月にはヴォロネジで旅団の工兵中隊(V・E・イワシェンコ指揮)が戦車の修理に当たり、80両が戦線に復帰している。 戦車が復帰した旅団は一転、レビャジエ(ロシア語版)、ロモヴォ、ソモヴェなどで攻勢に出た。8月12日から8月17日にかけて、戦車部隊はルブツォヴォ=コヴェチエを攻撃しリペツクのドイツ部隊の壊滅を図った。この戦いの最中、旅団司令官のチューヒンが病気により退任したため、新たにウラジーミル・ゴレロフ(ロシア語版)中佐が司令官に就いている。
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