ユダヤ・キリスト教
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ユダヤ・キリスト教」の解説
詳細は「創世記」を参照 ユダヤ教、そしてその後につらなるキリスト教(及びイスラム教)は全知全能の神による世界の創造を説いてきた。 もっとも、古来、ユダヤ教の内部では、本稿のような問いを投げかけることはある種のタブー、不道徳な行為として戒められてきた。これは存在の問題について本当に追求をはじめると、素朴な宗教的な説明ではとても納得できなくなる(例えば神がなぜあるのか、神がいるとしてその神が世界を作ったならなぜ苦しみがあるのか、といった問題)、そしてそうした論理的問題から信仰からの離脱、不信仰を引き起こしやすいためであった。例えばユダヤ教の聖典であるタルムードには次のような記述がある。『以下の四つのことについて思索する者はこの世に生まれて来なかった方がましであった――すなわち、上なるもの、下なるもの、先なるもの、後なるもの(Mハギガ 2.1)』 そしてこの立場を支持する論拠としてベン・シラの知恵の一説をタルムードは引用している。『自分に難解すぎることを追求するな。自分の手に負えないことを詮索するな。きみの領分と定められたこと、それについて思索せよ。隠された事はきみには用はない(ベン・シラ 3.21,3.22, BTハギガ 13a)』 これはラビ(ユダヤ教の教師)たちの間における典型的な態度であった。ユダヤ教は形而上学的な思索よりも日々の実践に重きを置く宗教であった。世界の創造について書かれた文献『創世記』の最初の文字が、なぜベートという文字から始まるのかという問いに関し、タルムードには次のような言葉が記されている。 『文字ベートは前方以外はすべて閉じている。したがって、きみは上にはなにがあるのか、下にはなにが、先にはなにが、後にはなにがあるのか、と詮索してはならないのであり、宇宙が創造されたその日以後のことだけを考察すればよいのである(PTハギガ 77c)』 こうした形で「前を向いて生きていけばよい」という形のメッセージが残された。しかしそれにもかかわらず、そうした問題について考察したラビもいた。ただし、かれらは自然の観察に基づいてではなく、創世記やエゼキエル書といった聖書の解釈から答えを導き出そうとした。 一方、3世紀のキリスト教神学者アウグスティヌスも「神は世界創造以前になにをなされたか」という問いに対して「この深い神秘を究明しようとするものに地獄を準備しておられた」という似た形の答えを与えた者がいたらしいということを報告しているが、これに対して「わたしはそのような答えを与えようとは思わない」と切り捨て、続けて自身の見解を述べている。彼によれば、時間自体も世界創造に伴って神が作ったのであるから「世界創造以前」というときは存在しないのである。 時代を下って現代においては異なった現象が見られる。世界を説明するものとしての立場を広い範囲で科学に奪われてきた宗教において、科学に説明できない宗教の居場所がまだありそうに思えるほとんど最後の場所、として本稿の問題、宇宙の起源の問題はしばしば宗教側から積極的に言及される。 たとえば1981年にヴァチカンでイエズス会主催で開催された宇宙論会議である。当時の教皇ヨハネ・パウロ二世(1920年 - 2005年)は、招かれた専門家らと会議の終わりに接見するなかで、次のように語ったと言われる。 ビッグバン以後の宇宙の進化を研究するのは大いに結構です。しかしビッグバンそのものを探究してはなりません。なぜならそれは創造の瞬間であり、神の御業だからです。 — 宗教者:ヨハネ・パウロ二世(1981年) ヴァチカン 宇宙論会議 また2010年9月、教皇ベネディクト16世(1927年 - )はイギリスのロンドンでの講演でこう語っている。 人文科学と自然科学は、私たちの存在の諸相についての非常に貴重な理解を与えてくれます。また物理的宇宙の振る舞いについての理解を深め、人類に多大な恩恵をもたらすことに寄与してきました。しかしこうした学問は、根源的な問いには答えてくれてませんし、答えられません。それはこれがまったく違う階層での営みだからです。こうした学問は人間の心のもっとも深い所にある願望を満たすことができません。我々の起源と運命を完全に説明することもできません。人間はなぜ存在しているのか、そして、何のために存在するのかということに対しても説明することはできません。そして「なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか?」 この問いへの完全な答えを与えることもできません。 — 宗教者:ベネディクト16世(2010年9月17日) イギリス・ロンドンでの講演にて (強調引用者) こうした形で本稿の問いに触れる事、研究を禁じることや、また「科学的に分からないことがある、だからそこには何か宗教的なことがあるはずだ」という形の論証(隙間の神)、また「そうでなければ慰めがない。だからそうであるはずだ」という形の論証(慰めからの論証)、については行動的無神論者であるイギリスの生物学者リチャード・ドーキンスや、同じく行動的無神論者であるアメリカの神経科学者サム・ハリスなどが批判を行っている。 たとえば現代の最も有名な無神論者であるイギリスの生物学者リチャード・ドーキンス(1941年 - )は、こうした言明に対し次のような形の批判を行っている。 私の神学者の友人たちは、何度も何度も、この点に立ち返った。なぜ何も無いのではなく、何かが在るのか、これに理由が必要である、と。すべての物事の最初の原因があるだろう、そしてそれに神という名前を与えることもできるだろう、と。しかしすでに言ったように、それは単純なものであり、それ故に、何と呼ぶのであれこれを神と呼ぶのは適切ではない(「神」という言葉から、その言葉が多くの宗教的信仰者の心に浮かばせる様々なもの一切をはっきりと捨て去るのでない限り)。 — 科学者:リチャード・ドーキンス 『神は妄想である―宗教との決別』(2006年) 「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由」 原書 p.155 より訳出、 邦訳書 p.231 (強調引用者) また有名な無神論者の一人であるアメリカの神経科学者サム・ハリス(Sam Harris、1967年 - )は次のような形の批判を行っている。 多くのかつての神学者同様、ID論の愛好者たちは宇宙の存在が神の存在を証明していると繰り返し論じる。次のような議論である。存在するものすべてに原因がある; 時間と空間が存在する; よって時間と空間は、時間と空間の外部のものに原因を持つ; 時間と空間を超越していて、かつそれらを生み出す力を持つのは、神のみである。…数多くの宗教批判者が指摘してきたように、この創造者のアイデアはただちに無限後退に陥る。もし神が宇宙を創ったというなら、では何が神を作ったというのか?…真実はこうである。宇宙がなぜ、またどのようにして存在するようになったのか、それは誰も知らない。宇宙の創造ということについて時間だけを参照しながら整合的に論じられるかもはっきりしない。時空そのものの誕生について考えているからだ。知的に誠実な人であれば、なぜ宇宙が存在するか知らないと言うだろう。科学者らはもちろん、ただちに、自分たちはそれを知らないことを認める。しかし宗教的信仰者はそうではない。とても皮肉な事のひとつは、宗教的な人々はしばしば自分たちを知的に謙虚であると誇ってきたことだ、そして科学者たちは知的に傲慢だと批判してきたことだ。しかし実際のところ、宗教的な信仰者がもつ世界観ほど傲慢な世界観もない。宇宙の創造者は私のことを気にかけており、私を許し、私を愛し、そして私に死後に報いてくれる、こうした信念は聖書に基づいており、世界の終わりまでこれが真実についての最高の説明である、そして私に同意しないものは地獄で永遠にすごす、というのだ。 — 科学者:サム・ハリス 『Letter to a Christian Nation』(2006年) p.30 より訳出(強調引用者) こうした反論は科学者からの解答としてある種の典型的なものであるが、哲学的にはどちらも素朴な部分を持つ。そうした点についてはさらに哲学者から批判が行われる。たとえばドーキンスとサム・ハリスの両者に共通している点として世界が存在することには答えられる理由がある、と前提している点がある(つまり充足理由律をすでに受け入れている)。この点についてドイツの哲学者アドルフ・グルンバウム(Adolf Grünbaum)は次のように批判する。これは本稿の問いを疑似問題と捉える立場からの批判である。 最も広く読まれている二人の無神論の著者 リチャード・ドーキンス(2006, p. 155)とサム・ハリス(2006, p. 73-74)は、この問いが説明的解答を探すべき問いだと認めてしまっている時点で、すでにライプニッツのしかけた罠にはまっている。... しかし当然ながら、疑似問題に答えられないことは科学者や哲学者、または道端にいる人の無知を示すものではない。 — 哲学者:Adolf Grünbaum (2009). “Why is There a World AT ALL, Rather Than Just Nothing? 話を教皇に戻すと、ベネディクト16世の次代の教皇フランシスコは科学の理論としてのビッグバンに肯定的に言及しており、カトリック教会の教皇に限定してもビッグバンの扱いに関して態度が一貫しているわけではない。また、カトリック教会のカテキズムのうち宗教と科学の関係について述べた159番に「世俗の現実と信仰の現実とはともに同じ神に起源を持つもの」と述べられているように、科学的にわかるかどうかにかかわりなく全ての根源には神があるというのがカトリック教会の立場であり、隙間の神的な論証だという批判はあたらない。
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