ユダヤキリスト教とは? わかりやすく解説

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ユダヤ・キリスト教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 04:07 UTC 版)

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」の記事における「ユダヤ・キリスト教」の解説

詳細は「創世記」を参照 ユダヤ教、そしてその後つらなるキリスト教(及びイスラム教)は全知全能の神による世界の創造説いてきた。 もっとも、古来ユダヤ教内部では、本稿のような問い投げかけることはある種タブー不道徳な行為として戒められてきた。これは存在問題について本当に追求をはじめると、素朴な宗教的な説明ではとても納得できなくなる(例えば神がなぜあるのか、神がいるとしてその神が世界作ったならなぜ苦しみがあるのか、といった問題)、そしてそうした論理的問題から信仰からの離脱不信仰を引き起こしやすいためであった例えユダヤ教聖典であるタルムードには次のような記述がある。『以下の四つのことについて思索する者はこの世生まれて来なかった方がましであった――すなわち、上なるもの、下なるもの、先なるもの、後なるもの(Mハギガ 2.1)』 そしてこの立場支持する論拠としてベン・シラの知恵一説タルムード引用している。『自分難解すぎることを追求するな。自分の手負えないことを詮索するな。きみの領分定められたこと、それについて思索せよ。隠された事はきみには用はない(ベン・シラ 3.21,3.22, BTハギガ 13a)』 これはラビユダヤ教教師)たちの間における典型的な態度であったユダヤ教形而上学的な思索よりも日々実践重きを置く宗教であった世界の創造について書かれ文献『創世記』最初文字が、なぜベートという文字から始まるのかという問い関しタルムードには次のような言葉記されている。 『文字ベート前方以外はすべて閉じている。したがって、きみは上にはなにがあるのか、下にはなにが、先にはなにが、後にはなにがあるのか、と詮索してならないのであり、宇宙創造されその日以後のことだけを考察すればよいのであるPTハギガ 77c)』 こうした形で「前を向いて生きていけばよい」という形のメッセージ残された。しかしそれにもかかわらずそうした問題について考察したラビもいた。ただし、かれらは自然の観察基づいてではなく創世記エゼキエル書といった聖書の解釈から答え導き出そうとした。 一方3世紀キリスト教神学者アウグスティヌスも「神は世界創造以前になにをなされたか」という問いに対して「この深い神秘究明しようとするものに地獄準備しておられた」という似た形の答え与えた者がいたらしいということ報告しているが、これに対して「わたしはそのような答え与えようとは思わない」と切り捨て続けて自身見解述べている。彼によれば、時間自体世界創造伴って神が作ったのであるから「世界創造以前というときは存在しないのである時代下って現代において異なった現象見られる世界説明するものとしての立場を広い範囲科学奪われてきた宗教において科学説明できない宗教居場所がまだありそうに思えるほとんど最後の場所、として本稿問題宇宙起源問題はしばし宗教側から積極的に言及される。 たとえば1981年ヴァチカンイエズス会主催開催され宇宙論会議である。当時教皇ヨハネ・パウロ二世1920年 - 2005年)は、招かれ専門家らと会議終わり接見するなかで、次のように語ったと言われるビッグバン以後宇宙の進化研究するのは大い結構です。しかしビッグバンそのもの探究してはなりません。なぜならそれは創造瞬間であり、神の御業だからです。 — 宗教者ヨハネ・パウロ二世1981年ヴァチカン 宇宙論会議 また2010年9月教皇ベネディクト16世1927年 - )はイギリスロンドンでの講演でこう語っている。 人文科学自然科学は、私たち存在諸相についての非常に貴重な理解与えてくれます。また物理的宇宙振る舞いについて理解深め人類多大な恩恵もたらすことに寄与しきました。しかしこうした学問は、根源的な問いには答えてくれてませんし、答えられません。それはこれがまったく違う階層での営みだからです。こうした学問人間の心のもっとも深い所にある願望満たすことができません。我々の起源運命を完全に説明することもできません。人間はなぜ存在しているのか、そして、何のために存在するのかということに対して説明することはできません。そして「なぜ何も無いではなく、何かが在るのか?」 この問いへの完全な答え与えることもできません。 — 宗教者ベネディクト16世2010年9月17日イギリス・ロンドンでの講演にて (強調引用者) こうした形で本稿問い触れる事、研究禁じることや、また「科学的に分からないことがある、だからそこには何か宗教的なことがあるはずだ」という形の論証隙間の神)、また「そうでなければ慰めがない。だからそうであるはずだ」という形の論証慰めからの論証)、については行動的無神論者であるイギリス生物学者リチャード・ドーキンスや、同じく行動的無神論者であるアメリカ神経科学者サム・ハリスなどが批判行っている。 たとえば現代の最も有名な無神論者であるイギリス生物学者リチャード・ドーキンス(1941年 - )は、こうした言明対し次のような形の批判行っている。 私の神学者友人たちは、何度も何度も、この点に立ち返った。なぜ何も無いではなく、何かが在るのか、これに理由が必要である、と。すべての物事最初原因があるだろう、そしてそれに神という名前を与えることもできるだろう、と。しかしすでに言ったように、それは単純なものであり、それ故に、何と呼ぶのであれこれを神と呼ぶのは適切ではない(「神」という言葉から、その言葉多く宗教的信仰者の心に浮かばせる様々なもの一切をはっきりと捨て去るのでない限り)。 — 科学者リチャード・ドーキンス神は妄想である宗教との決別』(2006年) 「第4章 ほとんど確実に神が存在しない理由原書 p.155 より訳出邦訳書 p.231 (強調引用者) また有名な無神論者一人であるアメリカ神経科学者サム・ハリスSam Harris1967年 - )は次のような形の批判行っている。 多くのかつての神学者同様、ID論愛好者たちは宇宙存在神の存在証明していると繰り返し論じる。次のような議論である。存在するものすべてに原因がある; 時間空間存在する; よって時間空間は、時間空間外部のものに原因を持つ; 時間空間超越していて、かつそれらを生み出す力を持つのは、神のみである。…数多く宗教批判者指摘してたように、この創造者アイデアはただちに無限後退陥る。もし神が宇宙を創ったというなら、では何が神を作ったというのか?…真実はこうである。宇宙がなぜ、またどのようにして存在するようになったのか、それは誰も知らない宇宙の創造ということについて時間だけを参照しながら整合的に論じられるかもはっきりしない時空そのもの誕生について考えているからだ。知的に誠実なであれば、なぜ宇宙存在する知らないと言うだろう。科学者らはもちろん、ただちに、自分たちはそれを知らないこと認める。しかし宗教的信仰者はそうではない。とても皮肉な事のひとつは、宗教的な人々はしばし自分たちを知的に謙虚であると誇ってきたことだ、そして科学者たち知的に傲慢だ批判してきたことだ。しかし実際のところ、宗教的な信仰者がもつ世界観ほど傲慢な世界観もない。宇宙の創造者は私のことを気にかけており、私を許し、私を愛し、そして私に死後報いてくれる、こうした信念聖書基づいており、世界の終わりまでこれが真実についての最高の説明である、そして私に同意しないものは地獄永遠にすごす、というのだ。 — 科学者サム・ハリスLetter to a Christian Nation』(2006年) p.30 より訳出強調引用者) こうした反論科学者からの解答としてある種典型的なのであるが、哲学的にどちらも素朴な部分を持つ。そうした点についてはさらに哲学者から批判が行われる。たとえばドーキンスサム・ハリス両者共通している点として世界存在することには答えられる理由がある、と前提している点がある(つまり充足理由律をすでに受け入れている)。この点についてドイツの哲学者アドルフ・グルンバウム(Adolf Grünbaum)は次のように批判する。これは本稿問い疑似問題捉える立場からの批判である。 最も広く読まれている二人無神論著者 リチャード・ドーキンス(2006, p. 155)とサム・ハリス(2006, p. 73-74)は、この問い説明的解答探すべき問いだと認めてしまっている時点で、すでにライプニッツしかけた罠にはまっている。... しかし当然ながら、疑似問題答えられないことは科学者哲学者、または道端にいる人の無知を示すものではない。 — 哲学者Adolf Grünbaum (2009). “Why is There a World AT ALL, Rather Than Just Nothing? 話を教皇に戻すと、ベネディクト16世次代教皇フランシスコ科学理論としてのビッグバン肯定的に言及しており、カトリック教会教皇限定してビッグバン扱いに関して態度一貫しているわけではないまた、カトリック教会のカテキズムのうち宗教と科学の関係について述べた159番に「世俗現実信仰現実とはともに同じ神に起源を持つもの」と述べられているように、科学的にわかるかどうかかかわりなく全ての根源には神があるというのがカトリック教会立場であり、隙間の神的な論証だという批判あたらない

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